滲みるスポンジ

好きなラッパーが死んだ。
好きと一口に言っても様々あるが、私は耳を突く怒りや不満を顕にした声だけが好みだ。英語は全く分からない。リリックの中身や人柄はもちろん、彼の経歴を私は全く知らない。ただただ聴くことだけ、好きなラッパー。
その彼は亡くなった。
彼はアメリカには存在する拳銃の凶弾によって命を落としたらしい。まだ20代の彼の人生は突如として消え去った。
銃の存在など皆無な日本の私にはそんなこともあるのかと不思議でならない。訃報のニュースを受けるも哀しむことが正解ではあるだろうが、現実味のない風船を手から離すような感覚しか生まれなかった。
彼のリリックはもう綴られない。

アメリカは昨日の夜、日本は朝。消耗品のように流れるウェブニュースの中でも、彼の訃報は日本では知る人ぞ知る人だけが話題にするだけだ。
ラッパーの訃報は伝説として語り継がれるストーリーとして必要なのか、何人もそんな悲しい運命を辿るラッパーはいるらしい。彼のニュースに関連し、私も初めて知ることになった。彼の訃報によって知り得た情報が増える。
私なんて野次馬でミーハーな自覚がある。とりあえず流行りに乗っていれば良いだろうと、安易で安全な居場所を作るのに毎日必死だ。
その中の一つの要素として、流行り音楽を着飾る。
そして彼のラップは、ファッションみたいな流行り音楽の一部分。季節の変わり目よりもトレンドは早い。
毎日掃いては捨てられる音楽は流行りという河川に流れていなければ、川沿いの土手に不法投棄そのものだ。私は不法投棄みたいに感じられるものには目もくれない。だってきらきらと川を流れてくるものは大衆的に目を引くし、間違いないと信じているから。

彼の訃報を起点に今までに発表した彼のラップは、再び取り上げられることが多くなった。
他人の死もビジネスになるのか。有名人に少しばかりの同情と話題の渦中にいる自分自身に酔う。
再生数の高い方から彼のラップを聴く。
前はイヤホンを通す情報だけで音楽を聴いていたが、今頃になってミュージックビデオやリリックをちゃんと観る機会が増えた。
彼の顔に馴染みがない。こんな人だったのか、と真新しい気分だ。
筋肉隆々な黒人種の男性。上裸にだけでも多くのタトゥーが見える。目付きは鋭く、怒りの表情ばかり。一番多く再生されているこの曲のリリックは下品さと攻撃性がすこずる強い。アメリカのラッパーそのままを体現しているような人に感じる。
ベースボールキャップやぶかぶかとしたジーンズにスポーツファッション。
彼はこんな人だったのか。
やっと彼に私の心は向いた。

彼のラップを一番よく聴いていた頃、私はドン底だったと思う。
始めは小さないざこざだったか。ガタンと音を立て変わる家庭環境はすぐに体調へと表れ、私は吐血した。
胃がズタズタになり、家族は私を置いて形を崩し、私は瞬く間に独りとなった。
私に何かできたかと考える間もなく、私の周りには人がいなくなり、大きな孤独感が私を追い込む。
誰かに拒絶されることは恐怖だ。
他人の顔色を伺い、首を引きビクビクと恐れる姿が私の常となるのも間もなくだった。
今でも続く薬や診療を繰り返し、日々途方もなく何故か生きている。
私が『普通』の人になる努力をし始めた頃、彼のラップをよく聴いた。

彼の訃報からやっと対面した彼のリリック。男性的な下品さを全面に押し出したものや、暴力しか解決方法が無いとでも言うような攻撃的なものばかりかと勝手に想像していた。でもそうではないと、しっかりと向き合う今なら分かる。彼も一人の人間で、多くの葛藤や苦悩があったようだ。
彼は頻繁にリリックに薬について言及していた。
精神的に追い詰められていたなんて、あの屈強な身体からは想像することもできない事実だ。
私が服用するような同じ処方箋なのか定かでは無いが、彼もまた薬を常用しているようだった。
リリックは彼の生き方を語る。
悪夢に飛び起きて咄嗟に手に取るのは薬とアルコール。どんなに幸せな気分で恋人と寝ていても、悪夢は彼を待ってくれないと彼は綴る。
寝ても起きても足取りの覚束無い酩酊が彼を襲う。
彼は恥も外聞もなく赤裸々に自分自身をビートに乗せる。
恋人を想う彼のリリックは綺麗だった。

私は日本に住む。ボロボロな身体は鬱陶しいが、それでも生活するには過不足なく暮らせている。
精神的苦痛を薬で保てば、他人は私を街中にいるただの通行人の役割をくれるはずだ。
私は『普通』になれていると思う。
ここではアメリカのように銃に対峙する場面など無いに等しく、差別意識を浴びせられることもない。私の生活圏にはない恐怖は彼を覆う。
彼は私の知らない敵に囲まれていた。
人種差別は鬱蒼と蔓延り、彼は負けじと韻踏む言葉に不平を込めた。
銃は彼の仲間や家族の命を奪い、冤罪すら引き起こす元凶の象徴だった。
奪われる前に強い武装と筋肉とラップでのし上がると躍起になる姿がリリックから窺える。
悲しくもそんな彼すら、銃に倒れるなんて…。現実は非情だ。
彼は愛する人には真っ直ぐな愛情と敬意を絶やさない、可愛らしい笑顔とともに綴るミュージックビデオも残していた。
彼は素敵なお父さんになれたはずだろうと、私は思う。

誰かに影響を与えられる有名人。そんなに目立ってどうするつもりなんだ?随分最近まではそう考えていた私はどこかにいってしまった。
彼はラップでスターダムをのし上がった。世界の視え方も天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたようで、「昨日の敵は今日媚び売る」なんて痛烈に批判したリリックも彼は残した。
こんなに痛快なこともないだろう。
彼の取り巻く環境はどんなに変わろうとも、元来の向上心や大切な人を想う気持ちは色濃い。
そして彼の深部に埋もれる黒く塗り固められた心も色を深めた。
彼は誰かに助けて欲しくてしょうがなかったのかもしれない。
誰も助けてくれないと荒む心は行き着く所まで行く。昼にできる影は、夜にも離れてくれない。
彼はそれまで心を黒く塗りたくる闇に注意深く生きてきたはずなのに、その日に限ってお酒を大量に飲み、ゴロツキが溢れる街はずれのストリートを歩いてしまった。
どんな札付きの悪がいるのか私には理解できるわけなどない。彼は襲われ金銭を奪われ、最終的に凶弾に倒された。

何もかも違う人の悲劇。それでも、もしかするとと私の思考を掠める。
私もいつか彼のように自暴自棄な姿を晒し、呆気なく死んでいくのかもしれない。
私は私の心をコントロールできない。
暴走してしまったら、そのまま私は勝手に動く私に委ねるしかないのだから。

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