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日本の國體と相反する「常世」

天孫降臨前の国作りをされた大国主命


大国主命は天孫降臨前の統治者


「龍神考(29) ー「田」が示す天孫降臨前史ー」など一連の記事で、大国主命が天孫降臨以前のわが国の統治者を暗示する神格であることに言及しました。


 そこで、天照大御神のご子孫への国譲りの条件として建立された出雲大社の本殿が「田」の字形に仕切られていることの背景に、「田」の字は狩猟・農耕用地の区画に由来し、また狩猟や農耕の意味があることから、それは国土の区画をする存在やそれを行使できる権力者の存在を暗示するものと言え、「田」の字形の社殿をお求めになった大国主命が国土の区画を行なうことのできる権力者だった歴史が窺えます。

 しかし雷神武甕槌命に国譲りを迫られ、即答は避けるものの、最終的には承諾されます。

 その後の暫定的な日本の統治者だったことを暗示する「田」の字と、雷光を意味する「申」と同じ言霊の「猿」の字を併せ持つ雷神の猿田彦神が、高天原から降臨中の天孫邇邇芸命を空中でお迎えし、「申」=雷光でもって道案内をされ、天孫はその道筋=雷光に沿って高千穂に降臨されたと「龍神考」では考えてきました。

 これを自然崇拝の観点から読み解くと、春分の頃の太陽エネルギーや春の日光=「春日」である天孫が雷光に沿って、換言すれば、雷光と一体化して「高千穂」(多くの高木の穂先)に降臨する様相を擬人的に表現した神話であって、天孫降臨の様相は「立」(即位)と「日+乚」(春の若い太陽=春日)または「申」(雷光)を組み合わせた「竜」の一字で表現されることにも気づきました。

 天孫降臨が自然界において意味することが、春の太陽エネルギーが樹木に及ぼす影響であることは、地上降臨後の天孫が結ばれたお相手が桜を想わせる木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)であったことにも窺えます。

 そして広義の「天孫降臨」=「竜」を歴代天皇の即位と捉えると、天皇の御尊顔を「竜顔」、御心を「竜」=「辰」を含む「宸襟」と申し上げることの信仰思想上の背景にも想到した次第でした。

 今しばらくは「龍神考」をお休みしていますが、今回思い起こしておきたいことに触れるため、大国主命について少し振り返ってみました。


オオクニヌシの国作り

 大国主命は少彦名命と一緒に国作りを進められます。

 神々のお名前は様々な表記があり、今回は古事記と日本書紀の記述の比較も多いですので、神号はオオクニヌシ、スクナヒコナなどカタカナで表記します。

 古事記ではスクナヒコナの父はカミムスビ(原初の神であるアメノミナカヌシと次に顕現されたタカミムスビとともに「造化三神」の一柱)。

 そのカミムスビの指示で、オオクニヌシはスクナヒコナと国作りをされますが、その後スクナヒコナは「常世国(とこよのくに)」に去られます。

 オオクニヌシはそのことを悲しみ、独力では国作りに不安があり、どの神と協力したらよいのかと嘆かれますが、その時に海を照らしつつ近寄ってくる神があり、「倭(やまと)の青垣(あをかき)東山(ひむかしのやま)」に祀ることを条件に国作りの協力を申し出られ、「御諸山(みもろのやま)」に御鎮座と古事記にあります。

 日本書紀はスクナヒコナが「常世郷(とこよのくに)」に去った後にオオクニヌシは独力で国作りを成し遂げたと思われましたが、そこへ海を照らしながら浮上してきた神が、オオクニヌシの国作りはその「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」があってこそ可能になった旨を告げられます。

 この神は「大三輪の神」ともあり、「三諸山(みもろのやま)」に住むことを希望されます。

 現在の奈良県の三輪山を御神体とする大和国一之宮大神神社の御祭神は大物主(オオモノヌシ)神で、日本書紀にはオオクニヌシの別名とあります。

 細かい異同はさておき、以上からはオオクニヌシはスクナヒコナと共に国作りを進められますが、スクナヒコナは常世に去り、その後オオクニヌシは「幸魂奇魂」=オオモノヌシの霊力に与って国作りを成し遂げられた、と言えるでしょう。

