あの日のつくしは、僕だった

キッチン脇の小さな丸テーブル。シンクの目の前には、板チョコみたいに区切られた窓。そこから薄く陽が射すだいすきな時間。
僕は一人、クッキーと紅茶でおやつをしている。
甘いんだけれどそんなに甘くない、ところどころ茶色い焼き目のあるシンプルなクッキーをさくさく。温かい湯気が誘う紅茶の香りを吸って僕はほくほく。
すきな色と味と香りの時間の、僕の時間。
それなのに、そんな大切な時間に限って邪魔は入る。
「やぁ!キミ」
さくさく。ほくほく。
「おい!キミ」
ん。美味しい。
「こら!何度も呼んでいるんだぞ!おい!」
ん?誰か呼んでる?
今日はパパも誰もいないはずなのに。
「おい!こっちだ。聞こえてるんだろ」
どうやら声は床から聞こえてくるようだ。床?
僕は少しずつ少しずつ食べていたのクッキーを皿に戻し、口のまわりについているであろう食べカスを袖で拭う。
クッキーで一緒に飲み込んだ口の中の水気を一口紅茶で潤す。
さてと、僕は声のする方へ視線向ける。
あれ?声がしたのに誰もいない?
「おい!やっとこちらを向いたな!どこを見ている。きちんとワタシを見ろ」
どうやらまだ僕が見つけられていない声の主は怒っているみたいだ。
よくよく目を凝らしてみる。
するとなんとそこには、床の板の色に紛れたねずみが一匹こちらを見ていた。
「やっとこちらを見たな!さぁワタシの話しを聞きなさい」
なんて偉そうなねずみなんだ。
僕はおやつの時間を邪魔されたのに、なんでねずみの話しなんか聞かなきなゃならないんだろう。
「いいかい坊や。よくワタシの話しを聞きなさい」
分かったよ、話しを聞くしかないみたい。
僕は椅子を動かして話し始めるねずみに身体を向けた。話しをする人(今回はねずみだけれど)には身体ごと聞く体勢にしなさいと、パパはよく言うからだ。
僕はパパの言いつけ通りにする。
「ワタシはかがくしゃだ。ワタシたちの社会にとって有益なとなることを研究し、普及させている。ワタシはががくしゃとして第一戦で社会で活躍していると自負している。」
やっぱり偉そうに話すねずみ。
僕は相槌すら打たない。
「キミの家によく使われている木材。この木材は我々ねずみにとって本当に素晴らしいものだ。 」
家の話しをしたかったのかな、このねずみ。
「我々ねずみは歯が大変重要である。歯が伸びすぎても短く削りすぎてもならない。生活する上で最たる器官であり、過敏にならざるを得ない器官である。」
歯の話し?よく分からない言い方をして何が話したいんだろう?
「その歯の為に最適なものを発見するため日夜実験し、社会に貢献するほどの情報を与えているのは他ならないワタシだ。またワタシは歯に的確な噛み方や整え方をも実験し社会へと指南しているのだ」
よくもそんなにペラペラと偉そうに話しできるな。
「その他にも夜行での危険を伴わない動き方や安心できる寝床確保の方法、素早く正しい子作りの手法など多岐に渡るのだ」
はぁ。
僕には言葉にならない相槌にもならない音が口から出るだけだった。
「ワタシがどれほど社会へ貢献している偉大なかがくしゃか、キミにも分かっただろう」
さっぱり分からない。
だけれどねずみは清々しい気分なのか、なんだか微笑んでいるようだった。
「キミたちヒトにも誇れるねずみとして、キミに挨拶できてワタシは感無量である」
勝手に話しかけてきて、僕の知らないところで納得したようだった。
「キミからヒトの社会へ、こんなにも立派なねずみがいることを伝えておいておくれ。いいね」
僕に言われても知らないよ。
ねずみはカサカサと去っていった。
僕は延々と偉そうに話すねずみに時間を取られ、寂しそうに残されて冷えた紅茶と食べかけのクッキーを前に、いやな気分になった。

