見出し画像

「ラーヤと龍の王国」ネタバレあらすじ感想


0,基本情報

本日2021年3月5日に日本で公開となったディズニー最新作。本作は、劇場公開とディズニー+のプレミアアクセスによるオンライン・オフラインの同時公開が行われている。監督は「ベイマックス」を手がけたドン・ホール、「ブラインドスポッティング」のカルロス・ロペス・エストラーダが担当している。上映時間は1時間54分となっているが、「ラーヤと龍の王国」本編の前に短編作品「あの頃をもう一度」が同時上映されている。海外の映画批評サイト「Rotten Tomatoes」の批評家支持率は現時点で96%となっている。


1,予告編


2,ネタバレあらすじ

言い伝えによると500年前、王国クマンドラは魔法を持った龍に生を吹き込まれることで繁栄し、平和に暮らしていた。だが、ある日突然邪悪なドルーンが現れ、人々や龍を襲い石化させていった。人々や龍は懸命に戦ったが叶わず、残された最後の龍シスーが龍の石を用いることによってドルーンを封印した。平和がもたらされたように思われたクマンドラだったが、人々は「龍の石が富をもたらす」と考えこの石を巡って争いを始めてしまい、クマンドラはそれぞれ別の5つの国へと分裂してしまったのだった…
龍の石が保管されているハート国で生まれ育ったラーヤは、父親ベンジャの提案で他の4つの国を招き、分断されてしまった5つの国を再び1つの国とすべく宴を開く。その場でラーヤはファング国の少女ナマーリに出会い、ドラゴン好きで価値観の一致からすぐに意気投合する。ラーヤはナマーリに龍の石を見せるが、その瞬間ナマーリの態度が一変し、ラーヤを裏切って石の強奪を図る。幼き少女の争いはすぐに国家間の争いへと発展する。争いの中で龍の石がうっかり床に落ちて5つに割れてしまい、弱点である龍の石の力が弱まったことでドルーンが復活してしまう。龍の石の争いの中で足に深手を負い、このままではドルーンに飲み込まれてしまうと考えたベンジャはラーヤにクマンドラ復活の希望を託し、自信を犠牲にしてラーヤをドルーンの魔の手から救うのだった。
それから6年後、ドルーンの増殖拡大によって多くの人間が石となり、大地はすっかり荒れ果ててしまった。成長したラーヤは6年前の出来事からすっかり人を信用できなくなってしまった。彼女の願いは最後の龍シスーを復活させ、完全体にした龍の石の力を使って石化してしまった父親を元に戻すこと。砂漠のテール国で欠片を見つけ、シスーを復活させることに成功するが、そこに同じく龍の石の欠片を求めたナマーリが迫る。無事にナマーリの軍隊を振り切ったラーヤは新たに少年ブーンを迎え、次なる目的地タロン国へと向かう。
タロン国はドルーンの弱点である水の上にできた国。ラーヤは赤ちゃん詐欺師ノイに龍の欠片を盗まれたことで知り合い、以後ラーヤの冒険に加わる。シスーはラーヤとは違って人を信じる性格のため、見ず知らずの老婆に窮地を救われついていったところ、実は老婆はタロン国の現長で「残りの龍の石のかけら、その場所を吐かないとドルーンに石化させる」と脅し、シスーは人間の醜い側面を目にする。ラーヤが鮮やかに龍の石の欠片をタロン国長から奪い、シスーの窮地を救ったところでこの国を後にし、次の目的地スパイン国に向かう。