 オオモノヌシが祀られる「御諸山」=「三諸山」は「倭の青い垣のような東方の連山」と思いますが、神を祀るとは内面の心を通じた営みですので、オオクニヌシが独力で国作りを完遂できたのは、オオモノヌシを祀ったからであるとの記述も、「幸魂奇魂」があったからだとする記述も、本質的には矛盾しないのです。


 オオクニヌシの「幸魂奇魂」であるオオモノヌシは大和国の東部に青垣のように連なる「東山(ひむかしのやま)」に御鎮座ということは、人間からすると日の出の方に向かって祀っていることを暗示しています。

 つまりオオクニヌシの「幸魂奇魂」=オオモノヌシは太陽と関係する神格であることが窺えますが、そのことは、「幸魂奇魂」=オオモノヌシが「海(うなはら)を光(てら)して」(古事記)、「神(あや)しき光(ひかり)海(うな)に照(てら)して」(日本書紀)登場するところにも窺えます。

 以上から、「御諸山」や「三諸山」の山名は、時の流れとともに移動する日の出の目印になる山々を示している可能性が考えられます。

 特に「三諸山」の表記は、南から北へ順に、冬至、春分・秋分、夏至の日の出の目印となる三つの山、を暗示しているのでしょうか?

 このことはまた、国作りが長い年月を要する作業であることも示しています。

 日の出の位置が「倭の青垣東山」(大和国の青い垣のような東の連山)を何往復もするような長年月に亘る努力の末に、国作りは成し遂げられたのでしょう。


「青垣東山」から海を照らす旭は夏至は左端の立花山の左の上和白大神神社付近から昇る(福岡市西戸崎、今年1月5日)。西戸崎神社は昭和期創建ではあるものの、ご祭神に大国主命が含まれるのが興味深い。


スクナヒコナによる協力の頓挫


 このオオクニヌシの国作りを可能にした「幸魂奇魂」=オオモノヌシの霊力は、スクナヒコナが常世に去った後に発揮されたと解釈できます。

 それは、スクナヒコナの協力は途中で頓挫していること、そしてオオモノヌシの霊力はスクナヒコナの協力とは対照的な性格のものであることも暗示しています。

 オオモノヌシの霊力は長年月に亘る正攻法による地道なものであるのに対して、スクナヒコナのそれは奇抜で素早いものを感じさせます。

 それはスクナヒコナが「最(いと)悪(つら)くして、教養(をしへごと)に順(したが)はず」、父神(日本書紀では、タカミムスビ)の「指間(たま)より漏(く)き墜(お)ちにし」神であると日本書紀に記されている点にも窺えます。

「悪くして」の解釈についてはいつか詳述しますが、「悪」とは現代的な意味での「善悪」の「悪」ではなく、「性急に何かを求める心」だと考えています。

「教養に順はず」はそれこそ順当な方法、「正攻法」ではなく、「奇抜な方法」や「より即効性のある方法」を採ることと解釈しています。

 このように、スクナヒコナは奇抜なアイデアに恵まれ、動きが速いため、父神は手で捉えようがなく、指の間から漏れ落ちてしまった、とも解釈できるでしょう。


 そのような動きの速く、奇抜なアイデアが豊富なスクナヒコナは、現代受けするサクセスストーリーのヒーローのようでもあり、国作りの有能な助っ人と思われても当然でしょうが、記紀神話の中では突然常世郷(とこよのくに)に去られます。

 その去る様子は、「淡嶋(あはのしま)に至りて、粟茎(あはがら)に縁(のぼ)りしかば、弾(はじ)かれ渡りまして常世郷に至りましき」とも日本書紀は記します。

 身体が小さなスクナヒコナは急いで勢いよく粟の茎を登っておられたのでしょうが、その勢いがよく速い動きによって粟の茎の揺れが大きくなっていき、ある瞬間に思いがけぬ形で弾かれてしまいました。

