なんでゆりえるが演劇煮?
はじめまして。ゆりえると申します。私は芸術祭の運営や、舞台公演の裏方など、いわゆるアートマネージャーや制作と呼ばれる仕事をしています。
一方で、ここ数年自分が演技をすることにハマっています。演技を通して出会った気づきがおもしろかったり、またマネージャーがプレイしていることが珍しいと人に言われたことがあり、こんな自分の状況をアーカイブしておきたいと思いました。
この文章は、2023年2月に、私の演技活動に関する話を友人に聞いてもらった時間を、インタビュー形式にゆりえる自ら編集したものです。
演技をやる以前と演技をはじめた理由
演者?
ーーーえっと、ゆりえるの演技活動の話を聞くってことでしたけど、そもそもなんなんでしたっけ?
あ、ごめんなさい。えっとー、すみません。私は今演技に関することを3つやっています。ひとつが2021年から不定期に通っているレッスンで、ふたつめが自主的にやっている「演技をやってみる会」、みっつめはアーティストや俳優が講師の授業を受けられる「PARA」の授業に通っています。
ーーー2021年から通っているレッスンはなんで始めようと思ったんですか。
ふと、こう、「死ぬまでに1回、演劇に出てみたいぞ」と思いました。演劇に出るための方法を考えて、劇団に入ることも考えたけど入り方も、それが良い方法なのかもわからなかったし、でもまずは早くやりたい気持ちがあったので、ネットで探して、 通える場所に行き始めました。
ーーーふとなの?演者になってみようっていうことは、ふと湧いてきたんですか。
そのタイミングは結構ふとでしたけど、元々あったのかもしれないですね。自分が歌を歌っていたりとか、表現をする?(役割としての)演者をする?ことには元々関心はありました。
ーーーうんうん、なるほど。漠然と興味があったってことだよね。演技することについて。1番最初の動機が漠然としてるものだったとしても、そこはちゃんと把握しておかないと、紆余曲折あって、今どういう時点なのかを見失っちゃうので。元々は歌だったんですよね。歌はどういうかんじなんですか。ゆりえるにとって。
小中高大の時は、 歌手になりたいって思って取り組んでいたもので。うーん、大学2年の時、なんか色々あって…
学生時代の変化
ーーーそこはいいの(笑)。あまり文字にはしないの。多分今なんでこうなってるのかっていうと、 歌じゃなかったってことだと思うんですけど。ゆりえるが興味あるのは。
そうですね。自分は幼少期から大衆文化の中で育ってきたと思っているんですけど、大学で仲良くなった友人たちと大学3年でカラオケに行った時に、みんなが小沢健二(おざけん)とか、YMOとか、美輪明宏とか私が全然知らない曲を歌っていて。「彼ら彼女らとほぼ同じ年数を生きてきたはずなのに、どうして趣味嗜好が違うんだろう」って疑問に思いました。
けど、じゃあ明日から私もおざけんを毎日聞くかというとそうもなれないし、でも私が好きな人たちが好きなものを私も好きになりたいし、いいねって言いたい。そうするにはどうしたらいいんだろうと思いました。
あと同じ頃に、知らない人に夜道で突然後ろから口を塞がれて抱きつかれたことがあって。まあそれは結果犯罪ということになるんですけど、その人はなんで犯罪をしちゃったんだろう、その行動にうつすエネルギーを何か別のことに生かしたりできなかったのかしら、とか思ったり。あと、それまであまり、全然知らない人にこういうことされる経験がなかったので、 「あ、そっか、世界にはこういう人もいるんだ」っていうことに気づいて。で、もっと、そういう人の、そういう人の?気持ちがわかりたいな、となったのかな。
ーーー大学時代に歌っていて、色々あって、そこからそのレッスンに通おうってなるまでには、まだちょっと飛躍がありますね。
そうですね、確かに。その2つの出来事から、どうしたのかというと、それらの出来事が、言葉でまとめると、「共生」とか、あんまり使うことを好んではないですけど「多様性」みたいな考えに近いのかなとその時に思っていて。 で、それらについてもっと勉強したいなと思った時に、アートプロジェクトの使う言葉の中に「多様性」とか「共生」っていう言葉がよく使われているように見えて。あと自分の身近でアートプロジェクトに関心のある友人がいたのもあって、そこに携わって勉強をしたいなと思って大学3年から4年になる時に、1年間休学をして、とびらプロジェクトに参加したり、いろんなアートプロジェクトのボランティアをやったりしていたことが繋がって、今は色々お仕事させてもらうようになっています。
演技をやってみた!
