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台湾旅行で感じた生命力。


先週から昨日まで台湾に行ってきました。


同じホテルに泊まり、毎日のように同じ最寄駅から地下鉄に乗り移動していると、信号待ちで雑貨のようなものを売って歩く車椅子の男性、いつも同じお店の前で物を売る車椅子の男性などの方たちに出くわしました。


日本ではあまり見かけない風景の数々に、異国を感じました。


それはバンコクに行ったときも感じましたが、台湾ではもっと能動的というか活動的というか、障碍者の方が自力で稼ごうとする姿があちらこちらで目に焼き付きました。


その国によって、いろいろな背景、事情が複雑に絡んだものが表面化された形だと思いますが、考えさせられる光景でした。


私は若いとき、自分が摂食障害という病を抱えていたのもあり、社会人生活を送っていながらも、障害者と健常者というものは分離するもの、できるものではない、もっとグレーなものではないのか、と感じながら生きていました。


ですからその活動の仕方がいい、悪い、と何かをジャッジするものではなく、繁華街で暑い日中に、汗を流して歌っている車椅子の若い女性に何か光っているものを感じました。

日本だったら警察にとめられそうな状況ですが、彼女は人に聞いてもらえる繁華街で歌うことで、自分の内側から湧き出る生命力をイキイキと発動させているのです。


私たちは、いつもそつなく、常識的に、人様に迷惑をかけず、大多数の人と同じようにしているのが良し、という演技者の配役を忠実に演じながら生きているのではないか、と思うことがあります。


彼女の姿はそんなものを超越している、恥や罪悪感がない、ただ自分は神に愛されている存在として、そこで気持ちよく歌っているだけ、と感じさせるものありました。


そういう障碍者の方を蔑んだり敬遠するのは、みなが傍若無人になってしまっては大変なことになるという恐れと、自分の内側にある恥や罪悪感を刺激されるものがそこにあるから、それは私の中にはない、と自動反応として起きるのではないか、と感じます。


貧富の差があったり、日本ほど整備されていないところがある異国(日本より優れているところも多々ある)に行くと、何か生命力を感じる、という思いを今までも抱いていました。


心理学用語で防衛機制という言葉がありますが、いらない防衛をするほどに、それは本来の生命力から離れていくように感じます。


成熟した社会において、誰もが自分を他者を敬いながらも、イキイキと生命力を発動させて生きるのに、いらない防衛を手放していくことはとても大切と感じます。


異国で観るあらゆる景色は、何を手放し、何を内側から出していくか、のヒントを与えてくれているようでした。


今日もお読みいただきありがとうございます。

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