 常人には思い付かない奇抜なアイデアが湧いて出る頭が良く優秀なスクナヒコナにとってさえ、想定外の自然界の作用が働いたことになります。

 こうしてオオクニヌシとスクナヒコナの共同作業による国作りは不意に終わりを告げたことを記紀神話は伝えているのです。


オオクニヌシとスクナヒコナの神話の現代的意義

医薬の神の国作りが導く「常世」


 オオクニヌシとスクナヒコナには「医薬の神」としての共通項もあり、特に後者は「知識・知恵の神」として祀る神社も多いです。

 現代でも大学の医学部は他の学部より入学のハードルが高く、修学年数も長く、さらに国家試験にも合格して医師となった卒業生らは「頭の良い人たち」と思われています。

 神話でも、鰐(わに)を騙したために鰐から生皮を剥がされ、さらに「医薬の神」オオクニヌシの兄弟である八十神(やそがみ)から逆効果の「治療」を唆されて試したために痛みが悪化して悲しんでいた因幡の白兎に、オオクニヌシはすぐに適切な治療法を教えてお救いになりました。

 そのような「頭の良い」オオクニヌシやスクナヒコナが協力すれば、国作りも手際よく進み、国家体制も早急に整備されるだろうと、現代人は考えるでしょう。

 そしてそれは「素晴らしい、賞賛に値する」ことだとも思われるでしょう。

 しかし古事記も日本書紀も、スクナヒコナは突然姿を消し、オオクニヌシが今度は太陽に見守られながら、長い年月をかけて国作りを進めていかれたことを示しています。

 そのスクナヒコナが去って行かれたのは「常世国」や「常世郷」とされますが、「龍神考(33) ー龍神の直行と蛇行ー」で古事記上巻の締めくくりに登場されるトヨタマヒメ、ウガヤフキアエズ、タマヨリヒメ、イツセ、イナヒ、ミケヌ、ワカミケヌ(人皇初代神武天皇)をそれぞれ、魚類、爬虫類、両生類、鳥類、海棲哺乳類、陸棲哺乳類、人類の誕生を反映するものという見方を提示しましたが、ミケヌ=陸棲哺乳類は「常世国」に渡ったと記されています。

「御毛沼命(みけぬのみこと)は、波の穂を跳(ふ)みて常世國(とこよのくに)に渡りまし」と古事記の上巻のほぼ最後に記されていますが、他方スクナヒコナは「淡嶋(あはのしま)に至りて、粟茎(あはがら)に縁(のぼ)りしかば、弾(はじ)かれ渡りまして常世郷(とこよのくに)に至りましき」という日本書紀の記述とを比べると、次の三点が共通していることが分かります。

・「常世」と「渡る」という表現が共通

・「跳み」と「弾かれ」の表現は「飛び跳ねる」ニュアンスが共通

・「粟」と言霊が同じで「粟粒」の形状に似た「泡」や「阿波」は、「波の穂」=「波の先端」=「波の泡」=水の粒=「泡粒」でもある

 神話では霊的に似たものや同じもの同士の描写において、似た表現や同じ表現を用い、そのことによって両者の霊的、本質的な共通性を暗示する手法をとります。

 ということは、スクナヒコナは陸棲哺乳類が落ち着くことになった「常世国」、別の表現をすれば、「獣の世界」に去って行かれたことになります。


 ここまでを少し整理してみましょう:

・スクナヒコナは頭が良くて知識・知恵が多く、行動も速い医薬の神

・オオクニヌシの国作りに協力するも、思いがけず「常世」=「獣の世界」に去る

・オオクニヌシは、太陽に通じる自己に内在の「幸魂奇魂」=オオモノヌシの霊力を発揮して長い年月をかけて国作り


 以上は、医薬の専門家の助言指導に依拠して政府や報道機関が国民や企業に諸々の検査や対策を形式上は推奨しつつ、社会的圧力を醸成して実質的に強要してきた近年の状況を顧みると、非常に意味深長な神話に見えてこないでしょうか?

