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掌編小説 「夜明け前のテーブルロール」

 アオが初めて彼女に触れた時、その首すじは青く燃えていた。まるで今そこで長い旅を終えようとしている流れ星の尾のようだった。もしくは、透明に近い青のガラスをとろとろ溶かしたような炎。

 その夜、彼女は星の燃え殻について話した。

「地球上のありとあらゆる物質を遡れば、みんな宇宙の星と同じ元素に行き着くの」
 
 彼女は賢さのしずくのような黒い目で、射るようにアオを見た。「生命は星の燃え殻から誕生し、進化している。だから私たちの原料はみんな同じ。大げさに言うのなら、パンも、人間も」
 
 6月の湿った夜風が月あかりに沈んだアオの部屋の壁を撫で、ピンで留めたポストカードをそっと震わせていく。

 きれいな詩だね、と言おうとして目を向けると、ソファに横たわった彼女がすきとおって見えた。アオはソファに並んですわり、かすかな水脈の手がかりを探し当てるみたいに彼女の首すじを触った。その皮膚の奥深くに潜む感情を、アオはまだよく知らない。

「とすると、僕らは同じ材料でできているってことかな」

「私はどちらかというと、そうあってほしいと思うの」

 ゆっくり息をしながら、彼女は呟く。でも僕らはこんなにも違う人間なのに、と上下する彼女の胸元を見ながらアオは思った。昼と夜ほど、夏と冬ほども違っているのに。彼はこんな時、彼女のことを、まるで地球の裏側からやってきた最も孤独な旅人でもあるかのように感じる。

 ピピピ、とキッチンタイマーが鳴る。

 彼はキッチンへ向かい、濡れぶきんをめくってパン生地の発酵を見極める。まだ生まれたての、こわれやすい赤ん坊のようにまるまった生地を、テーブルロール形に成形し、バットの上に並べる。手のひらの中にあるのはいつも生地だ。考える脳も話す言葉も持たない、なまあたたかな一かたまり。
 
 それから彼は彼女のところへ戻る。彼女は泣いている。何かあったの? と声をかけたアオは、彼女の体がますます半透明に見えてひそかに驚く。

 彼女はかぶりを振る。そうじゃない。孤独がひと粒、彼女のなかにあって、それがふとしたことで彼女をさびしくさせる。たとえば月光が地上の闇をくまなく照らそうとして、彼女の全身に覆いかぶさること。そこに光がなければ、一も二もなく本物の闇とみなされること。

「パンは泣かないよ」

 アオは言った。———冗談のつもりで。

「どうかしら」

 余熱で温まっていくオーヴンを、うす青の夜がつめたく包んでいる。

 生地が十分にふくらんだところで、彼はそれをオーヴンに入れた。

 製菓学校では、星の数ほどパンを焼いた。

「気温、湿度、材料、分量、時間、道具、技術、アルチザン(職人)のさじ加減……、ほんのささやかな状況の変化に、パンの出来は大きく左右されます。パンは生き物なのですから」

 先生はそう言った。起こりうるはてしない結果を、しかしアオは恐れたことがない。パン作りなら得意だ。バゲットもクロワッサンもドーナッツも、わからないことは、手のひらで感じとればいい。

 月の香りを、焼きたてのパンの匂いが侵食していく。いい匂いだ。さあ、早くちぎって噛みしめてと言わんばかりにふくらんでゆくテーブルロール。そんなテーブルロールが、風の日の雲のようにいくつも生まれ、世界にころがり出てゆくさまをアオは思い浮かべる。

「もうすぐパンが焼けるよ」

 アオは眠っている彼女の耳もとでささやく。

 彼女は浅い眠りの中で夢を見ている。カプセルの宇宙船にひとり乗り込み、どこまでもはてしない無へまっすぐに運ばれていく夢を。星が誕生し、生きて、一生を終えるところ。そこではパンの焼き上がりは永遠に告げられない。

 僕らが星の燃え殻から生まれたとして、とアオは考える。僕らはパンになるのではなく、人間になる道を選んだ。どれほどの意味が、価値がそこにはあるのだろう? むずかしいことはわからない。彼はただささやかな善を重ねる毎日を願うだけだ。

 二人のまわりの、月光に濡れた部屋のあちこちで、ちいさな青い炎が燃えつきる。オーヴンの低く優しい唸りが、やがて息を吐き切ったように終わる。バターの香りがふいに濃くなる。

「ねえ、起きて」

 アオはそっと彼女の手をとる。彼女は白川夜船で、瞼をとじたままぴくりともしない。

 ここではないどこか遠いところから、キン、とかすかな金属音が聞こえる。星と星がぶつかり合う音に、彼は耳をすませる。きっとそれも小さな善の一つだと信じて、いつまでもいつまでもそうしている。

  やがて夜明けの最初の光がひとすじ、テーブルロールに届いた。






<おわり>


お読みくださってありがとうございます。この掌編がもしお気に召されたなら、ゆるやかにつながった世界のお話をぜひ。



 

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