人との差異のおもしろみ
ーーー演技を習おうってなるまでですよね。仕事じゃなくて、
そうですね。うーん、なんでだろうな。
ーーー別に漠然とした興味でもいいと思うんですけど。じゃあレッスンを始めて、去年から今年にかけて「演技をやってみる会」をはじめたり、「PARA」に通ったりしているわけですよね。増えていったのはなぜですか。
まずレッスンは、本番はなくて、参加しているのは俳優志望の2,30代が10人くらいで、大体1回2時間です。レッスン当日に、1時間ドラマや演劇とかの台本の中から2ページが渡されて、その場で2人1組を作って、即興でやったりするんですけど、それですごい面白いなと思ったことがいくつかあって。
例えば、まず配られた台本を1人で黙読するんですけど、「喜劇っぽい話だな。私このaさんとbさんの、bさんの方の役だから、じゃあちょっとゆかいにやろう」って思っていたら、一緒にやった相手は私のイメージと違う悲劇的な演技をして、「あ、この人はこう読んだんだ!」と驚くことがありました。
また参加者で順番にみんなの前で発表するので、同じセリフで同じ役を他の人がやっているのを見ると、体の使い方や動かし方が全然違うなと気づいたり。あと「ありがとう」っていうセリフだけでも、明るく言う「ありがとう」とか、不機嫌に言う「ありがとう」とか、1つの言葉でも表現に幅があることにも気づいていって。
ただ、レッスンの場所だと、指導者がいて、明示はされないけど、 こう、正解、不正解みたいな、うまい下手がある感じがあって。判断があるっていうのかな。
ーーーその脚本から想定される上手な演技みたいのを求められてるってことですか。
そうですね。「オーディション受かんないよ」みたいに言われる。
ーーー養成所みたいなことだね。うんうん。演技を楽しむというよりかは、演技を鍛える。
そうです。その中でやりながら、その場ではできないけど、「私はこう読んだんだけど、ここ、どういう意味だと思ったんですか?」とか、「なんでそのニュアンスで言ったんですか?」とか、そういうことをすごい話したいって思いました。
演技は道具もそんなにいらなくてできることだけど、あまり機会はない。演技をしてみるっていうことをもうちょっと他の人と一緒にやってみて、面白がりたいなって思ったから、「演技をやってみる会」を始めました。
「演技をやってみる会」をやってみる
多様さの共有
ーーーそれ、やっぱり脚本があるんですよね。脚本というか台本があって、それをどう解釈してどう演技するかの幅とか、いろんな多様さを共有するってことですね。
面白がりたいということの他にもありました!他者への想像力。演技をするって、他の人の気持ちを考える1番直球な方法なんじゃないかと。
自分がもしおばあさんの役だったら、「おばあさんってどうやって動いてるかな。」とか、声の高さどうかな、 どんくらいのスピードで喋るかとか、そういうことを考える。 それから、なぜこのおばあちゃんはこれ(セリフの内容)を言いたいんだろうとか。
ーーーつまり、演技指導じゃなくて、演技共有みたいなことですかね。それ、大事だと思います。つまり、発表はしなくていいのかもしれない、みたいなことですよね。
そうですね。「演技をやってみる会」は2022年11月に1回目、2023年2月に2回目をやりました。このときは、会をやってみたいけど、私は別に教えたりできないと思って困ったので、演技のワークショップ講師のご経験がある、友だちの大川原さんに相談しました。
大川原さんと私の中で、 演技をすると良いことがありますよとか、コミュニケーションがうまくいきますよとか、そういう効能があると言いたいわけじゃないという共通認識を持っていました。
ーーー効能はないんですか。
効能はなくてもいい。でも、結果として、あのー、ありはすると思い込んでいるんですけど。
自分ではない人にならないといけない?