「高度な専門知識」や「優秀な頭脳」の持ち主と一般的に思われがちな「専門家」の助言指導に従って、人と人の間に仕切りを立て、飲食の場所や時間帯を制限し、自分が着用や摂取をすれば周囲の病原から「守られて安心・安全なはず」の対策をなぜか周囲の他者にもさせないと安心できない、という大矛盾が横行しました。

 いかなる盾も貫通する矛といかなる矛も貫通させない盾を売る者がいて、ならばその矛でその盾を突いたらどうなるか?とツッコまれた、という「矛盾」の由来となる中国の昔話を「漢文」の授業で学びましたが、周囲の病原から守ってくれるはずの対策を周囲の他者にもさせないと安心・安全でないということは、その対策自体は病原から客観的に守ってくれるものではなく、主観的な「気休め」にしかならないと認めるにも等しいのではないでしょうか?


 しかもそれらの対策が無害ならまだしも、実は有害だった「可能性」が、今ようやく大手報道機関でも取り上げられるようになってきました。

 先ほど、鰐に皮を剥がれて苦しんでいた因幡の白兎が、オオクニヌシの兄弟の八十神に不適切な治療法を唆されて試した結果、さらに痛みが悪化した神話について前述しましたが、まさにここ数年の医薬の専門家らが盛んに推奨し、事実上強要されてきた様々な不適切な検査や対策で却って健康を害した人々は「因幡の白兎」、専門家らは「八十神」に神話上は当てはまるのです。


 飲食の場所や時間帯が制限され、会話や飲食の際に仕切りが立てられる光景は、家畜が一頭一頭仕切られた空間で決まった時間帯に給餌される情景に似ています。

 これは私自身が思い付いた喩えではなく、十数年前だったか、ある広告代理店の方の通訳アテンドをしていた時に、その方が冗談半分で航空機内の食事時の様子を喩えた言葉を思い出したものです。

 そう云われた私は、機内の食事時に自分もその「家畜の一頭」になっている姿を客観的に想像して苦笑したものでした。

 また、個人の体質などに無関係に画一的に「十把一絡げ」の対策を要求し、その実行の有無を記録管理して、それによって様々なサービスへのアクセスを規制することなども、家畜にタグを付けて行動などを管理するのと本質的な違いはありません。

 記紀神話に準えて言えば、まさに「医薬の神」が主導する「常世」=「獣の世界」

 この光景は日本だけでなく、ほぼ全世界で見られたことから、記紀神話の表現の細部に至るまでの奥深さと普遍性を痛感させられたこの数年でもありました。


情勢判断のための記紀神話


 神話、特に自然崇拝思想に基づく神話とは、人類も含む自然界の摂理を説くものでもあり、それは平均寿命が百年にも満たない人間からすれば、過去だけでなく現在、未来も、いつ、どこでも本質的レベルで確認でき、再現されていくものです。

 つまり過去の歴史や現状も、記紀神話に照らしてみると、それらの霊的な意味が判明し、未来の展開も占うことができるのです。

 その記紀神話によると、日本の代表的な医薬の神であるスクナヒコナが「常世」=「獣の世界」に弾かれて姿を消した後、もう一柱の医薬の神、オオクニヌシは太陽に見守られながら時間をかけて国作りを進められましたが、それでも最終的に高天原から「青天の霹靂」のように降りて来られた雷神タケミカヅチに迫られて、太陽神の子孫への国譲りをすることになりました。


 それは「龍神考(25) ー慈悲の春日の雷音ー」にも述べましたように、雷神のシューマン共振と太陽神の音波による傷ついた細胞やDNAの修復を暗示しているのかもしれません。



 人為的努力の限りを尽くした医薬が却って健康を損ねることがあり、その場合は雷と太陽で修復されうる可能性を示しているのでしょうか?