あくる日。
僕は部屋で一人本を見ながらゲームを攻略していた。
本当は多人数でするゲームを僕一人でしている。やっぱり一人ではどうにも難しくって、つまづいてしまってイライラして、どうにかしてこのゲームをクリアしてやっつけたい気持ちだけになった。
僕は頑張った。絶対にクリアすると強い気持ちでゲームに挑んでいた。僕は一人でもゲームを攻略できるんだ。
すると僕のまわりでブーンと音がする。
音が耳に入ると僕の集中が音に向いてしまう。
ノートにゲーム攻略には大事な計算や図を書いているのに、ブーンの音でえんぴつの先をぐしゃぐしゃになっていく。
いつもの僕なら集中できるのに!
ブーンの音は僕を惑わす。なんだ失礼な音だな。
「おい」
聞き間違えかなと思えるほど小さな声もする。
「おい」
ブーンの音は止まない。声もする。うるさいな。僕は集中していたのに、邪魔しないでよ。
「おい、聞こえてるんだよなぁ」
失礼に音を立たさせて勝手に僕を惑わすのに、なんて失礼な言い方をするんだ。
「おい、いい加減にしろよ。聞こえてんだろ」
いい加減にしてほしいのはこっちだよ。僕は集中しているんだから。
「おいおい」
ブーンの音が近い。声も一緒に近づいた気がする。うるさいことこの上ない。
「オレの話し、聞けよ」
もうノートはぐしゃぐしゃで何を書いていたのか分からないほどになった。うるさい邪魔のせいだ。
「聞こえてんのは分かってんだよ。話し聞けよ」
ブーンの音と話し声は僕の耳のそばにいる気がする。ということはこのブーンの音が話しをしている?
「やっとこっち向いたな。オレの話し聞けよな」
話し声は僕の肩に止まっていたハエから?信じられないけどそうみたいだ。またこれか、いやだな。
「オレは一番速いハエだ。すごく若いのに速い。体力もあるし誰よりも速いハエだ。かっこいいだろ」
ハエがかっこいい?そんなまさか。そんなわけない。
ハエのわかものは僕に構わず話しをつづける。
「速いことはオレたちの美学だ。速かれば速いほどいい。オレはその速さ主義の中でも一番速い。隣のおっさんよりも、同じ年頃の中でも、オレの集落の中でさえオレの速さにかなうものはいない。」
このハエも自分は偉いと思っているやつか。なんでこんなのばっかり僕は話しを聞かなきゃならないんだ。
「聞けよ坊や。オレは速さを求めて風なんて呼ばれてる。今やむしろ風より速いはずだ。こんなに速くなるのは並じゃねぇ。羽の手入れや体の軽さを常に保つ努力をオレは怠らない」
始まった。聞いてもないのにぺらぺら話したがりに割く時間が来てしまった。
「オレが速さを保つために使う時間は、誰よりも使っているはずだ。オレは速くなるためなら何でもする。速くなることなら何でも試してみる。要らないものは何でも捨てる」
話しがおおげさだ。そんなのウソだよ。必死に話しているハエがバカらしく見える。
「速ければ速いほどいい。速いと人気になるし偉くなれるし、お前らみてぇな大きなヒトを速さで振り回すときが一番快感なんだ」
うるさいハエだな。お前らこそすぐに叩かれて潰されちゃうくせに。
「だからよ、オレはまだ速くなる。お前もせいぜい頑張れよ。オレに振り回されないようにな」
は?うるさいな。
頑張れなんて僕に言われても知らないよ。
ハエはまたブーンと不快な音を立ててどこかへ飛んでいった。
ハエに振り回されてぐしゃぐしゃになったノートと、何も攻略なんてできていないゲームだけが哀しく残った。
僕は不貞腐れてゲームを投げた。

