孤独な夏休み(僕が失明するまでの記憶 24)

 僕の病室はナースステーションに一番近い、重症の患者が多く収容される傾向のある部屋だった。それでも僕ほど長く居座っている患者は稀だった。患者でいる間は互いに同志という感覚が生まれるものだが、病気が治癒して退院していく人を見送る度、心は暗く沈んだ。パジャマから私服に着替え、再び陽の当たる場所を歩く自分を、どうしても想像できなくなっていた。

 6人部屋だった僕の病室は、手前から窓側に向かって左右に三つずつベッドが置かれており、僕は手前右側のベッドだった。その向かい、手前左側にいたのは、夏の初めに運ばれてきたIさんという麻酔科の患者だった。

 6号棟の5階にあった僕の病棟は、主に眼科と麻酔科の患者が入院していた。恐らくは慢性的な痛みをコントロールするものだろうと推測していたが、麻酔科で入院する患者というのがどんな病気を持っているのか、詳しくは知らなかった。自分に関係ないことに興味を持てるほど心の余裕はなかったのだ。

 他の4つのベッドは比較的短期間のサイクルで患者が入れ替わるのだが向かいのIさんは僕と同様自らの陣地を占拠し続けていた。

 老齢の患者が多数を占める中、Iさんはどちらかといえば若い部類に入る、恐らくは働き盛り真っただ中に入る男性だった。その時代には珍しく携帯電話を保有しており、会話する快活な声がたまに聞こえてきた。声を聞いている限りでは、かなりやり手のビジネスマンという風情で、普通の患者とは明らかに違うオーラを放っていた。

 実は僕は一度もIさんと言葉を交わしたことがなかった。ただそうする機会がなかったこともあるし、空いても特に僕と話をしたいようには見えなかった。あるいは入院が長引いている境遇の近さが、自分の痛みを投影しているようで、逆に距離を置きたかったのかも知れない。何にせよ、左右両サイドの重たい反目は部屋に一層の緊張感を与え、僕の苛立ちは募るばかりだった。

 苛立ちとともに、僕は激しく怯えてもいた。これ以上治療を続けても病気は治らないと言われる日が遠からぬうちに来ることを、うすうす感じ取っていた。治らない治療など早く止めてしまいたい。その反面、どんなに小さくともゼロではない可能性に一日でも長く縋っていたい。心の中で両極端な思いが鬩ぎ合い、身動きが取れなくなっていた。

 夏休みということもあってか、この時期は若い患者も多く見受けられた。僕が最年少であることに変わりはなかったが、同じ部屋に高校生が入院してきた(僕の斜め前、Iさんの隣のベッドだ)。緑内障でこれまでも何度か入院したことがあったそうで、すでに障害者手帳を所持しており、そのメリットについて親同士が意見を交わし合っていた。

 その高校生のところには親の他、たまに若い女の子が面会に来ていた。同じ学校に通う彼女とのことだった。

 僕のところには親以外ほとんど誰も来なかった。女の子どころか、仲の良かった友達すら現れなかった。手紙も電話もない、というより、そもそも新しい中学に友達などいなかったことに気付いた。それまでの友達はあくまで小学校時代の友達だった。彼らにとって小学校はもはや過去のもので、その頃の友人が入院していたとしても、どうして気に留めることがあるだろう。存在すら忘れ去られていてもおかしくはない。僕はたまらなく悲しい気持ちになった。1秒でも早く小学生時代を過去に追いやり、先へ進みたかったのはほかならぬ自分自身だったというのに。