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邦楽は好きじゃないけど、「最近の邦楽はダメ」って言われるとムカつくって話

「社会問題について歌わない音楽は格が低い」
「社会問題について歌わないから邦楽はダメ」

そんな意見は事あるごとに、具体的にはぶっちゃけアーティストの行動や言動が炎上するごとに聞かれます。
調べてみるとこの意見、有名な音楽ライターからいちリスナーまで同意している方が多い模様。

ですが私はこの意見に1ミリも賛同できません。いやまあ一応音楽史やロック史は一通り勉強してるので、心の底を探れば0.5ミリくらいは賛成してるかもしれないけど、それにしたって「いくらなんでもその意見は雑すぎるやろ」という話。

今回は、何とは言いませんが気になるツイートを見かけたので、普段ゆるいコラムばっかり書いている私ですが、たまには真面目な文章を書いて考えていきたいと思います。

1.主語がデカすぎる意見は嫌われる

「社会問題について歌わない音楽は格が低い」
「社会問題について歌わないから邦楽はダメ」

まずこの意見、さすがに主語がデカすぎませんか。

近頃のTwitterでは「男は~」「女は~」「オタクは~」「日本は~」「海外は~」といったクソデカ主語ツイートが度々バズりますが、どれもこれもマジで主語がデカすぎると思います。海外は、ってどこの国っスか。私は海外で暮らしていたことがありますが、これ系のツイートに賛同できたことがほとんどありません。ひょっとして私が住んでたのは海外じゃないのか。

主語がデカい話は、総じて「雑で乱暴」です。「特撮の良さは女には理解できない」なんて言われたら、当然炎上待ったなし。当たり前です。別に特撮好きではない私も「女」部分に引っかかってムカつきますから。「生きている人間は基本的に心臓が動いてる」みたいなものでもない限り、主語がデカい話は全く正しい意見にはなりません。

主語がデカいことの何がいけないって、断定形でたくさんの人をモヤモヤさせた挙句、例外が多すぎて何を論じたことにもならないで、不快感だけがあることです。「AはBである」と言い切ったとき、「いやCもあるぞ」「Dも」「Eは?」「Fはどうした」が無限に出てきちゃ、そもそも断言した意味が無い。それは総意を代表するフリをした、極個人的な意見の表明にすぎません。このコラムと同じく、出典が一切無いレポートみたいなものです。

しかも総意を代表するフリをしてるから、勝手に反対意見の仲間に入れられたり中傷されたりするのがタチ悪い。「本当の音楽好きは邦楽ロックを聴かない」という言葉でイラっとするのは、邦楽ロックのアーティストや彼らを愛聴する人だけではありません。

そんな中で、「社会問題について歌わない音楽は格が低い」「だから邦楽はダメ」は明らかに主語がデカすぎる。社会問題について歌ってきた数多の邦楽アーティストを無視するのは暴論が過ぎますし、彼らは一部の例外として無視できるほど少ないわけもないでしょう。逆に、日本以外の全ての国のアーティストは社会問題について歌っているのか?という疑問もあります。歌ってないでしょ。

それは多くの人が当たり前に思いつくことなので、当然反発が返ってきます。自分の好きなアーティストが社会問題を歌っているわけじゃなくても、「いや、社会問題について歌ってる邦楽アーティストいっぱいいるよね?」「社会問題について歌ってる邦楽アーティストの立場は?」という意見が出てきます。

人を不快にさせる意見を表明するな、とは言いません。それは思想の自由ですし、そこから議論が深まって音楽への新しい視点が生まれるのは良いことです。

しかし、勝手に総意を代表するような言葉を投げかけたならば、反論は当たり前にあるもの。こういった話には正解もありませんし、多様な意見に対して誠実に向き合い、相反する考えを受け入れて意見をブラッシュアップさせていくべきだと思います。

2.音楽が先か、問題が先か

邦楽と社会問題について語るとき、多くの方が真っ先に思い浮かべるアーティストは忌野清志郎かなと思います。いまさら紹介するまでもありませんが、忌野清志郎は政治や社会問題について歌うロックシンガーとして最も有名なひとりでしょう。
彼を比較対象として、「忌野清志郎のような主張のある音楽をやる若者がいなくなった」とはよく言われます。

しかし、忌野清志郎をはじめとする政治や社会問題について歌うアーティストは、「社会問題を歌っているから」優れているのでしょうか?

