見出し画像

竹生島⑦


今回の記事…どう書いていこうか悩みました。
書いて直ぐに記事にあげようとしたんですけど、なんだかなーどうしたら読みやすくなるかなーと。
教科書みたいになりやすいの。
むむむむー。ちょっと頑張ります。
では今回もはじめていきます♪
長いから眠くならないでね。


竹生島⑥では
豊臣秀吉の嫡男問題による豊臣秀次の最期とその仕掛け役は秀次の側近だったことを綴った。そしてそうなったのも秀吉自身の野心が自らの首をしめることになったということで終わったと思う。
私はその自らの首をしめることになった事とは2つあると考えていて、


1つは四国征伐を行ったこと。

この秀吉の歴史をみていくとあまりにも🙈🙉🙊
人間のすることなのかと疑問を抱いてしまう。


あの信長も四国を平定しようとしていた。
何故ならば信長は宇宙の真意を見抜いていたから。
だから秀吉とは違い
信長は当時四国の各々を統治していた三好氏(阿波)、長宗我部氏(土佐)に対して明智光秀を通して
和議により四国を平定しようとしていた。
手段を選ばないということではないということ。
破壊させてはならないということ。


そこでまたもや秀吉は早くも一手を打っている。
この頃三好氏に秀次を婿入りさせているのだ。
何故かといえば秀吉は三好家を手中に収めたかったのだ。
三好家には特別な何かがあることをしっていた。
しかし、秀吉は知っていただけ。真意は見抜いていなかった。

勿論信長は知っていた。
信長自身元を辿れば忌部氏の血筋を引いている。
織田剣神社の神主であり、天太玉命の子孫である忌部一族。
信長は古神道の磐座信仰(イワクラ信仰)
安土城を築城する際に岩を地中に埋め、拝ませたそう。
安土城自体が神社だったとも言われている。

だから寺を焼いた。仏教ではなく神道系ということの表れということになる。
信長は天皇の地位ではなく更にその上、神になろうとしたという噂があるほど。
城の(てんしゅ)は天守と書くと思うところだが
安土城の(てんしゅ)は天主と書いてあったそう。
天を守るのではなく、天の主。
天の主=神 そういうことが読み取れるように思う。
私が神の末裔ということなんだろう。


安土城天主復元模型(内藤昌監修)/安土城郭資料館
Wikipediaより


本能寺の変に対しては誰が仕掛けたかは
やはり謎だけれども、
信長の遺体が見つかってないということが謎を深めている…。

当の本人が仕掛けたのか、足利系が仕掛けたか、明智光秀が仕掛けたか、秀吉が仕掛けたか…などと何パターンも考えられる。
個人的には信長自身が仕掛け、自身のルーツを探りに世界に密かに羽ばたいていったとそういう推測の方が面白いなぁと思う。

ともあれ、本能寺の変が起こることを秀吉は知っていたと思う。でなければ毛利氏との迅速な講和もあの様な中国大返しもできないと思われる。秀吉は着々と準備をしていたのだ。

秀吉は幼少期の出自が不明であることから下級農民であったと言われている。その事が功をなしたのか、秀吉の周りには古来からの山の民、海の民の人脈に優れている。この民らは異人とも言われ、高度な奇妙な能力の持ち主であり恐れられてきた人達。そこを秀吉は利用していったのだ。秀吉自体も忍者だったとも言われている。忍者は色んな役になりきって潜んでいた。もちろん農民として潜んでいた。


秀吉は瀬戸内海の運航を司る水軍に目を向けていた。
毛利家には村上水軍がバックについており、陸力・海力に長けていた。秀吉も西を攻めていくには海力(水軍力)が必要だった。そこで、三好水軍に手を出したのだ。三好家に養子へ出すほど三好氏には魅力がいっぱいあったのだ。