春が過ぎてまだ夏には少し間のある頃。
本格的に暑い日が来る前にと、庭の草を抜くことになった。午前中でも陽射しはサンサンとしている。なるべく日焼けしないようにとパパの注意を守って、大きな麦わら帽子とお気に入りの列車が書いてあるタオルと、冷たいレモネードの入ったボトルを準備して僕は草取りを始めた。
辺り一面緑色だから、草取りはいつ終るんだろう?これじゃあ一日では終わらない気がする。パパも一緒にするんだけれどどうもパパは準備に時間がかかっているみたいだ。
僕は一人しゃがんで草をむしる。むしってむしってむしる。
むしった草は少し日陰の花だんの前のところに集めよう。僕は自分でやり方を決めてもくもくと草取りをする。
いっぱい草が取れたなと思うタイミングで用意していたボトルのレモネードを飲む。すっごく爽やかなレモンの香りと、甘いはちみつの美味しさが汗をかいて乾いたのどに心地いい。
控えめに一口飲んでボトルのふたを閉める。頑張ったあとに少しずつ飲むと僕は僕と約束していた。
また草取りを始める。
するとパパはまだ庭に来てもいないはずのに、なぜか声が聞こえてきた。
「キミ、これキミ。ワタシの声が聞こえるかい?」
「ワタシの声が聞こえるのならワタシの話しを聞いてほしい」
「ワタシはキミが抜いて回っている草なのだ」
草が話している?すごくよく話す草だな。
「これキミ。聞こえているんじゃないのか?」
僕の手が止まっているのに気付いている?なんで草が話しているのか僕には不思議ではない。近頃よくこんなことがあるからだ。
「ワタシの声が聞こえているのならば、ワタシの話しをよーく聞きなさい」
この草も偉そうだ。いやだな。
「ワタシは草のせいじかだ。少しだけでもいい。ワタシの話しを聞いてくれ」
なんで話しを聞いてもらいたいのに偉そうなんだろう?僕は不思議だ。
「キミ、ワタシのことがわかるかい?もう少し右、いやちがうなキミから見て左にいるぞ」
僕は何も言ってもいないのに、この草にはもう僕が話しを聞くことになっている。いやだけど僕が少し左を向くと、そこにはこの辺りでは少し背の高い草がいた。
「やっとこっちを向いたかい。遅いじゃないか」
自分勝手に話しを聞けと言っている自分は置いておいて、なんで僕がそんな風に言われなきゃならないんだろう。
「さて、やっと話しをちゃんとできる。いいかい、よく聞きなさい坊や」
僕の返事なんて聞いてもいやしない失礼な草は、僕を捕まえて自分のしたい話しを始めた。
「ワタシはせいじかなのだ。次の選挙にはもっとワタシの力を知らしめたい。そのためにはワタシの息のかかったものたちを多く広く分布させる必要がある。ワタシは必ず選挙に勝たなければならない。ワタシを応援し支えてくれる多くのもののために」
「ワタシはワタシの自己実現のために、ワタシと意志をともにする同志を集い、学ばせる活動を続けている。ワタシの地道な草の根運動は実を結び、着実に拡大を続けている」
何を言っているのかよく分からない。話しは長いし何を言っているのか分からないし、何度ワタシって言うんだろう。
「この活動のためには財が必要である。大層多くの財が必要なのだ。どれだけあっても足りないほど必要なのだ。」
「ワタシの広い脈とワタシの策略を持ってしても、まだ財は足りない。ワタシにはまだまだ課題が山積みなのだ」
ここは山ではなく僕の家の庭なんだけど。
「今や我々の中でも社会を動かしているのはワタシが教育したものたちになりつつある。ワタシの力を今こそ社会へと知らしめられる好機なのだ。ワタシは次の選挙によってこの社会のトップとなる。やっと一歩を進める時が来たのだ。だからこそ坊や、キミたちヒトもワタシの存在を知るべきだ。」
勝手に話してきて知るべきだなんて、身勝手にもほどがある。なんて自分に自信まんまんなんだ。
この草の話しなんて僕はちょっとも分からないのに。
「坊や、ヒトの坊や。どれだけワタシがすばらしい存在か分かっただろう。キミはワタシの話しを聞き、この話しを他のヒトにも伝え、ワタシを敬うのだ。その力を糧にワタシはまた財を為せる。ワタシはどんな手段を使ってもワタシの力を広く!広くするのだ!」
やたらに話しばかりして僕に何か言っているけど、何にも分からないしこんな話しだけして僕が何かしてあげるなんて何で思えるんだろう?僕に言われても知らない。不思議だ。
「ワタシはどんな手段を使おうとも、ワタシはどんな地道なことをしようとも、必ずやこの社会にワタシは君臨するのだ」
話していた草が少し風に揺れた。僕がしゃがんでいた腰を上げてボトルを取ろうとするタイミングで、パパが草の声がかき消えるほどうるさい草刈り機で現れた。そして僕につらつら話していた草をさっと刈っていった。
パパは一度草刈り機を止めて、「おつかれ。つかれたろ?もうお昼ご飯の時間だからご飯を用意してある。あとはやるから、任せなさい」
僕はレモネードの入ったボトルとポケットに入れておいたお気に入りのタオルとを手にして、家に戻った。