スパイン国一帯は雪に覆われており、人影がない。ラーヤとシスーは罠にかかり、トングに捕まってしまう。だが、トングには2人を痛めつける気はあまりなかった。実はスパイン国の国民はトング以外全員、ドルーンによって石化されてしまっていたのだ。争うことなくスパイン国にある龍の石の欠片を手に入れ、最後の目的地ファング国へと向かおうとする。だが、そこにはテール国で対峙した時よりも多くの軍勢を率いたナマーリの手が迫っていた。他の仲間を逃がすため一人でラーヤは立ち上がり、ナマーリと1VS1の決戦となる。だが、幼い頃より強くなったナマーリにラーヤは苦戦する。ラーヤが絶体絶命の危機に陥ったその時、シスーが龍の姿で現れラーヤを救う。ラーヤは無事、スパイン国を後にする一方、本物の龍を見たナマーリは驚きの表情、目に涙を浮かべていた。
ラーヤ達は5つの国の中で最も手強いファング国からどうやって龍の石の欠片を手に入れるか話し合う。ブーンは戦闘、シスーは平和的解決の案を提案するが、人を信用できないラーヤはブーンの意見を採用する。ラーヤの心の不安を払拭するべく、シスーはラーヤをハート国の山の奥へと連れて行き、500年前に起きた厄災の真実を話す。シスーは上に4兄弟がいて、ドルーンに囲まれた最後の龍兄弟たちは、ありったけの魔力を集めて龍の石を作り、それをシスーに託して石化、兄弟達が自身を犠牲にして作り上げた龍の石を使ってドルーンを封印したのだった。シスーは強いからドルーンを封印できたのではなく、兄弟達の力と思いを信じたからドルーンを封印できたと聞かされたラーヤは意見を変え、シスーの案でナマーリと話し合うという平和的な方法で龍の石のかけらを手に入れることに決定する。
ナマーリにメッセージを伝え、ラーヤとナマーリは再開を果たすが、ナマーリはボウガンを手に取り、心の底では平和的解決を望むものの、過去に歩んできた暴力的な手段から上手く脱却できず、なかなか引き金から手を離せない。シスーが殺されるのではないかと考えたラーヤはとっさにナマーリの方に剣を投げ、それによってナマーリは(おそらく)誤って引き金を引いてしまい、シスーはボウガンの矢に倒れてしまう。その結果、水の魔法が消えてドルーンの弱点である水がなくなってしまい、大漁のドルーンがファング国へと迫る。シスーを殺され怒り狂ったラーヤは母親を石化されておなじく怒るナマーリと決戦を行う。ラーヤは怒りのパワーで勝利するが、ナマーリの「シスーが死んだこと、ファング国がひどいありさまになっているのは私たち二人の責任」という発言、シスーの言葉を思い出し、とどめを刺すことまではしなかった。
ブーンやノイ、トングは龍の石の欠片を使って必死にファング国の民を避難させようとする。そこにラーヤやナマーリも加わるが、ついにはドルーンに囲まれてしまう。ラーヤは石を一つにしようと提案するが、他の仲間達はナラーンがシスーを殺したところを見ているので、信用できない様子。それを受けてラーヤは先陣を切って、龍の石の欠片をナマーリに渡し、ドルーンに飲み込まれて石化する。それを見た他の仲間も自分の身を犠牲にしてナマーリに欠片を渡し、ナマーリが5つの龍の石の欠片を1つに完成させ、それによって魔力が発動、無事ドルーンを撃退し、それと同時に石化された人々と龍は元に戻り、5つの国は再び1つのクマンドラ王国としてまとまったのであった。


