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龍神考(23) ー人魚のミイラと猿女と龍女ー

青海波紋様の采女装束と魚皮製衣服

 魚の鱗のようにも見える「青海波」の紋様の衣を着る采女に、魚の鱗を持つ龍を連想し、采女は信仰思想上はやはり龍女の系譜にあるとの思いを強くしました。


 前回「龍神考(22)」に載せた福岡市東区三苫の渚に寄せ来る「青海波」の写真に見るように、実際の「青海波」は紋様の「青海波」のような扇形にはなりません。

福岡市東区三苫の綿津見神社の海岸に、長く尾をひきながら寄せくる「青海波」(2024年1月13日)


 しかし紋様の「青海波」は魚の鱗や扇の形に似せることで、「青海波」に連なる多くのものごとを一度に暗示、伝達することができます。

 具体的には前回は「青海波」を海の波だけでなく、その海に棲む魚の鱗、魚の鱗を持つ龍、その紋様が入った衣を着る采女、采女に通じる龍女が祀っていたはずの雷神猿田彦神が神楽でよく手にする扇などを一度に暗示、象徴する情報伝達手段として受け止めることができたのでした。
 これはもちろん他の紋様、家紋などについても言うことができます。

 このように、情報を象徴で伝達していく信仰に関係するものは、常に複数の含意を有することを前提に受け止める必要があります。
 そしてさらに、個々のものが暗示、象徴する様々な側面を想像し、それらの間にある近似性や共通性、論理的関係性について考察せねばなりません。

 その際に最も重要なのは、自由な発想です。
 前も触れましたが、モスクワで知り合った畏友から聞いた某全国紙ベテラン記者の「訓示」で、「世間一般の常識ではあり得ないと思われることが、実はあり得る可能性を徹底的に考えることが重要」ということです。
 彼は政治学者ですが、この「訓示」はどの分野にも適用できます。私も、日本の信仰思想の探究においてこの「訓示」を座右の銘としてきました。


 その上で話を采女に戻すと、龍の鱗でもある魚鱗を暗示する青海波紋様の衣は、アイヌの魚皮製衣服を連想させます。


 これは采女という属性に関係する天宇受賣命(あめのうずめのみこと)や豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)、海神、春日氏も含む和邇(わに)氏が、現代の常識でのアイヌやアイヌの神々だったということではなく、アイヌに限らず、海人(あま)と呼ばれた人々も魚の皮を衣類などに利用した可能性を考えてみる必要があるのではないかという問題提起でもあります。

 アイヌはサケやマスを衣服や靴に利用したようですが、福岡県嘉麻市に御鎮座の鮭神社はサケの遡上、産卵に関する自然崇拝の神社であり、御祭神には彦火火出命(ひこほほでみのみこと=天孫の三男=山佐知毘古)と海神の娘である豊玉毘賣命、その間にお生まれの鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。
 海から渚に上陸してご出産になった豊玉毘賣海から川を遡上して産卵するサケとが二重写しになった信仰だと言えます。

 この場合、海神=龍神の娘つまり龍女である豊玉毘賣の衣をサケの皮に比定してもおかしくないでしょう。

 ただアイヌと違って、衣服の素材に魚皮を使用することが大昔に廃れていると、魚皮製衣服が現代では出土することもないでしょうから、海人が九州など南方でも魚皮製衣服を着ていたことの物的証拠は見つからないでしょう。

 ただ古事記には、海神の宮に迎え入れられた山佐知毘古を「美智皮(みちのかは)の疊(たたみ)八重(やへ)を敷き、亦(また)絁疊(きぬだたみ)八重(やへ)を、其の上に敷きて、其の上に坐(ま)せまつりて」とあります。

「美智皮」とは多様な紋様と鱗で覆われた魚類の皮、「絁」は不揃いの太さの糸で織った絹布とすれば、古事記編纂時にすでに神代とされていたころ、海人は絹製の布と同時に魚類の皮も畳に使用していたことになります。

 そして魚皮で畳を張るくらいなら、衣服を作ってもおかしくはないでしょう。
 獲物を肉や内臓、骨、角など余すところなく最大限活用していた時代、山で狩猟をする人々が毛皮を纏ったのと同様に、海人も魚皮を同じように利用した可能性は否定できないでしょう。

 もしアイヌだけでなく、九州など南方の海人も魚皮製衣服を着用していた時代があったとする仮説が的を得ているとすれば、その時代が具体的にいつごろかは私もまだ見当はつきませんが、かなり古いはずです。

 しかしその記憶は後世にも伝えられ、やがて人魚伝説が生まれることになったのではないでしょうか?