多分、違います。彼らが優れているのは「音楽」であり、「主張」はその後。まず音楽が優れているからこそ、彼らの楽曲はリスナーの政治信条を問わず愛されているのだと思います。事実、思想的には相容れないものの、忌野清志郎や頭脳警察を愛聴するリスナーはたくさんいるようです。

考えてもみてください。あるアーティストに対して、「あなたの思想とは合わないけど、あなたの音楽は好きだからCDを買う」って人と、「あなたの音楽は合わないけど、あなたの思想は好きだからCDを買う」って人、どっちの方が多いのでしょうか?後者の割合が圧倒的に多かったら、それはもうアーティストというより活動家だと思います。

アーティストが楽曲内で思想信条を表明すること、それは素晴らしいことですが、それはあくまで音楽ありきのもの。「楽曲で思想信条を表明しないアーティストはダメ」という批判は安直でしょう。

多くの人にとって、音楽は娯楽です。好きな曲を聴いて現実世界のストレスを発散したい人の中には、社会問題や政治信条の表明を重要視しないどころか、言語自体を邪魔に思ってインストゥルメンタル系に傾倒する方も少なくありません。

個人としては強い意見を持ちつつも、楽曲内ではそれを表明しないことにしているアーティストも多々います。目的を持って社会問題から離れた作品を作る人もいます。クラシックの演奏家などは、演奏に個人的な思想性を入れることを嫌う方もいます。

そういったアーティストの楽曲をも「ダメ」と括ってしまうのでしょうか。一部の例外とするには、あまりに数が多いでしょう。

たまに聞かれる「音楽を聴いて何かを感じるべき」「感じないようではだめ」といった意見は、いわゆる“音楽ファン”だけのものにとどめておくべきだと思います。
音楽に「かくあるべき、そうでなければダメ」を決めがちなのはノーミュージック・ノーライフの音楽ファンです。趣味を極めると選民意識が高くなることは、どの世界にもあることです。

しかし、世の中にはファミレスのお水くらいの感覚で音楽を聴く人がたくさんいます。顔や性格が好きでアーティストを応援する人もたくさんいます。そういったファンのお金が巡りに巡ってマイナーなアーティストを支えていたりもします。

そういった方々にも「かくあるべき」を押し付けると、争いしか生みません。どうして好きなことに「正しい、正しくない」を押し付けられなければいけないのでしょうか。好きな気持ちや楽しみ方に、正しいも正しくないもあってはなりません。これは私の絶対曲げられない意見です。
「かくあるべき」の押し付け合いは、結局何も良いことがありません。

3.寛容に見せかけた炎上1発アウト社会で歌うことのリスク

近頃の世の中は「炎上1発アウト社会」だと思います。自分と党派性が合わなければアウト。数十年前に問題発言が一つあればアウト。何かの思想に同調していればアウト。ライブで疑問視される演出があればアウト。
こんな世の中で、「現在政治的に正しいとされている主張以外の論」を歌うことはきわめてハイリスクだし、正しいとされてる主張を歌うこともけっこうなリスクです。

数年前には某ロックバンドの新曲の歌詞が軍歌的・国威的だと批判され、謝罪騒動に発展しました。本来これは謝罪まですることはない騒動だと思います。日本には表現の自由があり、批判の自由があり、それでも表現する自由があります。この作品について“謝る”必要はないでしょうし、批判者の中にも「さすがに謝る必要はない」と言っていた方がいました。