三好氏は一時信長の前に天下人(畿内地区)であった家。


戦国時代勢力図と各大名の動向ブログより引用
以下勢力図を引用させて頂きます。

織田が入京してくると勢力は衰え織田と結ぶことで一族は滅亡を免れた。直系問題はお家の勢力を弱くしてしまう。三好氏もそうだった。そんな時に現れた相手(織田信長)が吉となす。だから三好氏は本来あるべき姿の為に自ら織田と手を結んだのかもしれない。
しかしそのころ四国の土佐領域から勢力を上げてきていた長宗我部氏。この長宗我部がその後なかなかの存在感を出してくれる。


信長は四国全土を制覇を目指す長宗我部氏の勢いに警戒し長宗我部に領土を返上し三好家に領土を分けなさいと命じたのだが、それに反抗。(四国は自ら切り開いて手に入れたものであり、信長にもらったものではないと。)

何故、信長は長宗我部に待ったを出したのかというと
勢力に警戒したのもそうだけれども
信長は三好一族を守りたかったのだと私は考えてしまう。



長宗我部の取次をしていた明智光秀は家臣の斎藤利三の兄、石谷頼辰を使者として遣わし親和外交を展開。
石谷頼辰の妹?を長宗我部の正室にするほど明智光秀、斎藤利三、石谷頼辰は太いパイプで繋がっていた。


明智光秀と織田信長は2人してもしくは他もいたのかも?
何かを成そうとしていたのではないだろうか。
三好一族に関わる物・者を守護し、世界へ向かい確かめる。
長宗我部は光秀を通してこの計画にまんまと嵌められたのかもしれない。世界観のなかっただろう長宗我部は四国への執着だけで心躍ったことだろう。


本能寺の変までは計画的だった。
はず。

しかし、秀吉が計画を崩した。
そう。信長の役目を自分が掴み取る為に。


光秀は秀吉が天下をとることを予測はしていたのだろうか?いや、きっと秀吉とは思ってなかったんじゃないだろうか。信長は世界へ。我が国は私、光秀が統治する。
そう仕組んでいたのではないだろうか?


本能寺の変直後

本能寺の変後、秀吉による山崎の戦いにて光秀ら落武者狩りにあい、絶命。明智光秀の首は本能寺にさらされる。光秀の首として首実検に出されたのは3つだったとか。それも夏であったので腐敗が進み、顔面の皮が剥がれていたとか。本当に光秀の首であったかは定かではない。もしもの為の影武者は用意していた。それくらいのことは光秀ならしていたと思う。
それでも秀吉は光秀を討ったと広めた。


山崎の戦い


光秀が敗れたと知った長宗我部氏は焦ったのかここぞとばかりに四国制覇へと加速し、瞬く間に阿波を統一。
讃岐(香川)の十河城も陥落。明智光秀なき長宗我部氏にとって秀吉は恐れる存在だと確信したのかもしれない。秀吉によって信長と光秀の計画を崩されたと分かると
“秀吉には絶対四国を奪われてはならない!”
と、力尽くでも守ろうとしたのかもしれない。
だからここぞとばかりに動いて四国を制覇した。
讃岐では神社仏閣・城などを巡っているとよく長宗我部の兵火により…と説明書きされていることが多く、長宗我部を悪役に仕立てているように感じることがよくある。

三好氏が…



長宗我部四国平定


長宗我部は四国を守ろうとした。このことをわからない者もいる。讃岐の豪族十河氏だ。秀吉に助けを求めたのだ。。

秀吉の野心に火がつく。もう止められない。遂にやってしまう。
秀吉軍の四国征伐。

四国を制覇した長宗我部氏は天下人の地位を固めた秀吉と戦っても勝ち目はない…と遣いを送って
「四国は平定しました。これをわたしにくださるのなら味方につきます」と伝えたのだが秀吉は承諾しなかった。
長宗我部氏の領土は土佐(高知)だけとした。
秀吉がほしいのは三好に関わる阿波・讃岐方面であるから分かりやすい。
長宗我部氏はそれに従わなかった。それはそうだろう。四国を守らなければならない!奪われては困るものが沢山あるのだ。結果秀吉が四国征討をはじめることとなる。