僕は寝ている。
僕は僕を見つける。
僕は僕を見つめる。
僕はまだ子供だ。まだどうしようもなく一人で、どうしようもなく幼い子供だった時だ。
僕は僕に尋ねる。
「キミが残していたクッキー。 あれ全部食べちゃった?」
すると僕は答える。
「ううん。ねずみに邪魔されて何だか美味しいクッキーも紅茶もいらなくなって、そのままにしてある」
残した僕はしょぼくれている。
また僕は僕に尋ねる。
「ぐしゃぐしゃになったノートと不貞腐れてやめちゃったゲーム、どうしたの?」
また僕は答える。
「ノートはそのままぐしゃぐしゃ。何も消してないよ。ゲームは攻略できるはずだったのにハエがうるさくして僕の集中を取っていたから、もうしてない」
できなかった僕は少し怒っている。
またまた僕は僕に尋ねる。
「草取りはどうだった?」
またまた僕は答える。
「僕が頑張って集めた草よりパパの草刈り機使った方が早くてたくさん集めてた。うるさくて仕方なかった草を刈ってくれてうれしかったけど、それなら最初から僕はしなくてよかった気がするんだ。そしたらあんな草に話しかけられなかったはずだし」
頑張った僕はなんだか悲しそうだった。
僕は僕のことをぎゅっと抱きしめた。
質問に答えてくれた僕は僕よりもふた回りは小さい。
抱きしめる僕はもう立派な大人だった。多分パパと身長は変わらないだろう。
だから僕を、質問に答えてくれた健気な僕を、僕はぎゅっと抱きしめる。

僕にはママがいなかった。友達もいなかった。
元気に動き回ることもできなかった。一人でいつも過ごしていた。
その代わりに何だかよくヒトじゃないものから話しかけられていることが多かった気がする。
時々なぜか話しを聞けと偉そうなやつらが僕を捕まえることがあった。
久々にそんなやつらを思い出してしまった。楽しくなかった。ちっとも楽しくなかった。
きっと僕はあの頃モヤモヤした気持ちを精算させるチャンスをもらえたのかもしれない。
僕はあの頃の僕を抱きしめながら、僕は何も間違ってないと伝えられるように、もっとぎゅっと僕を包んだ。

目が覚める。
僕は起きて、いつものように洗面台で顔を洗おうとした。
すると鏡に映る自分の目元に涙の跡を見つけた。
なんで泣いていたんだろう?
僕は涙の跡を消すように顔を洗い、歯を磨く。
薄荷のスーッとする風味が口と鼻を包む。
僕がパジャマから洋服に着替える頃、隣の部屋から物音がした。
ガチャっと扉の開く音がする。
「おはよう」
僕が挨拶すると、まだ目ぼけ眼な息子がやっと挨拶になった言葉で挨拶を返してくれた。
「ささっ、早く顔を洗ってちゃんと起きてきなさい」
僕は洗面所へ息子を誘導した。息子が顔を洗い始めるのを確認すると、僕はキッチンへと向かう。
目玉焼きとソーセージに、作り置きしてあるピクルスとお湯で溶かすオニオンスープ。
僕ら二人分なんてすぐに作れる。パンを焼いて、息子が歯を磨き終えて席に座るころに僕のコーヒーも淹れる。
息子にミルクをあげて、二人で席につく。
パクパクと食べ始める僕らには食事をする音だけが響く。
出された料理をちゃんと食べきってくれた息子にうれしくなって、ずっと見つめすぎていたようだ。僕は息子より少し遅れて食べ終わる。
食べ終わった食器をシンクに持っていってくれた息子はまた席に戻り、「今日は本を読んで午後から図書館に行くつもりだよ」と今日の予定を伝えてくれた。
「お父さんは部屋で仕事をずっとするよ。お昼と夜のご飯はいつもの時間でいいね?」と僕が尋ねると、「大丈夫だよ」と息子は答えた。
「じゃあ今日もお互い頑張ろう!」
僕らはいつも通りハイタッチし、それぞれのやるべき事に取り掛かった。

