あきらめること、手放すこと

 知らず知らずのうちに、きっと人生ってこういうものだろうと勝手に予想して、私もそんな風に年を重ねるのだと期待していたことは、ちっとも当たらなかった。結婚も、出産も、子育ても、人生は全然、思い通りにならない。きっとみんなそうなのかもしれないね。思い通りにならないことが、人生なのかもしれない。わかっているつもりでいたけれど。それにしても。

 娘が不自由な身体を持って生まれたことで、私が漠然と思い描いていた、子どもや子育てに対する願いは、ことごとく手放さなければならなかった。「一緒にピアノが弾ける日が来るかな」「たくさんの歌を一緒に歌おう」「一緒に旅行に行けたらいいな」それらは、結局ひとつも叶うことはなかった。「元気に生まれてきてくれればそれでいい。」それさえも。

 「這えば立て、立てば歩めの親心」ということわざがあるが、娘の身体は不自由過ぎて、その「這う」ところまでも到達しなかった。寝返りも、首すわりも、口から食べることも、自分の手で何かを掴むことさえ、あきらめなければならなかった。

 障害児の親は本当にたくさんあきらめて、折り合いをつけて、生きていく。「この子にとっては、これが普通」と、未知なる「普通」を更新していく。それは決して不幸な訳ではないけれど、こんな子育てがあるのだと知って、驚き、戸惑い、傷つき、慣れ、そしてあきらめる。何度も、何度も。

 生まれた時は「おめでとう」どころではなかった。この子は果たして生きられるのか、不安でたくさん泣いた。百日のお祝いは、まだGCUで入院中に迎えた。看護師さんの手作りという、美しいフェルトのお食い初めセットは今でも宝物だ。他人の子どもを、こんなにも大切に思ってくれる大人がいるのだと知って、とてもありがたかった。一歳のお誕生日は、4か月にも渡る肺炎の入院から、やっと退院した日。クマちゃんのケーキと一升餅の写真を撮った。背負うことはできなかった一升餅。それでも良いと思った。生きてさえいてくれれば。

 母子手帳の成長曲線に当てはまることも、「〇〇をしますか?」の質問に「はい」と答えることも、早々にあきらめた。娘は独自の成長を遂げている。それで良い。保育園もあきらめた。我が家の生活スタイルに合う選択肢は、一つもなかった。多くのお母さんは、ここで仕事も手放すのだ。シングルになってしまった私は、仕事を手放す代わりに、自分の手で娘を育てることをあきらめた。娘を生かし、自分も生きなくてはならないと思ったから。

 娘はせっかく大きな声で呼んでアピールしていたのに、そしてそれが彼女の唯一のコミュニケーション手段だったのに、気管切開で声を手放した。見た目にそぐわない可愛いハスキーボイスで、「あー!」と笑うこともできなくなった。90センチサイズになって、前開きの服がほとんど売られていないので、近所で娘が着られる服を買うことも、あきらめた。最後は病衣と肌着姿の写真ばかりになってしまった。「今は仕方ない」と自分に言い聞かせていたけれど、本当は可愛い服を着せたかったな。行きつけの「ブティック」西松屋で、来年用にと買って楽しみにしていた、夏物のブルーの花柄ワンピースにもピンクの浴衣にも、袖を通す日はとうとう来なかった。延び延びになって、実現しなかった七五三の写真撮影。美容室に髪を切りに行って、その髪で筆を作ることも叶わなかった。娘は、しまいには命さえ手放さなくてはならなくて、結局初めてのヘアカットは、亡くなってからの病理解剖になってしまった。(髪をもらってきたから、筆はまだ諦めていないけれど。)

 ねえ。全ての小さな願いは、指の間からするするとこぼれ落ちていってしまったよ。私に残ったものは、大きな悲しみと、娘との思い出だけだ。私の願いは、そんなに大それたものだったかしら。

 人生は思い通りにならない。そういうものだし、きっとそれで良いのだと、自分を慰めてみるけれど。そして娘はもう戻って来られないのだということを、少しずつ実感して、あきらめて、前へ進んでいかなければならないのかな。心が「手放したくない」と執着する。娘の温かい記憶に、失った悲しみに、しがみついたままどこにも行きたくない自分がいる。ソファで丸くなってぼーっとしている間に、数時間があっという間に溶けてしまって、何も手につかない。

 毎日薄紙を剥ぐように、ほんの少しずつ息がしやすくなっているようだ。そうかと思えば突然思いもよらないタイミングで、悲しみが押し寄せて身動きができない。「大変な思いをしているね。この痛みや苦しみが、きっといつか宝物になるよ。」と言って、一緒に泣いてくださった方がいて。きっと心にたくさんの宝物を持って、いつか娘の待つ場所へ私も行こう。このまま耐えて進んだ先に、再びちゃんと前を向ける日が来たら、人生で今より悲しいことは、二度と起こることはないのだから。そして娘が向こうで待っている今、これまでこの上なく恐れ、できる限り避けてきた「死」というものさえ、私と親しいものとなり、誕生と同じ、人生の一つの通過点として、敬いはしても、もう恐れる必要がなくなった。

 娘は最初から最後まで、頑張って頑張って頑張って生きた。生きることが本能だと言わんばかりに、最後まで生きることを疑っていなかったように思う。私も娘を見習って、命ある限り頑張って生きよう。やがてこの命が尽きる時、私は娘に再び出会う期待に胸を膨らませて、迷うことなく真っ直ぐに、向こうへ旅立つことができるだろう。

 さあ、ママは泣きながら前へ進むよ。きっと人生は一刹那。これまでの人生だって、あっという間だったもの。また会おうね。大好きよ。ママの宝物の人。

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