 そして医薬の専門家らが主導する政治は突如として、彼ら自身にとっても晴天の霹靂のように不意に終わりを迎えること、少なくとも人間社会からは弾き飛ばされてしまうことも暗示していますが、ここ数年、日本だけでなく世界各国でも国家、社会を主導してきたような専門家やその伝達者となってきた人たちが、気がつくと立場が危うくなり、急に前言を翻したり、かつて発信した情報を自ら削除するようなことが相次いでいる現状にも合致しています。

 それでも尚、医薬の専門家らが主導する世界を構築しようとする動きはますます性急さを増しているように見えますが、急げば急ぐほど、彼らが上り詰めようとする「淡嶋」の「粟茎」の揺れ幅が大きくなっていき、彼らが突如弾き飛ばされるタイミングが早まるばかりのように、記紀神話を読むと予測されます。


 医薬の神スクナヒコナは「淡島さま」や「粟島さま」とも呼ばれますが、その際の図像は基本的に女神のお姿で、病気、特に女性特有の病気から守ってくださる神様として信仰されています。

 ということは、スクナヒコナは頭が良く行動が速い若い(または幼い)医薬の女神とイメージすることも可能でしょう。

 人間に喩えると、優秀な若い女性の医師や看護師、はたまた医療・医薬の分野の企業・団体の若手女性職員、といった感じでしょうか?


 しかしこのような現代的価値観では賞賛に値するような属性の人物が国を主導すると、当人やその支持者らが突如として「常世」=「獣の世界」へ弾き飛ばされてしまうことを記紀神話は示しているのです。

 現代的価値観ではなかなか理解し難いかもしれませんが、「急を要する事態」だからといって、医薬の専門家の助言指導に政府や国民が事実上従わされた過去数年間を振り返ると、前述のような「常世」=「獣の世界」に陥っていたことに気付かされます。


「常世」とは「ずっと変わらない世界」とも解釈でき、「安心・安全」を大義名分に、いつしか「急を要する事態」だろうとそうでなかろうと、「予防」を大義名分に、常日頃から変わらない対策を求められるようになってきた状態も「常世」と呼ぶことができるのではないでしょうか?

 そうすると今度は、医薬の専門家は経済的利益だけでなく、専門知識のない政府や国民が自分たちの言うことに盲目的に従う状態に心も満たされるようになり、その状態の持続可能性、いわば「常世性」を追求し出し、それを恒久化すべく新法を定めたり、憲法を変えることを望みます。


 そのような動きは一国だけに留まらず、全世界レベルでも見られます。

 世界保健機関は今月下旬からの総会で、国際保健規則の内容変更や疫病についての条約などを議題にし、それらを通じて日本を含む世界の加盟各国に様々な措置や対策を実質的に強制できる権力の獲得を求めているとの情報があります。

 そしてこの動きに呼応するかのように、日本でも専門家や政府が発する情報に疑いを抱かせるような情報を「誤情報」として監視する動きも進行中ですが、国連もそのような動きを見せ始めているようです。

 これらの動きについては以下のブログ記事などから大体把握できます。



 しかし人間誰しも「完璧」で「無謬」な存在ではなく、それは政府の立場の人々も専門家も例外ではありません。

 素人がふと何気なく口にしたことや素朴な指摘が、新たな気づきや大きな発見につながることも少なくないのは、分野を問わず、仕事や研究、趣味など何でもよいですが、何かに一生懸命取り組んでいると、不思議とそういうことがあるのは誰でも経験的に知っているのではないでしょうか?

 それ故、多様な考え方や意見があるのは当然で、自分と異なる見解や素人の声に耳を傾けることが大切なのは誰しもわかっているはずですが、現状を見ると、忘れられやすい真理でもあるようです。

 しかし「忘れられやすい」からこそ、誰もが自分の良心にしたがって自由に意見を述べることが尊重されるべきでしょう。


「医療社会主義」という現代の「常世」


 言葉を多様に駆使して複雑な思考や言論を展開することができるのも人間が他の動物と大きく異なる特徴ですが、言論が規制、禁止され、自由に意見を述べることができないのは、言葉を操ることができない「獣の状態」=「常世」に封じ込められた状態であり、政府や政府御用達の専門家らが発する情報、見解の復唱のみ許される状態とは、ヒトがオウムの真似事をさせられ、「オウム」の繰り返すことだけが「真理」や「真実」だと信じ込まされるカルトな状態です。