人魚の由来は魚皮製衣服を着た海女?

 一般的に人魚は下半身が魚の若い女性というロマンチックなイメージがありますが、管見では、逆に上半身が魚で下半身が人間という「半魚人」と呼ぶのがふさわしいイメージもあったようです。

人魚の肉を食べた八百比丘尼の伝説がある福井県小浜市の人魚の碑(2016年3月3日昼)


 いずれにせよ、人魚は魚皮製衣服を着た大昔に実在した海人の記憶が伝承されてきた結果、後世生まれた伝説の存在とすれば、人魚の肉が不老不死の霊薬で、それを食べると若いまま八百歳も生きるとされた八百比丘尼(やおびくに)の伝説の背景が少し浮き上がってきませんか?

 海中では水圧と浮力も加わって動作が遅くなることが、陸上よりはるかに時間の経過が緩慢になるという意識につながり、これが、山佐知毘古と豊玉毘賣の神話がベースの浦島太郎の物語で、浦島太郎が竜宮城から陸に戻ると大変な年月が過ぎていたという設定が生まれたと思います。

山佐知毘古と豊玉姫命が結ばれた「愛の島」とも云われる福岡県新宮町の相島(2024年1月13日)


 そうすると、八百比丘尼伝説が生まれた背景には次のような発想があったと考えられませんか?
・海中は水圧と浮力で動作が遅く、陸上より時間が緩慢に過ぎ、老化もしにくい…
・大昔から魚皮製衣服を着て生きてきた海女が若いまま人魚に化した…
・不老長寿の人魚(海女)の肉を食べた人間も不老長寿の恩恵に与る…
・尼僧(男の僧侶も)は彼岸(川や海の向こう側)という異界と交流できる人…
・「尼」に「あま(海人、海女)」の言霊が当てられた…

人魚のミイラ=猿の上半身+魚の下半身

「尼」に「あま(海人、海女)」の言霊を当てた日本にはいろんなところに人魚伝説や人魚のミイラがあります。

 和歌山県の高野山の近く、橋本市学文路の学文路刈萱堂も人魚のミイラがあり、一度参拝したことがあります。あいにくミイラ自体の拝観はできませんでしたが、堂内には資料も豊富に掲示してあり、大変有意義な参詣となりました。

和歌山県橋本市の学文路苅萱堂の正面右上に飾られた人魚のミイラの拓本(2019年11月20日)


 高野山から帰った後でウィキペディアで「人魚」を調べると、「人魚のミイラ」は西洋向けの輸出用として日本各地で作られ、下半身は魚で、上半身は……
なんと猿!?

日本各地では、人魚のミイラあるいは剥製と称して猿の頭・胸部に魚類の胴体・尾を継ぎ合わせたものが、西洋向けの土産品として作成されていた。

ウィキペディア「人魚」の記事中の「人魚のミイラ」より


 しかも、盛んに人魚のミイラが作られた時代もあったようです。


 2019年当時は、人間に近い猿の上半身がその大きさが魚の下半身に合体させるのにちょうど良いからだろうという程度に思っていました。

 しかしこれまでの「龍神考」で、人魚を食べた八百比丘尼の伝説にしばしば庚申待ちの信仰が関係し、庚申は猿田彦神の縁日であり、その猿田彦神を龍鱗(魚鱗)の青海波の衣を着る采女につながる龍女=「日巫女」が御蓋山に遥拝する春日信仰の原風景に思い至った今、人魚のミイラに猿の上半身が使われた背景に、猿田彦神を祀る春日の龍女、庚申待ちの日に人魚の肉を食べる八百比丘尼、という古くからの信仰思想があった可能性が脳裏に浮かんできました:
⑴人魚のミイラ=猿の上半身+魚の下半身
⑵八百比丘尼伝説=庚申(猿田彦神の縁日)の日に人魚の肉を食べる若い女性
⑶春日信仰の原風景=猿田彦神を祀る「日巫女」=龍女=「青海波」を着る采女