3,感想(劇場でのディズニー作品鑑賞)


本作の感想に入る前に、まず劇場でのディズニー作品体験について語らせて欲しい。私はディズニーが大好きだが、ここ半年東京ディズニーリゾートに足を踏み入れていない。私は、まるで自分が映像作品の中にはいったかのような雰囲気を楽しめるパーク、そこでの現地体験が大好きだが、現在発出されている緊急事態宣言が原因でそれが思うようにできる状況でもなく、ディズニーの映像作品を鑑賞してはいるが、私が求める空間はいつでも画面の向こう側、そのような現状に不満を感じていた。だが今回約半年ぶりに劇場でディズニー作品を鑑賞し、ディズニー作品お決まりのオープニングで涙した。ディズニーパークと映画館、提供されているものは違えど、ある一つのテーマに没頭できる空間の雰囲気、眼前に広がるシンデレラ城、花火、魔法…数十秒流れる名曲「星に願いを」で、間違いなく私はディズニーが作り出した世界観に没入した。スクリーンでその向こう側と私を隔てているようで、実は同じ空間である。そう思える瞬間であった。

余談だが、映画館が提供する空間については以前記事でまとめているので、興味があれば是非読んでもらいたい。


4,感想(ラーヤ)

ディズニー、新たなステージへ


この作品がどれくらいコロナ渦を意識しているかはわからないが、かなり現実世界を反映させているように思う。ラーヤの父親ベンジャはラーヤに対して分かれてしまった5つの国々は互いを知らないとラーヤに語る。宴の場にてラーヤはナマーリからファング国の厳しい食事情について聞く。その後間もなくラーヤはナマーリに裏切られるのでこの話が虚言の可能性もあるが、ナマーリが本当のことをいってると仮定すると、ラーヤは言い伝えとは違うものを聞いたリアクションをしていた。シスーの言い伝えも実は誇張されたものであり、実際にはシスー以上の英雄が存在した。この3つの要素、どれも二次情報、流通した情報を信じきった人々を映している。現実世界にて、コロナパニック初期にマスクやトイレットペーパーの在庫が少ないというデマを信じてスーパーやドラッグストアに人々が押しかけたという出来事があったことを覚えているだろうか?この出来事もSNS上での情報に踊らされた結果である。物語終盤でトングが赤ちゃん詐欺師の名前がノイだと気づき、ラーヤらが服の襟に記された名前に気づいていなかった灯台灯台下暗し的なシーンはこのコロナ渦で、情報に対してきちんと調べずにツイートをしてしまうことが多々あった自分とラーヤたちが重なり、はっとさせられた。タロン国でシスーが欲しいものを手に入れる時、ツケ(後払い)で払っていたが、これはクレジットカードなどのキャッシュレス決済を想起させる。シスーはドルーンのことを「疫病、蔓延するもの」と語っている。これは言うまでもなく直接的な表現だ。


また、ディズニー作品らしく夢もしっかり与えられているようにも感じる。これまでのディズニーヒロイン作品では、「白雪姫」や「シンデレラ」、「眠れる森の美女」や「美女と野獣」、「アラジン」や「塔の上のラプンツェル」に代表されるように、主に男性と女性のロマンチックな恋愛を見せることで恋への憧れを抱かせ、夢を与えていた。その後の「アナと雪の女王」そして「モアナと伝説の海」では主人公に特別な力を与え、自己実現を果たすという方向に舵を切った。そのような流れを経て公開された本作だが、主人公ラーヤは特別な力を持たない。特別な力を持つのは龍であり、彼らは魔力を持つと劇中ではっきりと明言され、シスーが魔力を使って天候や容姿や水の操作、空中散歩をしているシーンがしっかり映される。人間側が力を持たず、現実世界には存在しない生物が魔力・魔法を持つことで、個人的に最もディズニーが得意とするファンタジー色の演出が強くなっていたように感じた。原点回帰的さがありながら、画期的でもある演出と設定であった。Pixar作品である「2分の1の魔法」が好きな方には本作をおすすめしたい。


「ナマーリがスパイン国で初めて龍のシスーを見て、驚きの表情、目に涙を浮かべる」というシーンは夢をしっかり与えている象徴のシーンであり、私自身でも本作で最も印象に残ったシーンでもある。ナマーリは龍の大ファンでアリながら、そのスパイン国でラーヤと対峙するまでは実物を見たことはなかった。そして実際に憧れの龍を見て、彼女は涙を流した。このシーンは昨年のクリスマスに公開されたPixarの最新作「ソウルフル・ワールド」で言うところの人生のきらめきを見つけた瞬間ではないだろうか?私はあれほど美しい涙目を見たことはない。初めてディズニーランドに足を踏み入れたときのときめき、素晴らしい映画を鑑賞したときの感動、人生で一番おいしい料理を口にしたときの衝撃など、人には人生で最も記憶に残る瞬間や忘れられない出来事が必ずあると思う。夢を叶えさせて、謎の虚無感に襲わせ、とりあえず一日を楽しく生きるという意味のなさそうな人生を肯定した「ソウルフル・ワールド」に対するカウンターだろうか?少なくとも対局的な存在であることは間違いないだろう。ディズニーは夢を見せる天才であることを再認識した瞬間であった。


ディズニーは一般的に印象があまり良くないものに新たな価値を生み出すことも上手い。本作は、「雨」の表現が良い。一般的にディズニーに限らず他作品では悲しい感情など、キャラクターがマイナス感情にいるときに雨がよく用いられるが、本作では真逆で雨は比較的雰囲気が明るいときに用いられている。東京ディズニーランドで雨の日限定で「ナイト・フォールグロウ」(現在は晴天時でも開催される)を公演しているように、演出的な真新しさがよく見られた。おそらく、雨にもロマンと夢を与えたのだろう。本作を見た子どもが雨に遭遇した際、「あ!シスーが近くにいる!」という光景を見せてくれることを期待したい(みたい)。