 このような「常世」を望む勢力は、具体的には医療分野や災害時の「急を要する事態」を利用して、「常世」を一つの国だけでなく世界中に拡散しようとしていることは上述のとおりですが、これを私は「医療社会主義」であると、以前にも言及した情報誌『世界戦略情報 みち』(文明地政学協会発行、昨年12月15日付で終刊)において表現してきました。

 世界保健機関などが目指す「医療社会主義」とは、加盟国にとっては主権の制限であり、やがて国家の廃止につながるものです。

 20世紀後半に東欧中心の社会主義陣営と西欧や日米らの資本主義陣営との「東西冷戦」が続いた時代、社会主義陣営の「盟主」ソ連は、社会主義諸国での「社会主義制度の崩壊」を予防する軍事介入を正当化する「制限主権論」という考え方を持ち出しましたが、社会主義や共産主義という全体主義思想がそもそも「世界全体の革命」を前提としていたことからして、社会主義陣営全体に対する「制限主権論」は社会(全体)主義思想の論理的必然でもあったわけです。


 第一次世界大戦を内戦に転化させる武力革命、つまり「軍事的非常事態」で誕生したソ連などは「兵営社会主義」と呼ばれ、軍の社会的位置づけが非常に高い体制でしたが、それに対して現在は疫病などの「医療的非常事態」に医薬の専門家が社会を主導する「医療社会主義」が新たに登場してきたとも言えます。

 ただし、戦時は多数の死者・傷病者が発生するので、実は「兵営社会主義」も「医療社会主義」も表裏一体のところがあり、ソ連の医師が軍の階級も持っていた(今のロシアの医師も同じ)ことは、「兵営社会主義」と「医療社会主義」との類似性を暗示して興味深い制度です。


 こういう視点に立つと、日本でも近隣諸国からの「軍事的脅威への対応」を大義名分としながら、疫病や災害による「医療的脅威」への対応を念頭に置いた条項の追加を主眼とする改憲が進められようとしていることに、一貫したものがある点に気がつきませんか?

 さらには、「医薬の神」オオクニヌシを、戦争の神でもあるインドのシバ神に由来する大黒天と習合させた日本の神仏習合思想の奥の深さも窺えます。

 その戦争の神シバ神の像が世界保健機関にも飾られているそうですが、このような「医療社会主義」が、世界保健機関の加盟国日本にとっても国家主権の制限からやがては国家の廃止につながり得ることは、戦争が敵国の主権を侵害し、場合によっては国家を破壊する行為とも言えることからしても、当然でしょう。


日本の國體と相反する「常世」

「女性宮家、女性・女系天皇」は「医療社会主義」への布石


 では、日本人にとって国家の廃止とは具体的に何を意味するでしょうか?

 それは、天皇を拝戴する国家のあり方=國體の廃止でもあり、まさに国家転覆の「社会主義革命」なのです。
*「國體」とあえて旧字体で書いたのは、国民体育大会の略称の「国体」とは違うことを強調するためでもあります。

「医療社会主義」による「世界全体革命」を目指す勢力にとって、日本を現存世界最古の国家たらしめている現存世界最古の皇統が究極の標的であることは、論理的にも自ずと明らかでしょう。

 人皇初代神武天皇に遡る男系皇統が存在し続ける限り、「医療社会主義」による「世界全体主義革命」は決して成就しないからです。


 したがって「医療社会主義世界革命勢力」は神武天皇以来の皇統の断絶を望み、「女系天皇(換言すれば別の男系天皇)論」やそれにつなげる「女性天皇(具体的には今上陛下を父とする敬宮愛子内親王殿下の「父系天皇」擁立)論」、さらにその「橋頭堡」にする「(相手が外国人であれ)婚姻後の女性皇族の皇籍残留論」を持ち出して、「波状攻撃」を仕掛けているように見えます。

