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ウソの濃淡

【本文】
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』を観た。

主人公が所属するバンド「結束バンド」(本当にいい名前……)がオリジナル曲を作る回が特に印象深かった。

作詞を任されたネガティブな主人公は、自身の性格に由来する暗い歌詞が生まれることを恐れ、あたりさわりのない歌詞をバンドに提出する。

しかし、バンドのメンバーからは「自分を偽って売れ線の曲を作る必要はない」と諭されてしまう。考え直した主人公は、自分のカラーが色濃く出た(暗い)歌詞を改めて作り、メンバーから好評を博したのであった。

美しい背中の押し方だなあ、と感じた。

突然話が飛ぶが、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。

父親からモラハラ混じりの教育をされてきた主人公が、父親に向かって「あなたにされたことを私は娘にしない」と言い放つシーンがある。

根深い親の呪縛を強い意志でもって打ち破る主人公に、ハッとさせられた。

上記のシーンは「人と人のつながり」と言う観点でどちらもお気に入りなのだが、比較してみると『ぼっち〜』の方がより手放しで楽しめたという感覚が強い。

この差がどこに起因するのかを考えていて、ひとつの結論にたどり着いた。「フォーマットの性質」である。

まず、『ぼっち〜』の方はアニメである。
そして、アニメは徹頭徹尾ウソでできている。ウソの世界でウソの登場人物がウソの日常を送り、ウソの事件に苦しんでいる。

対して、『エブリシング〜』は映画である。
映画はアニメほどウソの純度が高くない。登場人物を演じる俳優は私(観客)と同じ人間だし、本作のテーマは「家族」という普遍的なものだ。

『エブリシング〜』を観る中で、私は「家族たるものかくあるべき」という現実世界に対する説教の匂いを嗅ぎ取ってしまい、少しだけ「こっちに来るな」という気持ちになった。

教訓は、観客が自ら読み取るのと、強いられて読み取らされるのとでは受容の形が全く違う。

エンタメは「対岸の火事」でないと心の底から楽しめないのかもしれない、と嫌な考えがよぎった。

【自由記述欄】
びっくりドンキーのパフェは本当にびっくりするほどおいしい。

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