七海燈子について

この記事では、漫画「やがて君になる」の登場人物、七海燈子について考察する。ネタバレには配慮しないので、未読の方はご注意されたし。


やが君のメインヒロインである七海燈子。作中における彼女の心情の変化を軸に、1.燈子にとっての「好き」がどのように変化していったのか、2.燈子の自己矛盾、の2つの話題について考察していきたいと思う。あくまで筆者一個人の解釈・意見であることを前提にお読みいただきたい。

※4500字以上あります。

①従来の燈子にとっての「好き」

・燈子の二面性

燈子は、「澪を演じる燈子」と「素の燈子」という2つの側面をもつ人物として描かれている。燈子という人格の核をなすのは言うまでもなく「素の燈子」である。つまり、「素の燈子」は燈子の内面の不変的で本質的な部分であり、逆に「澪を演じる燈子」は表面的で可変的な部分である、といえる。

※厳密には「澪を演じる燈子」よりも「燈子が被っている澪の仮面」という言い方(ペルソナっていう心理学用語があるらしい)の方がニュアンスが近いように感じられるが、余計分かりにくくなってしまう(自分が)のでここでは「澪を演じる燈子」としている。

・燈子の自己評価

燈子の自己評価の特徴として、「澪に憧れるあまり、自分のプラス面は澪に転嫁し、マイナス面のみを自己評価の材料にしてしまい、結果自分が嫌いになる」という点が挙げられる。大好きな姉を目指した結果自分のことが嫌いになってしまうというのは、なんとも皮肉な事に感じられる。

4巻第22話「気が付けば息もできない」の中での燈子の台詞。

私は自分のこと嫌いだから

燈子が嫌っているのは、澪になりきれない「素の燈子」である。素の自分が嫌いだから、誰かに好意を寄せられても、それを素直に受け止められない。「好かれているのは自分が演じている澪の部分であって、自分自身ではない」と考えてしまうのだ。澪を演じることで結果好かれる、という行動をしているのは澪ではなく自分自身だ、という事に気づけない。

(余談だが、「燈子に変わってほしい」という侑や沙弥香の思いは、澪を演じるという燈子の行動を真っ向から否定するものではなく、自分の長所を澪に転嫁する、つまり澪の仮面に囚われている燈子に、「素の自分に向き合ってほしい」と望むものであると考えられる)


以上の2つを踏まえて、従来の燈子にとって「好き」とは何かを考えてみよう。


・好意の対象

上記のように、燈子は、「好かれているのは自分が演じている澪の部分(つまり、澪の仮面)であって、自分自身ではない」と考えている。

言い換えれば、澪になろうとしていた時の燈子にとって、「『好き』とはその人物の表面的で可変的な要素に対する好意であって、内面に対するものではない」ということである。

・「束縛する言葉」

2巻第十話「言葉で閉じ込めて」での描写。

「こういうあなたが好き」って 「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?

このモノローグには、「人が好意を抱くのは可変的な要素に対してである」という前提が隠れている。
燈子にとって、「好き」は表面的で可変的な要素に対する好意。だからこそ、(可変的な要素に変わらない事を要求するという点で)「好き」は束縛する言葉、と捉えてしまうのだ。

・結局なんなの?

燈子自身が素の自分を受け入れられないから、燈子にとって好きは表面への好意にしか見えてないんだよ!って事が言いたいんだよ!

②認識の変化

・自己評価の変化

燈子は徐々に素の自分を受け入れられるようになるのだが、その背景には、(1)劇の成功、(2)侑と沙弥香からの告白、の2つの要因があると考えられる。

(1)劇の成功

劇の成功により、燈子は澪を演じる必要が無くなった。また、劇の中で、燈子は自分自身と向き合うことになる(=「何になるか」を自分で決める事、ありのままの自分を選ぶ事を擬似的に経験する)。これが1つ目の要因である。

(2)侑と沙弥香からの告白

侑も沙弥香も、素の燈子を知りながらそれでも燈子に想いを寄せている。これは、燈子にとって、「素の自分を認めてもらえた」という事と同義である。これが2つ目の要因である。

澪を演じて振る舞う理由がなくなり、澪を演じずに振る舞う理由を得る。以上2つのターニングポイントを経て、燈子は素の自分を受け入れられるようになる。

・「好き」の認識の変化

侑と沙弥香、素の燈子を知る2人(特に沙弥香)からの告白は、燈子の自己評価が変わる要因であると同時に、「好き」は表面的な部分に対する好意だ、という燈子の従来の認識が変わるきっかけとなる。(というか、燈子の「好き」に対する認識は、燈子の自己評価に起因するものなので、燈子の自己評価が変われば「好き」に対する認識も変わるのは必然である)

7巻第37話「灯す」の中の沙弥香の台詞。

燈子のぜんぶが好き

表面的で可変的な要素だけを見て想いを寄せている人からは出るはずのない台詞である。沙弥香は(きっかけは一目惚れだけど)燈子の本質、「素の燈子」を見て恋をしているのだ。燈子にとってそれは、「好き」という言葉の認識を覆すものである。「好き」とは、表面ではなく内面の本質的な要素に対するものだ。この認識の変化が、8巻第40話につながっていくのだ。