 表向きの党派などの所属に関係なく、これらの案を提唱、賛同し、または異論を出さない政治家や言論人は、「医療社会主義世界革命」に加担していることになりますが、彼らの多くはそれに気づいていないのではないか?という気さえします。


 この「医療社会主義世界革命」のための「波状攻撃作戦」の要が、日本赤十字社の若手女性職員となられた愛子殿下の利用です。

 こうした視点に立つと、愛子殿下の日本赤十字社入社→「(相手が外国人であれ)婚姻後の女性皇族の皇籍残留案」を第一案とする意見書を自由民主党が取りまとめ→天皇皇后両陛下訪英の日英同時正式発表→日本国民のあたかも「9割」が「女性天皇論容認」とする世論調査結果報道→世界保健機関での疫病対策に関する条約などの大詰めとなる交渉の始まり→わずか2週間の「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」パブリックコメント5月7日に締切→5月に「皇族数確保の方策」に関する衆参両院の議長と各党代表者の協議開始、という動きが一連の流れの中にあることが見えてくるでしょう。

 そして今通常国会(〜6月23日)において、将来的には「愛子天皇擁立」に繋げる「(相手が外国人であれ)婚姻後の女性皇族皇籍残留案」法制化の目処を付けるなどして、6月22日ご出発の天皇皇后両陛下訪英の「土産」とする意図すら感じるのは私だけでしょうか?

「皇位継承の安定性」のために必要なのは女性皇族ではなく、男系皇統の男子ですので、女性皇族の皇籍残留は何の解決、改善にもなりません。

「皇族数確保の必要性や喫緊性」という言葉もよく耳目にしますが、ならば「急を要する事態」でほとんどの企業や組織が行なったように、国民的議論も国会審議も不要な公務の削減や国務大臣による代行で対処すればよいのではないでしょうか?

「皇族数の確保」と聞けば聞くほど、「公務の数の確保」、もっと言えば「皇族方におでましいただく公務による有形無形の恩恵の数の確保」のための必死の訴えのようにも聞こえてくるのですが、皆さんはどう思いますか?

 ちなみに『週刊新潮』平成17年12月8日号に「宮家ひとつ「25億円!」 女帝容認で「60宮家誕生」のネズミ算」と題する記事も出ていたことを知りました。
*リンク先の記事の表題中の「2021年」は誤記のようで、記事内引用中の「平成17年12月8日号」だと2005年12月8日(木)で、「木曜日発売」に合致します。

「25億円」は約20年前の物価水準での金額ですので、現在や今後はいくらに膨れ上がるのでしょうか?


 もっと重大な危険性は、「婚姻は両性の合意のみに基づく」という憲法第24条の論理で、日本に対する敵意や悪意を隠さない国や、密かに日本を支配しようと企む国の国民との個人的恋愛感情に基づく婚姻を日本の女性皇族が望まれた場合などはどうするのでしょうか?

 何事も法制化するにあたって、あらゆる事態を考慮する必要があるのは当然で、女性皇族の個人的恋愛感情に基づく国際結婚を対日支配に利用されうる危険性は、政治家でなくとも、市井の庶民でも持っている安全保障感覚です。


 また霊的な意味では、「愛子天皇擁立」は伊勢の神宮や神武天皇陵、明治神宮、武蔵野御陵をご参拝になった愛子殿下をして、皇祖神天照大御神や初代神武天皇をはじめとする歴代天皇の御心を冒涜させることになるのではないでしょうか?