 参考までに、ウィキペディアの「八百比丘尼」の記事の中に引用された「八百比丘尼伝承の死生観『人文研究』第155号」の文章を載せておきます。

ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。— 八百比丘尼伝承の死生観『人文研究』第155号

小野地健「八百比丘尼伝承の死生観『人文研究』第155号」『人文研究』第155号、51-52頁:
ウィキペディア「八百比丘尼」に転載部分


福井県小浜市の空印寺の八百比丘尼入定窟(洞窟の周囲に椿、2016年丙申3月3日甲申)


 ここで、上記⑴〜⑶に共通する龍+猿の組み合わせの意味について再考してみましょう。

「龍神考」は古代中国で龍が「あらゆる動物の祖」と考えられていた、という京都国立博物館の公式サイトの記事から実質的に始まりました。
 つまり、動物の一種である人類からすれば龍は「遠祖」になります。
 すると、龍と猿と人類の間に次の関係性が浮かび上がります:
 龍=「あらゆる動物の遠祖」→猿(獣偏+遠)=「人類の遠祖」→人類

 尤も「猿」は元々「猨」と書き、その成り立ちは『漢字・漢和辞典ーOK辞典』というサイトによれば、次のとおりです:

「耳を立てた犬」の象形と「あるを上下から手をさしのべてひく」象形(「ひく」の意味)から、長い手で物を引き寄せてとる動物「さる(ましら)」を意味する「猿」という漢字が成り立ちました。

『漢字・漢和辞典ーOK辞典』の「猿/猨」という漢字


 しかし「長い手で物を引き寄せてとる」というその対象物は、長い手でないと届かない「遠く」にある物のはずです。
 つまり「猨」にも「遠い」というニュアンスが含まれていると思います。

 ただ私には、あらゆる動物の中で姿形では猿が最も人類に近く、それゆえに猿は直接的に人類につながる「遠祖」と古来考えられてきたことが、「猨」から「猿」に変化した背景にあるのではないでしょうか?

 猿よりもっと遠い祖先として龍がいるわけですが、猿=申=雷とすれば、雷は龍が呼び起こす雲の中に現れ、また雲の中の龍の周りにも描かれることから、龍も雷=申も申=猿もほぼ一体のものとして観念されてきた、とも言えます。

「申」はなぜ「雷」であり「猿」なのか?

 しかし「申」と「猿」は音読みでは「シン」と「エン」なのに、日本の訓読みではなぜどちらも「さる」となったのでしょうか?

 思うに、俊敏に木から木へジグザグに飛び移る猿の動きが、一瞬のうちに蛇行しながら走る雷光と二重写しに意識されたからではないでしょうか?

 そして猿も申=雷光もあっという間に私たちの目の前から「去る」から「さる」と呼ばれるようになったのではないでしょうか?

「龍神考(19)」に写真を載せた魔除けの「猿面」も、「魔が去る」という言霊信仰が背景にある、と聞いたことがあります。

 また蛇行と言えば、蛇も木から木へ飛び移る際に身体が蛇行しています。



 これらの点も、龍の身体がしばしば蛇行する蛇体のように描かれる背景にあるのではないでしょうか?以前掲載したブータンの国旗の中の雷龍もその好例です。

「龍の国」を意味するブータンの国旗には身体が蛇行する雷龍が描かれている


 改めて日本の言霊信仰の奥深さが垣間見えてきます。

人魚のミイラが暗示する猿面と猿女と龍女

 以上から次のように整理できます:
①龍は雲の中の雷=申(さる:蛇行して走る雷光)=樹林を蛇行して飛び移る猿
②申=雷の母体となる雲を起こすのも龍
③日巫女の「云う」祈りに感応した太陽が温めた海から昇る「云」が雲を形成
④祈りを「云う」ことで「云=雲」を呼び起こす日巫女は龍女
⑤雷神猿田彦神を龍女=日巫女=比売神が祀る姿が春日信仰の原風景
⑥申の日と満月が重なる直前の雷神武甕槌命の春日御蓋山御降臨と大宮御遷座
⑦采女祭斎行の仲秋の名月は「雷乃収声」(雷神猿田彦神が去る秋分初候あたり)
⑧龍鱗(魚鱗)の青海波紋の衣を着る采女は魚皮製衣服の海女=龍女の系譜
⑨八百比丘尼は猿田彦神の縁日の庚申の日に人魚(魚皮製衣服の海女)の肉を食べる
⑩人魚のミイラは猿の上半身と魚の下半身の合体