ーーー楽しさですよね。うん。自分が演じることの、なんか認識の広がりと、それを他の人の演技も見比べて。
第1回目は2人1組でゲームをしたり、演技の準備運動みたいなことをしました。演技やダンスのワークショップでよくやられる、みんなで部屋の中を歩いて早歩きにしたり、ゆっくり歩いたり、他の人との距離を意識して歩くとか。(シアターゲームと言われている)
第2回目は2人芝居の戯曲を読んだり、本に書いてある言葉を使って即興劇をやったりしました。
参加者の反応で、「あ、そうだよな」と改めて気づいたのは、演じるって恥ずかしいよねということ。やっぱり演技って「 お〜ロミオ」とか、「鬼退治に行くぞ」みたいなイメージもありますよね。だから、全然自分と違うものにならなきゃいけないみたいなイメージがあったり。
また普段カフェで店員さんをしている参加者は、 「自分がお店に立ってる時って、本来の自分というよりも演じていたんだなと思ったり、むしろ演技した時の方が自分ぽかった」と思ったそうです。
あと、いつもとは違う自分を発見したいという動機で参加してくれた方は、会話劇の中でも、 いつもどおり自分がリードしようとしちゃったりとか、相手に気を遣って間をとっちゃうとか。あと、他の人が自分がやったことと同じことやってるのを見て、すごく楽しそうにやってたから、私も楽しそうにやりたいなと思ったとか。
日常とは違う設定で動いてみて、 改めて自分のことを認識したり、同じことを他の人がやっているのを見て、違いを認識して変化していくことがありましたね。
ーーーあー、それはいいね。恥ずかしい気持ちと、自分と違う人にならなきゃいけないっていうのは、同じ理由ですよね。違う人にならなきゃいけないから、恥ずかしいし、うん。
いや、あのー、ちょっと自分の興味関心に引き寄せて喋っちゃうと、自分と違う人になんなきゃいけないって、一般的な社会の要請と同じかんじがするんですよね。成長しなきゃいけないとか、頑張らないといけないとか、なんかわからないけど、全部外側から要請されてることを目指してやろうと自ずとしちゃうっていうか。もうそれが前提、当たり前みたいになっちゃってる世の中は。そうじゃなくて、 ありのままでいいっていうことですよね。多分ね。ありのままで良くて、それが1番。
レッスンで感じていたフラストレーションみたいなものは、そこで全部発散されて、手ごたえを感じられましたか。
かんじられました。でも全部ではないですね。
大川原さんが会の最初にいつも言っていたことがあって。それが「頑張らないでください」だったんです。でも第2回をやった時に、参加してくれた方が「頑張ってもみたい」と言ったんです。うん、頑張ってみるのも面白いですよね〜!
私はその会ではみんなで演技を面白がるとか、共有することをやっているんですけど、私としてはレッスンに通っていたり、PARAに通っている動機としては、演技がうまくなりたいっていう、 成長心、向上心もあります。
「演技の教室」に通う
あっちからやってくる
ーーー「PARA」はどんなかんじですか。
「PARA」では、私は「居間 theater」のメンバーとして存じ上げていた俳優の稲継さんが講師を務める「演技の教室」という授業に通っています。初回のときに稲継さんからベケットやチェーホフなどの戯曲の、10分間くらいのモノローグの場面をいただいて、その中からひとつ自分がやりたいものを選んで、1人ずつ発表する日を決めて、その日までに覚えてみんなの前で発表をします。そしてやってみてどうだったかや、見てみてどうだったかをおしゃべりする授業です。
ーーーこれまでの、差異をおもしろがるとか、多様さの共有、頑張る=自分じゃないものになるみたいな話とどう繋がっていくんですかね。
まず自分がその授業でやったことの話をすると、私はベケットの『ハッピーデイズ』という戯曲の冒頭10分程をやりました。自分の中でのそのときの目標は、そのテキストに書いてあることを再現することで、まあさっきの頑張らない/頑張るという話だと、頑張る。自分じゃないものになるほうかな?
