負わされたレッテル(僕が失明するまでの記憶 22)

 残念ながら願いは聞き入れられなかった。手術の結果は思わしくなく、見え方が明らかに悪化した。僕の視力は最も大きいランドルト環をかなり近づけないと識別できないほどにまで低下していた。しかもそのCの字は不気味に歪んでいた。

 窓、柱、ベッドの柵、本来なら真っ直ぐに見えるはずのものが、分厚いガラス瓶を通して見るように波打っていた。さらには世界から「色」が失われていた。視界の全体がセピア色がかり、何を見ても古ぼけた遠い記憶の映像を眺めているようだった。僕は何度となく目の前で自分の手を開いたり握ったりした。確かに見えてはいる。でもそれが現実の世界には見えなかった。心に思い描く色鮮やかな風景の方がむしろ現実に近かった。でも空想は現実ではない。セピア色の歪んだ世界こそが現実だった。

 3月の手術で危機的な状況を脱して以後、疑うことなく治療の効果を信じてきたが、脳裏に初めて恐怖が過った。セピア色の歪んだこの世界を、過去にも経験したことがあったからだ。

 4年前、小学3年生の夏に左目を手術したときも、これと同じような見え方を呈していた。その時は見えている右目があったので気にもしなかったが、今はもう崖っぷちだった。もしこのまま病状が進んだらどうなるだろう。左目と同様、視力が永遠に戻らなかったとしたら。

 ほどなく不安に追い打ちをかける出来事が起こった。主治医のM先生が唐突に障害者手帳の取得を提案してきたのだった。あくまで長期化して嵩む医療費を少しでも軽減するための配慮だと先生は説明した。僕は頑なに拒んだ。障害者になんて絶対になりたくなかった。そんなレッテルを貼られて生きるなどまっぴらごめんだった。それならいっそ死んだ方がいいとさえ思った。

 どんなに訴えても思いは聞き入れられず、粛々と手続きが進められた。こうして僕は兄と同様、障害者となった。社会から冷遇され、疎まれるあの障害者に。