家族について(僕が失明するまでの記憶 3)

 家は4人家族で、両親と兄がいた。当時としては典型的な家族構成と言える。しかし、控えめにも「典型的」とは言えない事情を、我が家は抱えていた。
 学年で三つ年上の兄には障害があった。重度の自閉症とそれによる知的障害(当時は精神薄弱とか知恵遅れと言っていた)との診断で、それを証明する手帳の交付も受けていた。
 兄は頑張っても2語文でしか話せなかった。「バス、来る」「テレビ、診た」「みかん、ない」といった具合だ。心とか愛とか人生とか、そういった類の目には見えない抽象的な概念を表現する語彙はない。感情表現にも乏しく、焦点の定まらぬ潤んだ瞳は、どこか頼りなげな印象を周囲に与えた。
 兄は幼稚園こそ障害児向けの施設に通ったが、小学校と中学校は家の近くの一般校で学んだ。知恵遅れの子がどのような学校生活を謳歌していたのか、詳しいことは知らない。ただ、その地域で暮らす障害を持った子供たちの多くは、中学までは地元の学校で過ごすことが通例とされているようだった。
 それなら町の中で障害者、あるいは障害というものが受け入れられていたのかというと、決してそうではない。むしろその逆だった。障害がある、普通とは違うというだけで、兄には、あるいは兄を含めた我が家には、絶えず冷ややかな視線が注がれていた。兄の障害はいつも家族に暗い影を落としていた。
 両親は社会に対して障害者の人権を擁護して権利を主張する進歩的なタイプではなかった。いのちの尊さを説く博愛主義者でもなかった。障害児が家族にいること、障害児を社会に生み落としてしまったことに引け目を感じ、絶えず何かにおびえているようだった。「もっと堂々としていればいいのに」と両親に対してことあるごとに不満を抱きつつも、結局のところ、どこまで行っても自分達は社会の多数派から冷遇される、特異な存在なのだと、僕は諦めていた。
 当時、子供達の間では、障害のある人々を「ガイジ」と言って罵る風潮があった。それと思しき人を見かけたとき、目に嘲笑の光を湛えながら、「あそこにガイジがいる」みたいな感じで使うのである。友達と一緒にいるときにそんな状況に遭遇すると、さすがに一緒になってからかうことはしなかったが、といって彼らを責めたり過ちを問いただしたりするなど出来るはずもなく、後味の悪さを噛み殺しながらあいまいにその場をやり過ごすのが常だった。