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ピンク色のマナティ2

私は水の中でもがいていた。
苦しい。全身の全力を使って空気を求める。両手でとにかく空気を探す。
あ!ふと右手が水面に出たことを感じた。ああ、ああ、吸って吐いて、吸って、吐いて、落ち着け私。水面に顔を出す。ああ、微かな安堵が心をかすめるが、束の間のことだった。微かな安堵が生んだ隙間かや絶望が雪崩れ込んできた。

苦しい。何かに掴まりたい。

視界にボートが見えた。夢中でボートまで泳ぐ。全身で泳ぐ。ボートだ。ボートへ向かえ。全身で泳ぐ。
バン、左手がボートの「腹」に当たる。固い。ボートの縁を右手で探る。水面から上に向かって腕を伸ばすのは大変だ。全身で水上へ向かう「勢い」を生み出す。両手両腕を使って水を掻き、足で水を蹴り、水上へ飛び出し、両手をボートの縁を引っ掛ける。よし、できた。しばらくそのまま、両手を縁に引っ掛けてだらりと腕を伸ばしたまま、私は動くことができない。呼吸が激しい。吐いて、吸って、吐いて、吸って、落ち着け、落ち着け。喉に鉄の味がする。ボートによじ登ろうとやっと頭を動かして見上げたら、空が見えた。青い空。空の青さはなんて美しいのだろう。刹那の間に私は命の全てで空を見た。

視界に何か見えた。あ、人だ、と思った刹那にゴン!という音が強烈に響いた。空前絶後、という表現がピタッタリの、凄まじい衝撃が、右手から、次に左手から脳天に突き抜けた。

一瞬の中に全てがある。
「全て」とは、始まりの前と終わりの向こう側を含む。光とは広がり続ける衝動、闇とは無条件にそして永遠に光を受容し続ける愛である。

私は水の中で、痛みと苦しさにもがいていた。全身の全力を使って叫ぼうとしたけれど、私は完璧な静寂の中にいた。冷たくて透明な水の向こう側にボートの「腹」が遠ざかっていくのが見える。光が遠ざかっていく。焦がれる思いで光の方へ両手を伸ばす。

透明な水の中に、薄桃色の雲が広がって行くのが見えた。光を求めて伸ばした私の両腕の先から薄桃色の雲が広がる。私の両手は無慈悲に切断されたのだ。ボートの縁を必死に掴んだのが私の両手の最後の記憶となった。

愛は温かくて優しい。愛は際限なく湧き出るもの。私の愛が私の両手から、両手を切られた切り口から際限なく流れ出て透明な水の中に広がっていく。

透明な水の中に広がった薄桃色の愛は、やがては柔らかに透き通るピンク色のマナティとなった。柔らかな透き通るピンク色をしたマナティは透明な声で愛の歌を歌う。


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