僕の息子は僕が子供の頃と同じ境遇にいた。学校にも行けず家族は父親のみ。家以外での自分の場所がない。ただ父親はせかせかと忙しくそんなに会う機会がないわけではないところが、唯一違うところだろうか。
僕の父さんはどこかの教授だったらしく講義や出張や会議などで、僕を一人にすることが多かった。
たまに家にいてもやたらに話しの長い大人たちが父を囲み、僕にはあまり関心がなかったようだ。
僕には厳しく守り事を約束させ、二人きりの時間ができようとも僕を置いて仕事をするばかりだった。
僕はそんな風にはなりたくなかった。
妻が亡くなり息子と二人になったとき、もう会えない父を思い出した。
僕は寂しかったのだ。
その寂しさを活かして今では小説を書き、息子との時間を大切にする僕になれた。
父は偉大だ。ただもう会えない人で未だに許せない人ではある。

冬の寒さが顔に刺さるようなある日、僕はある施設にいた。
職員さんに押されて車椅子で現れた老人は虚ろな目で僕を見つけて、「こんにちは」と挨拶をしてくれた。
僕も挨拶し返し、テーブルを挟んで僕は老人の目の前に座った。
「最近はめっきり寒くなりましたね。お元気ですか?」僕は尋ねる。
すると老人は僕の声に反応して、「元気ではいるよ。私は元気だが、息子も元気だといい」と目線を宙に浮かせて答えた。
「…息子さんは元気だと思いますよ」
僕の言葉を受けて、老人は話しを始める。
「あまり大きな声では話せないんだが、私には息子がいてね。体は弱いが中々賢い子がいるんだ」
僕は話しを聞く体勢に入る。
「学校には行けず家で過ごすばかりなんだが、私の書斎の本をかじりつくように読んでいてね。言葉や文章が器用な子になってくれたんだよ」
僕は頷きつづく話しを聞く。
「私は私で仕事が多くて相手はしてあげられなかったが、私の取り揃えた本や私の本が息子の力になったようなんだ。ただ時々不思議なことをすることがあってね」
老人は虚ろな目だがしっかりとした話し方で話しをつづける。
「何もないところに向かって相槌を打ったり、返事や表情を見せていたようなんだ。子供特有の見えない友達と遊んでいたんだと思う」
老人は少し微笑んだようだった。
「同じ年頃の友達も、話し相手になる家族もいない寂しい想いをさせてしまっていたからか、そんなことをしている息子を寂しいような微笑ましいような気持ちで私は見守るしかなかったんだ」
そうですかと僕は小さく相槌した。
「息子には息子の世界があって、私は私で仕事に精を出していたんだ。もしあの時私がもっと寄り添ってあげられていたらと私はよく夢に見るんだ。」
老人は悲しそうな顔になる。
「私は経済的に支えるしかできなかった親だ。もっと暖かい楽しい想い出を息子にしてあげられたらと、もうあまり動けなくなった今でも思う」
「息子は今幸せならそれでいい。だがもしもう一度会えることがあるのなら、もっと父親として想い出をあげられなくてごめんよと言いたい。もしよかったら君が息子に会うことがあれば伝えてくれないかい?」
僕に言われても困るよ、パパ。

僕は施設を後にする。
パパは今回の面会でも元気にしているようで安心した。
以前会ったときよりも少し細くなったようだけれど、話し声は変わらないようだった。
記憶はもう10年以上前からなくなり始めた。
自分がどれだけ偉い政治家や科学者や有名アスリートと会談した著名な教授だったなんて、忘れてしまったようだ。
パパは今では母さんと僕の子供の頃の話しばかりを、繰り返し繰り返しする。
今いる施設ではない、あの頃の恋愛していた母さんや、子供だった僕のことばかりを見ているような虚ろな目の老人になった。
それでも僕はパパが元気で、僕も元気でいられる今が幸せだと思う。

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