 そもそも「優秀さ」や「人望」で皇位継承者の決定が左右される事態を許せば、天皇を選挙で選ばれる他国の大統領同然に位置付ける形になり、それ自体が古来の血統に基づく今上陛下も含む歴代天皇と愛子殿下、皇室の正当性と権威を軽視し、否定することにつながる大矛盾である点にも気づいていただきたいです。

 どうしても「皇族数確保」が必要と云うのなら、男系皇統男子の養子縁組による皇籍復帰だけでも十分でしょう。


 生まれながらの女性皇族は、皇室への他の男系の影響を極力排除すべく、婚姻後は皇籍を離れることで皇統、皇室を守って来られたのですから、お相手が日本人であれ外国人であれ婚姻後の女性皇族の皇籍残留は不要どころか、皇室の歴史と本質に反するものです。
 

 秋篠宮皇嗣殿下は昨年の御誕生日記者会見で、改修後の秋篠宮邸に佳子内親王殿下のお部屋がないことについて、「いずれはこの家から出ていくであろう、娘たちの部屋をそこに用意すること自体がある意味無駄になるという考えからです」、とお話しになりましたが、まさに皇室の本質と歴史、生まれながらの女性皇族の宿命を踏まえたお言葉だったのではないかと拝察しています。

 その後今上陛下も今年の御誕生日記者会見で、大学ご卒業間近の愛子殿下について、「社会に出ると大変なこともあるかもしれませんが、それを乗り越えて、社会人の一人として成長していってくれることを願っています」とお話しになりましたことも、やはり皇室の本質と歴史、生まれながらの女性皇族の宿命を踏まえてのお言葉だったのではないかと忖度しています。


皇統の弥栄と愛子殿下のご多幸を願って


「龍神考(27) ー春日大社創建の時代背景ー」でも指摘しましたように、皇統の乗っ取りや断絶、国家転覆を図る勢力は女性天皇の「寵愛」をよく利用しますが、そのような企みは皇祖神など八百萬神の祟りに遭って頓挫してきました。

 しかし、神々の祟りが最悪の形でくだるのは必ずしも国家転覆の首謀者や実行犯とも限らず、その企みに利用される女性天皇や女性皇族に向かうこともあります。

 称徳天皇の寵愛を利用して皇位簒奪を狙った弓削道鏡は下野国(栃木県)に流されたのに対し、称徳天皇御自身は俄かに病に罹り、半年も経たずに崩御されました。

 これは、女性天皇の存在自体が皇統断絶と国家転覆の構造的根本要因だったからではないかと思います。



 しかし、今上陛下と皇嗣殿下から上記のお言葉が発せられるよりもずっと前に、ある占い師がYouTube動画で「愛子天皇論」について愛子殿下御自身のお気持ちを占うと、そのようなお気持ちやお考えは微塵もお持ちではないとの結果が出て、「今上陛下のご長女、愛子様はさすがだ」と感嘆した覚えもあります。

 その占断が当たっているか否かは私には分かりませんが、皇統・皇室の歴史にもかかわる日本文学を修められた愛子殿下は、いずれめでたく御婚約となれば、今上陛下の皇女として皇統・皇室への他の男系の影響を排除すべく、古来の伝統を遵守して潔く皇籍を離脱して民間に降嫁なさるはずだと思われます。

 愛子殿下が皇統断絶の企みに利用され、その結果神々の祟りに遭って大事に至ることなく、いずれ民間に降嫁なさり、お幸せな人生をお送りになることを一日本人として切に願うものです。


 以前も書きましたように、社寺参拝の折には皇統護持を祈りを捧げていますが、去る4月28日は皇祖神天照大御神の本地仏大日如来の教令輪身である不動明王のご縁日で博多の真言宗東長寺の不動護摩に参列し、やはり28日がご縁日の三宝大荒神も祀る浄土宗龍宮寺、博多総鎮守櫛田神社(天照大御神、大幡主大神、須佐之男命)へと巡拝したところ、櫛田神社の烏の飛び交う上空に逆さ虹(環天頂アーク)も現れてきました。

 十年ほど前だったか、ある真言僧から逆さ虹も瑞雲の一種と聞きましたが、今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、同悠仁親王殿下へと皇統が紡がれていくことを願う心が神慮に適うものであるように、自然を崇拝する者の一人として感じた次第です。

先月28日夕刻の博多総鎮守櫛田神社(天照大御神ほか)を参拝時、烏の飛び交う上空に現れた逆さ虹

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