それでもバンドが謝罪に至ったのは、この炎上1発アウト社会の影響があると思います。今後ずっとこの1曲のことで誤解され、批判され続けてはたまりません。

最近は「フォロー罪」「RT罪」「いいね罪」なんて言葉も騒がれます。自分と相容れない思想をいいねすることが許されないならば、社会問題について歌うことは大きなリスクでしょう。

そのリスクを恐れずに歌うアーティストもいますが、こちらはこちらで「逆」が無いのが考えどころ。「税金搾取する政府はクソだ」という曲はたくさんありますが、「役人の言う事聞いて税金ちゃんと払え」と真面目に主張する曲はあんまり見ません。

これを言うと「音楽は昔から反体制的・リベラル的なものだから」と反論されるのですが、伝統をぶち壊し自由にすることを美徳とする芸術界に、どうしてそこだけ伝統を持ち込まなければいけないんだと思います。仮に世界がラブ&ピースに溢れた争いの無い理想の世の中になったら、ロックは反体制として戦争を賛美するのか。第一リベラルって“自由主義”なんだから、たとえ間違ったことを歌っていても良いじゃないですか。

近頃、表現の世界はあまりに「誰かを不快にさせないように」に寄り過ぎていると思います。芸術関係の炎上・謝罪騒動の中心は、不快に思った人がいたかどうか。「誰も不快にさせない表現」が求められています。

ですが、不快に思わない人がいない表現なんてひとつもありません。私はピアノの音が入ったヒーリング音楽を聴くとソルフェージュの授業みたいでイライラします。ごはんがアツアツだと気持ち悪くなります。あと果物全般が嫌いです。

多様性や寛容性が叫ばれる現代ですが、「不快」に対する寛容さは下がる一方です。ある表現について自分が不快に思ったとき、それがよほど反社会的だったり法令違反のものでもない限りは、そっと無視するのが本当の多様性ではないでしょうか。

もちろんそれは「批判をするな」という意味ではありません。批判はあるべきです。しかしズレた批判は誹謗中傷と同じこと。たとえば「この不快な表現が生まれた責任は日本社会にある!」みたいなことは、話が壮大な陰謀論すぎる。批判するならば、理批判すべきところを正面から批判すれば良い。
近頃はエコーチェンバー現象で自分に同調する意見が多数派に見えることも留意するべきかと思います。

4.そもそも、批判したいのは「何」で「誰」?

ここでそもそもの話ですが、

「社会問題について歌わない音楽は格が低い」
「社会問題について歌わないから邦楽はダメ」

この意見って、本当に「社会問題について歌わない音楽」を批判しているのでしょうか?

私にはこの意見が、「邦楽が嫌い」という個人的な好みを正当化するための言葉に見えます。つまり、前提として「私は邦楽が嫌いだ」があり、そこに理論づけするためのもの、ということです。

ここでいう「邦楽」は、多くの場合おそらく表面的なものにすぎません。簡単に言ってしまえば「若者がキャーキャー言ってる音楽」を邦楽と呼んでいるもの。それゆえ「邦楽はクソ」と言っている方が批判するアーティストはONE OK ROCKやback numberあたりが多く、同じく邦楽アーティストである宇多田ヒカルや人間椅子などに批判が集まる所はあまり見ません。自分で書いといてアレだが宇多田嬢と人間椅子って何の共通点があるんだ?

「邦楽はクソだけどAとBとCとDとEとFとG、H界隈とIジャンルは許せる」
……みたいなことを言う人はたくさんいますが、そんなに例外があったら、もはや「邦楽はクソ」って前提が崩れます。「ぶどうは嫌いだけど巨峰とシャインマスカットとデラウェアとピオーネは好き」って言われたら「何言ってんの?」って感じですし。ぶどう全然好きじゃん。詳しいじゃん。

本当に邦楽が嫌いな人もいるでしょう。日本語の曲が受け付けないって人も絶対いる。ただ、「邦楽はクソだけどAとBとCとDと~」みたいな人は、素直に「○○(自分の嫌いなアーティスト)はクソ」と言ってしまえばいい。「私は○○が嫌いだ」とストレートに言ったほうが、まだ理路整然としています。