1585年4月秀吉はおびただしい数の兵を四国へ送り出した。
弟の羽柴秀長らを大将に羽柴秀次らが阿波へ、
毛利輝元、吉川元長、小早川隆景らは伊予へ、
宇喜多秀家を大将に蜂須賀正勝、黒田官兵衛、など7人の武将が讃岐へ

讃岐では、半日で高松城は焼け落ちた。

秀吉の大軍は無人の野をいくがごとく進撃していった。
この光景を実際に見たり、あるいは聞き知った讃岐の武将たちは「秀吉軍の合戦のやり方は、長宗我部軍とは比べられないぞ。手向かえば瞬く間に皆殺しにされるぞ。」と震え上がったそう。ほぼ殺戮だ。
更に、長宗我部の指示が十分に行き渡らなかったこともあり、秀吉軍に攻められた各地の城主は簡単に降伏した。

こうして、1585年正式に長宗我部は秀吉に降伏しなければならなくなった。

悔しかっただろう。。。四国を我が領地にすることができなかった、守れなかったと。


秀吉恐ろしや

こうして秀吉は全国を攻めていく。

秀吉は開けてはならぬパンドラの箱を開けてしまったのだ。
秀吉のやり方は多くの人間の憎しみを生み出していくこととなり、それが秀吉自身の首を絞めていくこととなる。



さて、この一連の出来事で三好氏はどうなったのだろう。

三好氏はもう跡形もなく敗北した一族と思われているのが一般的歴史観だと思う。
時代は瞬く間にうつり変わるのだから。。戦国とはそういうもの。

けれども人間の細胞の記憶はそう容易く変わるものではない。記憶は遺伝を通して受け継がれていく。


そして心穏やかな沈黙の神は深部から蝕んでいくのだ。
神を怒らせてはならぬ。
それを秀吉はしてしまった。


それが秀吉の1つ目の罪。


そして2つ目。

浅井長政の嫡男を抹殺するべく動いたこと。

浅井長政と嫡男()を処罰した秀吉は織田信長の妹であり浅井長政の正室であったお市と信長の家臣であった柴田勝家を自害させた。
何故自害する結末となったかというと。
秀吉は浅井長政にはもう1人嫡男がいることを知っていたからだ。

《以前の記事にもそのことに触れているので良かったら読んでみて下さい。》

竹生島②へ


秀吉はお市が3姉妹とその末子の分身がどこかにいることを嗅ぎつけ、柴田勝家を追い詰めた。
柴田勝家と亡き夫の後柴田勝家と再婚したお市は
嫡男を守る為自害した。

2人は次のように辞世の句を詠んだ

【お市】

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜
別れ(夢路)を誘ふ 郭公(ほととぎす)かな

<引用:お市の方 辞世の句より>

お市のこの句に対して勝家は
次のように返歌を詠んでいる。

【柴田勝家】

夏の夜の 夢路ははかなき 後の名を
雲居にあげよ 山郭公(ほととぎす)

〈柴田勝家 辞世の句より〉

《ホトトギス》

ホトトギスが夫婦仲がよいというのはあまり聞かないらしい。

 どちらかというと、平安の昔から、ほととぎすは、「黄泉の国(あの世)へと導く鳥」とされていた。この世とあの世を行き来する鳥ということで、
別名 死出の田長 (しでのたをさ) というらしい。

 ホトトギスはやはり、死を暗示していると。
2人はこれから自害する。その暗示としてこの歌を詠んだ。ということだろう。
納得。

いやいや、これで納得しててはダメだ。
最期に歌うにそんなあっさりとした解釈で終わったらお市の方に失礼だ。
もっと何かがあるはず。。

あるはず。。。

あった!

ホトトギスの生態。

ホトトギスは典型的な托卵性の鳥で、自分では巣をつくらずに、ウグイスやミソサザイなどの巣に卵を産み込み、その後の世話をその巣の親鳥に任せてしまう類という。

お市は3姉妹の末子(江)と双子の男児を伊達家へ送り出していると前記事で触れてたことがここで繋がる。


自分の側で育てるのではなく、他所の家で育ててもらっていることをホトトギスで暗示しているように思える。

そしてお市の句は

さらぬだに》
からはじまる。

さらぬだに とは、
「さらぬだに」=「然らぬだに」=「そうでなくとも」

何がそうでなくてもなのだろうか?