 春日において猿田彦神を祀る龍女=日巫女の系譜につながる采女と言霊や性格が近い天宇受賣命は、猿田彦神の死後にその名を担い、猿女君(さるめのきみ)の祖となられたのは、言霊の点からも一層意味深長です。

「さるめ」の言霊は魔除けの縁起物「猿面(さるめん)」の由来だと思うからです。
 前述のように、猿田彦神の名を担ったことが猿女君の姓の由来ですが、誰か人の名を耳目にした時、それがすでに面識のある人なら、私たちはまずその人の顔=面を思い浮かべるからです。
 名(言霊)を担う(継ぐ)とは、顔=面と祭祀を担う(継ぐ)ことでもあります。

 すると、人魚のミイラは次の信仰思想に基づいて作成されたと推論できます:
◉人魚のミイラ=魚の下半身+猿の上半身(胸部+頭部つまり「猿面」)→猿女君→天宇受賣命→采女→龍女→日巫女→比売神→天照大御神

 この天宇受賣命→・・・→天照大御神に強引さが感じられるかもしれませんが、岩戸にお隠れの天照大御神は、天宇受賣命の踊りを見た八百萬神の楽しい笑い声を耳にして、自分が岩戸に隠れて世界は暗いはずなのに笑い声が起きたことを不審に思われます(古事記参照)。

 ここに天照大御神と天宇受賣命の近似性が暗示されています:
・天照大御神が岩戸の中(曇天・雨天)ならば、八百萬神(衆生)の笑い声はないはず
・天照大御神が岩戸の外(晴天)ならば、八百萬神(衆生)の笑い声が起きうる
・天宇受賣命が岩戸の外で踊ると、八百萬神(衆生)の笑い声が起きた

 今回は人魚のミイラ=猿女説に至りましたが、ノルウェーの画家、ムンクの名作『叫び』に描かれた人物の表情に似たミイラ(「ムンク型」)も作られた背景には、海で溺死される時の猿田彦神の断末魔の表情が念頭に置かれていたとすれば、人魚のミイラには神話の非常に深く細かい面まで反映されている可能性もあります。

 フィヨルドという深く狭い入江の青黒さに血を想わせる夕空の赤さが加わった夕景に恐怖して『叫び』を描いたムンクも、西洋に輸出された日本の人魚のミイラを目にしていたという「あり得なさそうなこと」が、実はあり得る可能性を考えてみても面白いかもしれません。

 いずれにせよ、自然が時に想定外の不思議な光景を生み出すことは経験的に確かです。
 自然崇拝は精緻な自然観察に基づく現実的な思想だと考える私にとって、「神」とは自然の様々な要素や相互関係のことです。
 自然が見せる光景に何を感じ、どう受け止めるかは、ムンクのように人それぞれですが、何らかの意味があるはずと常々思っています。

 次の二つの写真は東大寺の「お水取り」のために小浜市の天台宗霊応山神宮寺で行なわれる「お水送り」の当日、2016年3月2日の朝に宿の窓から拝んだ朝陽ですが、立ち昇る川霧の上の朝陽が撮影中にどんどん縦に伸びていきました。
 今ふと思いついて、地図で撮影地点(ホテルの部屋)から見た太陽の方向を調べると、当日最初に参拝予定だった若狭姫神社(豊玉姫命)の近くの遠敷の交差点辺りの方向のようでした。

遠敷明神(龍女豊玉毘賣命)の「お水送り」当日、小浜市内の川から昇る霧と朝陽(2016年3月2日)
雲の影響なのか、撮影中にどんどん縦に伸びていった朝陽(2016年3月2日7時過ぎ)

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