主人公の心もまた原点回帰的な部分がある。ラーヤ以前のヒロイン作品にて、「白雪姫」や「シンデレラ」、「眠れる森の美女」ではプリンセスが完璧なプリンスを待つという受動的な姿勢が目立ち、寝正面でも夢は願えば/信じれば叶うという受け身的なメッセージが中心だった。「リトルマーメイド」以後の作品ではプリンスである男性にある程度の欠点を作り、女性に主体性を持たせるという変化が見られた。「アナと雪の女王」以後は恋愛をゴールとせず、自己実現のために自分から動く姿勢がよく映された。過去にはこのような流れをたどった中での本作、ラーヤの行動からは現代作品っぽく彼女自身の主体性がよくみられつつも、メインのメッセージが「人を信じる」と初期のディズニーヒロイン作品のものに近づいている。雰囲気的には「プリンセスと魔法のキス」に近いだろうか。これも夢・魔法と同じで原点回帰的であり、画期的である。


なぜ原点回帰する必要があったのか、その理由はやはりコロナ渦にあると思う。先述したとおり、コロナパニック初期でデマ情報に踊らされた我々は疑う子とを学んだ。社会は未知のウィルスに対して情報過多であり、何を信じれば良いかよくわからなくなっている。日本に限った話をすれば、ウィルスに感染した者と接触した人間を濃厚接触者として感染の「疑い」をかける。現実世界に生きる我々が信じることを忘れつつあるのかもしれない。それ故にこのテーマが設定されたのではないだろうか。初期ディズニーヒロイン作品と比べて信じる対象が夢の実現だけではなく他人にもなっているところから、何かしらの社会性を感じる。それ故、シンプルなメッセージが私自身の胸に刺さったのだろう。


伏線・考察的なところで興味深かった点は、父ベンジャのラーヤに対する呼び名とドルーンによって石化してしまった人間の形だろう。ベンジャはラーヤのことを「私のしずく」と呼ぶ。ドルーンによって石化された人間は水の恵みを求めているかのような形をしている。つまり、ラーヤという水のしずく(一滴=最後の希望)が人々を潤すことを示していたのではないかと私は考える。ラーヤが問題を解決することは読めるかもしれないが、もしそういう意味だったとしたら非常に面白い。他にもシスーの過去を人間で再演させたり、5つの国の人が集まって1つになったことが後に5つの国が1つの王国クマンドラになるリンクなども見ていて楽しい。


演出的な面より、これまでのディズニーヒロイン作品と比べて異端で、主人公ラーヤが冒険だけでなく戦う。龍の石の守護者となるために父と戦い、父は龍の石を守るために他の国の連中と戦い、ナマーリとは剣や素手などで3回も戦闘シーンがある。ナマーリから追跡されるシーンもあるので、先週金曜ロードショーで放送された「スター・ウォーズ/エピソード9 スカイウォーカーの夜明け」での逃走劇を脳裏にちらつかせた。アクションが非常にスピーディーで、とてもかっこよい。また、5つの国がほぼ同じくらいの時間で映されるので世界観にも惹かれる。森林の国、砂漠、水上街、雪の国、水に囲まれた王宮など、現実世界ではありえないというほどではないため、憧れというよりかはロマンであろう。


原題と邦題の違いについて、本作の原題は「RAYA AND THE LAST DRAGON」、邦題は「ラーヤと龍の王国」となっている。物語の展開も加えて考えると原題はラーヤとシスーを指すと思われる最後の龍とのミクロな冒険劇にフォーカスされている。邦題は分裂した5つの国を1つの国クマンドラにするというマクロなニュアンスがある。個人的な好みだと私は原題の方が好きである。広告認知的な効果やセンスは置いておいて、原題は何故ダイレクトに「ラーヤとシスー」というタイトルにしなかったのだろうか?私は最後の龍はシスーだけではないからだと考える。作中でラーヤと行動を共にしたシスー、テール国の船長ブーン、タロン国の赤ちゃん詐欺師ノイ、スパイン国の大男トングはラーヤも含め、皆家族をドルーンによって石化された者である。物語終盤、そこに母親を石化されたナマーリが加わる。ラーヤの仲間もまた最後の龍になり得るのだ。この作品は物語中盤に石化された龍とラーヤの顔が重なるシーンが龍と人間を関係づけるシーンを流し、私にそのような考えを持たせた。