つぎのリンクから引用させてもらうと

「さらぬだに(そうでなくても)」とは、敵軍に包囲され、いますぐに自害してこの世と別れを告げなければならないこんな状況でなくても、といった意味合い。

らしい。

ということは、敵に包囲されて死ぬわけではないということ?

なら持論から考えると
我が子を匿う為ということになる。

そして、《うちぬる ほど》


「うちぬる」=「うち(接頭語)」+「ぬる(『寝』の連体形)

 (他に『ぬる』が『程』に接続する為には,『寝』しか候補が有りません.)

 「ほど」=「時間,頃合い」

「眠る」とは,眠ってしまえば,現実から離れてしまいますので,或る意味で現世との別れを暗喩しているとも考えられます.


というベストアンサー。
なるほどー。そのことを踏まえて
独自の解釈をいたしますと…

あの世とこの世でお市は彷徨っていたのかもしれない。
この世に生きる三姉妹に生きるべきと誘われて
あの世に生きる夫(浅井長政)に誘われて
浅井長政のもう1人の嫡男を匿う為に
早く決断しないと朝が来てしまう。夏は待ってくれない。

とお市は想いを込めて歌ったのではないのだろうか。

うん。私だったら子供を守るため
最期の歌はトリックをふんだんに練り込めて歌う。
きっとお市の方も子供を想い亡き夫を想い歌ったのだと私は思う。


柴田勝家、お市の方 1583(天正11)年自害。

柴田勝家は羽柴秀吉に居城・北庄城を落とされ、このときお市は、3人の娘を逃がしたあと、勝家とともに自害した。

秀吉は浅井長政の嫡男の追跡調査は振り出しに戻ることとなった。

しかし秀吉はなんとしてでも探し出す為、浅井が復活しないよう策略をめぐらす。
その上、明智光秀が何処へ逃れたのか探し出すためにも
天下人の地位を利用しある政策を思い立つ。

《太閤検地》
明智光秀を討った直後1582年から
地域ごとにことなっていた土地の価値を米の収かく量で示すことに統一。また「検地帳」をつくり、どの土地をどの農民がたがやし税をおさめるのかをはっきりさせた。

太閤検地と同じ頃に
《刀狩令》

農民から武器を取り上げる。

さらに
《身分統制令》

武士・商人・農民それぞれの身分を固定化し、他の職業になることを禁止した。


今でいう
監視社会

戦争のない平和な世界を目指そうじゃないか!
その為にはどれくらい人が住んでいて土地を保有していて食べ物を確保しているのか。それを知ればまとめやすくなるし、争いは少なくなる!人はみな武器を持たずに食べ物を作れば飢餓もなくなる。元の家業を継いでいけば家業が潤い栄えていく。
と表ではとってもハッピーなことをいっているが、
我が天下人‼️と野心剥き出しに天下を取った人が何をいう。

他のものが時を超えて再び這い上がってくるのを力尽くで抑えようとしているだけではないか。
自分の命が家が惜しいだけの小心者に私はみえてしまう。

命を追われ隠れ人となっている浅井長政の嫡男も
明智光秀もこの政策は打撃を与えただろう。

農民として隠れ暮らし時が来れば武士となり
敵討ち!それができなくなってしまった。

そのこともあり、この2人は仏門に入ることとなったのだろう……


時は過ぎる
けれども人間の細胞の記憶はそう容易く変わるものではない。記憶は遺伝を通して受け継がれていく。


受け継がれしはじめの人は
浅井茶々、又の名は淀殿。
それを取り巻く三好一族。


まだまだ続く。。
竹生島⑧へ


なかなか読みやすくするのは容易くないと痛感。。
ここまで読んで下さって本当にありがとうございます😭

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?