ただ一方で、何度読んでも読んでも、全くこう想像できないところ、どう動いたり、 どんなニュアンスで話したらいいのかわからないところがあって、そこは自分に引き寄せてやったんですけど。まぁ自分の実力として、そう処理したというだけですけど。
最初セリフが「ウィリーかわいそう。昔のものがまた1つ、昔のものが取り返しつかない、どうにもつかない…」とか音声として発音できるけど、それの意味もわからないし、どういうニュアンスで言っているのかが全くわからなかった。でもずっとずっと読んでいたり、動きをつけてやっていると、だんだんあっちから来るものがあって。その意味が分かる時が。
ーーーあー、すごい。黙読じゃダメですよね。どういうタイミングだ。
声に出して読んでる時に
演技を見る見る
ーーー今までの面白さとはまた違うことですよね。うん、それはなんなんだろう。ベケットとの出会い?べケットとの対話?戯曲家との、脚本との出会いみたいな。うんうん、面白いですね。
そうだ。その授業の中で出てきた新たな疑問がありました。ある日受講者が発表して、それがこの文脈で言うとがんばっている演技だったんですね。
やってみた感想を聞くと「観客を意識しすぎて緊張した」と。なので、観客を意識しないでもう一度やってみようということになってやったら全然違うようになったんです。1回目は声も大きくて開放的な演技だったのが、2回目はぶつぶつ、恥ずかしそうに話す内向的な演技で。それで感想を聞くと「2回目のほうが自分らしいけど、普段も1回目みたいに人を意識して明るく振る舞ってしまう、外向的になる」と。そのときからそのクラスでは「自分らしく演技すること/自分らしくなく演技すること」っていうのかな、その対比の話によくなるようになったんですよね。あとそのときは、2回目のほうが結構周りの人たちは「今すごいものいいものを見た」みたいな反応をしていました。
ーーーそれは面白い。
いい演技とは何か。みたいな話なんですかね。
ーーーゆりえるもそう感じたんですか。いいもの見たなって感じがしたんですか。その時。
あー、そんなことはないですね。私は1回目が好きでした。
ーーーそうなんだ
私が発表した時も、2回やったんです。1回目のあとに稲継さんから「今の小道具や動作を絶対に使わないでやらないでやってみてください」って言われたんです。本当、それは即興でやったんですけど。私の中では、「なんであんなにしっかり考えてきたのに、やんなきゃいけないんだろう」っていう気持ちもあったし、やってみて、「1回目の方がよかった」ていう気持ちがありました。それで観客に聞くと2回目の方がいいという人もいたし、1回目の方がいいという人もいたし。
ーーー面白いね。うん、面白いですね。それ。なんか本当、全部、あ、もうぐちゃぐちゃです。なるほど。2回やらされてゆりえるは不服じゃないですか。やっぱり1回目の方がよかったよって人が多かったら、 ゆりえるは嬉しいですか。
うれしい。
ーーーあ、そこは嬉しいんだ。そっか、そこは嬉しがっちゃうんですね。
え。どういうこと。
ーーーなんか、あのー、そこに対して嬉しいも嬉しくもないみたいな。つまりそれって、自分の評価基準じゃないですか。自分の、良いと思っているものを、そのまま認められる。他者に。
あー、なるほど。
ーーー難しいんですけど。つまり自分らしいものを人から認められるのか、他者からの指示でやったもの(自分らしくないもの)を認められるの。なんかね他者とは何なのか、みたいな話ですかね。
ちょっと違うかな。どちらかというと、1回目の方が自分じゃないものをやってて。2回目はもう自分なんですよ。
ーーーそうなんだ。意味不明。なんかより複雑にしてるね。他人からの指示で演技したものは、自分らしく感じたんですね。
うーん、例えるなら。いいねって思われたいからお化粧して着飾って行ったのに、 じゃあ、ちょっと、もう全部化粧も落としてTシャツとジーパンに着替えてもう1回出てきてよって言われて。 出てきたら、こっちの方がいいって言われた、みたいな。
ーーーなるほど(笑)やっぱ頑張っちゃってたんですよね。ゆりえるが。
うん。で、私はそっちを。あの、いいって言われたい。
ーーーはい。すごい。今の例えはすごい。よくわかりました。今まともに考えられないけど、あの、すごい、面白くはあります。
それは多分、ゆりえるが良いって言われたいっていうのはエゴで、ゆりえるの生まれたままの姿をいいねって言われた方が何よりもいいじゃないですか。
なんかそれはちょっと話ずれているかもしれない。なんでずれてるかなって思ったかっていうと、この前岡田利規さんのワークショップの手伝いを仕事でさせてもらって。で、あの、サインも貰いました。
ーーーサイン貰っちゃダメじゃないですか。サイン貰っちゃうんだ。
もらう、チェキも撮ってもらった。
その時に印象的だったのは「観客の存在を忘れちゃいけない」と岡田さんが 何度も言っていて。今の話をしていて、その着飾っているゆりえると着飾っていないゆりえるで、後者がいいって言われることが本来いいんじゃないのかていう話じゃなくて。うん。観客が何をいいって思うか。
着飾ってるのがいいっていう観客/着飾ってないほうがいいっていう観客のどちらが正しくて間違っているみたいなことじゃなくて、どちらもある。
ーーーなるほど。いや、複雑っすね、演技ってね。個人的には頑張らない方をできる限り突き詰めていく方が可能性があるような気がするんですよ。自分らしさみたいな方に、その、内省的になっていくと、それが1億とか、何億とかってなると、いい世界になるかもしれない。
すごい面白いですね、演技って面白いですね。
ありがとうございます。いや、うー、私も別にまだ完結したわけじゃなくて、過程なので。
すいません。ありがとうございます。
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