ラーヤらが石化したときだけ水の雫を求めるような形ではなく、互いの肩を支えるような演出は、MARVEL作品の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のように、全く違う生活を送った者がつらい過去を持っているという共通点を見いだして団結し、家族となるシーンは家族のハードルを下げ、新たな在り方を示した。トングも物語中盤で家族は自分の国に住む皆だというようなセリフを発している。石化した後は各々は自分の家族の元に帰ってしまうが、絆があれば家族になり得ると、生き方が多様化した中でも昔の考え方を持つ人に苦しむ人が勇気を与えてもらえるような展開になっていたと思う。


夢を与えるディズニー、絵のピクサー、自己犠牲やアクションのMARVEL、同じテーマの中での世界観のSTAR WARS、それら全てがアッセンブル(集合)し、ディズニーが新たな章の幕明けをした作品であった。


5,感想(同時上映「あの頃をもう一度」)

「ラーヤと龍の王国」上映前に「あの頃をもう一度」という短編作品が映し出される。

あらすじ:主人公の年老いた老夫はずっと椅子に座って新聞やテレビばかり、外は良い天気だが窓を閉めてその新鮮な空気を吸おうとはしない。妻は夫を外に誘うが夫は応じない。妻が諦めて去った後、若い頃の写真を見て、過去を懐かしみ外に出た瞬間、なんと若返ったのである。気分が良くなってきた夫は外に出てノリノリのダンス、偶然鉢合わせした妻との出会いが再び呼び起こされる。だが、どうやら雨の外に出てしまうと元の姿に戻ってしまうようだ。現実に戻りたくない夫は必死に雨の中に留まろうとするが、対称的に妻は雨の外に出てもいいと考える。妻の制止を振り切って逃げ惑う夫だったが、ついには雨の外に出てしまう。現実に戻ってしまったことに気を落とす夫だったが、そこで今なりの楽しさを見つけ、若い頃ではやらなかったダンスを2人で踊り、夫婦二人で楽しく外出し明るく楽しい生活の様子が静止画で映し出されながらエンドクレジットとなる。


「ラーヤと龍の王国」を見た今、同時上映短編の本作に対して思うことは「雨」を良いものと言う捉え方を共通させていることである。本作では雨の中にいるときだけ若返ることができ、雨のなかで老夫婦が出会った。対称的に、晴れていると夫は家に籠もり、そして若返りが解けてしまうというマイナスな側面を見せた。一般的な感覚と逆の捉え方をしつつも、最後には晴れのシーンも肯定しているところにディズニーの魔法を強く感じる。それと同時に、ラーヤへの導入として強い繋がりを感じ、出来の部分でも目を見張るものがあった。


また、この短編でもコロナ渦を強く感じる。夫は外に出たがらず、窓を閉め、新聞とテレビで一日を終えようとしている。だが、この過ごし方は決して悪いことではない。それでも本作が外に出ることにこだわったのは、外の世界の楽しみを伝えたかったからではないかと考える。本作は妻が夫を外出に誘うが強制はしておらず、その後夫は自分の意志で外出することから、外出派と自宅派どちらも否定しないまま、外出派を肯定させている。外に大きな楽しみがあることを伝えてくれ、「みんな、ディズニーランドに行っても良いんだぞ」というディズニーからのメッセージを受け取ったかのようだった。現実世界では、外出自粛を他人に強いる自粛警察と呼ばれる人間、感染者数が多い地域への遠出を非難する人間など、外出に対して厳しい目を持つ者が一定数存在する。劇場に足を運んだ鑑賞者はそういった人たちの視線を受けながら本作鑑賞に至った人たちで妻に近い状況だろう。FASHION PRESSの「ディズニー・アニメーション短編映画『あの頃をもう一度』都会が舞台、感動のダンスファンタジー」によると、ディズニー+だと6月に配信される予定だが、自宅でディズニー+を活用して鑑賞した方は夫に近い状況になる。どちらの鑑賞方法でも外への楽しさを見ることができるだろう。外出派は周りの目を気にせず、自宅派には新しい楽しさを提供する。それが本作だ。

若い頃のリズミカルなダンスから年を取った後のエレガントな踊りへ、そういった踊りの変化もよく、尺としてはかなり短いものの、それでも制作者側から何かを受け取ることができた作品であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?