音楽の好みは世代論に直結します。50年前のラブソングを聴いて、価値観の違いから顔をしかめる若者はたくさんいますし、古いプロテストソングに共感できない若者も、コミックソングで不快になる若者もいます。
「邦楽はクソ」と言っている人が本当に不快なのは、この「自分の青春時代を彩った名曲に引き、新しい価値観で作られた楽曲に熱狂する若者」のほうではないでしょうか。

もちろん、単純に「昔の音楽のほうが(価値観やサウンドの好みに合うから)好き」な人もたくさんいます。私だって苦手な若手アーティストはいっぱいいるし。それに、「アーティストの音楽そのものではなくファンのノリが気に食わなくて好きじゃない」も結構あって、これがなかなか厄介です。

このごろ、「好き」を表明することは誰にだって簡単なことになりました。一方「嫌い」を表明することは昔よりも難しくなったと感じます。
そんな世界で「嫌い」を表明することには、様々な理屈をこねくり回して社会的な正当性を唱える必要がある、と思っている人も少なくないのかもしれません。

ですが、本来の好き嫌いは理屈を抜きにしたもの。理由なんか「嫌いだから嫌い」で良いし、それが一番だと思います。

5.結局何が言いたいのか

ここまで言っといてなんですが、私もぶっちゃけメジャーシーンを賑わせる「若者の音楽」や「最近の邦楽」を好んで聴くことはありません。同世代のみんなと共有する青春の音楽も無く、音楽番組や若者が集まるフェス、オタク系のイベントからも距離を置いています。

だけど、いろんなものを一括りにされて「最近の邦楽はダメ」と言われると、なんだかわからないままムカっ腹が立ちます。「あんたホントに全体論を言えるほど最近の音楽聴いてんのか?私は聞いてないから何も言えないけど」みたいな。

それはきっと、音楽が「世代」のものだからでしょう。音楽は直接社会問題を歌っていなくとも、同世代が感じている価値観や不満、主張を内包しています。純粋なラブソングとしてヒットした瑛人の「香水」も、メロディの中には同世代が感じている独特な閉塞感や寂しさを感じます。

音楽には「アーティストと同じ世代だからこそ感じられる、言葉にはできないリスナーとの独特な共通意識」があり、これは普段意識されないものの、音楽を聴くときの大事な要素です。理屈をこねくりまわしても、具体的にどこがどうとは言えません。言えないからこそ、各世代で好みの音楽の質が少しずつ変わっていくのでしょう。

この「世代の価値観」をそこはかとなく共有しているから、自分世代の音楽を別世代から頭ごなしに否定されると腹が立つもの。同世代の友達に「最近の曲あんま好きじゃない」と言われるのとはわけが違いますし、理論的であればあるほど「理屈はわかるんだけどさ……」と複雑な思いを抱きます。

今回は音楽の話に限定しましたが、これはきっとどんな事にも当てはまることです。笑いのツボや仕事への価値観、物語に対する感想、食の好みに結婚・恋愛観。恋愛観なんて10歳離れるとわけがわかんなくなります。ネットの使い方も、私たち20代から見る10代のSNSは異次元だったり。

「嫌い」を表明しにくい世の中だからこそ、素直に「私はそれが嫌い、何故なら私はそれが嫌いだから」と言えたほうが良いのかもしれません。なんだか逆説的ですが、結局それに落ち着くはずの議論がいつまでも並行線を辿る場面にはよく出会います。

私はそれが嫌い、なぜなら嫌いだから。理由なんかないのが理由。それを表明できること、「そっか~、なら仕方ないね」と認められることも、多様性の社会に必要なことだと思います。

記事を気に入っていただけましたら、こちらから安藤にCD代やごはん代を奢れます。よろしければよろしくお願いします。