・「侑が好き」

8巻第40話「わたしの好きな人」で、燈子は侑に再度告白をする。その中で、侑の好きなところを列挙するシーンがある。このシーンは、燈子は侑の内面の本質的な部分、つまり「侑という人物そのもの」が好きなんだ、という事を示しているのではないだろうか。侑という人物そのものが好きだから、表面的な要素(=誰も好きにならない)が変わっても好きでいられる。以前の燈子にとって「好き」は可変的で流動的なものだったが、今は違う。燈子の一連の台詞は、それを表すものだったのだろうと、筆者は考えている。

・タイムラグ

余談ではあるが、侑と沙弥香からの告白によって燈子の「好き」に対する認識が変わったのであれば、燈子が侑の告白を初めは拒否したり、8巻第40話「わたしの好きな人」の時点で未だに「好き」を怖がる描写があったりするのは不自然なように感じられる。「好き」への認識が変わるきっかけと、実際に燈子が葛藤を完全に克服するまでのタイムラグ。これは、燈子の人間味を巧妙に表した描写だと、筆者は考えている。

人間は、頭で分かったからといって必ずしもすぐに心の底から納得できるわけではない。理性と本能の乖離は往々にして起こりうる。それが、燈子の心情のタイムラグに表れているのではないだろうか。

余談でした。

・結局なんなの?

素の自分を受け入れられたから、他者の好意を素直に受け入れられるようになったし、特別を知ってしまった侑を好きでい続けられたんだよ!って事が言いたいんだよ!


③燈子の自己矛盾

作中で、燈子は自己矛盾とみられるような言動を何度かしている。ここではそれらの一例を見てみようと思う。

・「束縛しないで」という束縛

従来の燈子が人の好意を受け入れられなかったのは、「好き」を束縛の言葉と捉えていたからである。しかし、侑に対しては「好き」と言った上で、さらに「私を好きにならないで」とまで言っている。他者の束縛は受け入れられないのに、自分は他者を束縛している、という自己矛盾が発生している。

・「好きにならないでほしい」のに「踏み込みたくなる」

3巻第11話「秘密のたくさん」に次のようなモノローグがある。

こんなのはなんともないってその顔を見ると あと少し もうちょっとだけ踏み込みたくなる

燈子は侑に自分のことを好きにも嫌いにもならないでほしいと思っている。にも関わらず、侑を試すような真似をしたり、侑からのキスを求めたりするのは、いかにも矛盾している行為のように感じられる。

・澪になりたいのに自分を確認して安心する

5巻第24話「灯台」での描写。

お姉さんみたいになりたいくせに 自分を確認して安心するなんて

作中でも燈子が自分で言及しているが、矛盾しているのは明らかである。また、第28話「願い事」でも同じ構図の自己矛盾が発生している。

・自己矛盾の真意

では、燈子はなぜ、自己矛盾ともとれるような言動をとるのだろうか。

これはあくまで一個人の解釈だが、筆者は次のように考える。

「燈子が澪を演じているのは、燈子は気づいていないが、実は燈子自身の意思ではなく、周りの人の言葉によるものである。仮面を被ることを強制され続けている燈子にとって、(自覚は無いが)素の自分を認めてほしいというのは当然の内なる欲求である。しかし、燈子自身は自分の意思で澪を演じていると信じ込んでいるので、澪を演じる事を否定されたくない。素の自分を認めて欲しいが、澪を演じる事は否定されたくないという相反する思いが、自己矛盾を発生させる要因である。」

2巻第十話冒頭を見てみると、「お姉ちゃんみたいになる」事を求めたのは、実は燈子ではなく周囲の人々である事が分かる。つまり、周囲によって「仮面を被ることを強制されている」のだ。しかし、この事に燈子は無自覚である。実際は自分の意思ではないのに、自分の意思だと信じて疑わない。この構造こそが、燈子の内面のひずみを生む一番の要因なのではないだろうか。(侑の救済がなかったらこのひずみはいずれ限界に達していたのではないだろうか...)

本当は素の自分を認めて欲しいから、澪を演じる自分への好意を受け入れられない。澪を演じる自分を好きになって欲しくはないけど、素の自分のことを認めてほしいから、素の自分を知る侑に対しては踏み込みたくなる。素の自分を自分自身が認めたいから、自分を確認して安心する。上記のような言動はすべて、(自覚はないが)「素の自分を認めたい、認めてもらいたい」事に起因するのではないだろうか。

(素の自分を認めてほしいが、かといって弱い自分を肯定されると、それは澪を演じてきたことを否定されることになるから、それは嫌だ。ここが、澪を演じる事に固執する燈子の厄介なところである。劇の成功で澪を演じる必要がなくなったことがターニングポイントなのは間違いない。)

・そして解消へ

燈子の自己矛盾が、「自分の意思じゃないのに澪を演じさせられていて、しかもそれに無自覚である事」が原因だとするならば、それを解消する方法は、「燈子が自分の意思で何者になるかを決める事」である。そしてそれは「素の自分を受け入れる(=選択基準に「澪ならこうする」が入らなくなる)事」や「自分自身の意思で侑を選ぶ事」によって達成されたのである。

・余談:思いのすれ違い

燈子の内面の話からは少しそれるが、燈子に変わってほしいという侑や沙弥香の思いが往々にして燈子に拒絶されるのは、侑や沙弥香の「澪の仮面に囚われている燈子を救いたい」という思いが、燈子にとっては「澪を演じるという行為そのものを否定されている」ように映ってしまうからであると考えられる。やはりここでも、実際は自分の意思ではないのに、自分の意思だと信じて疑わないことが原因となり、両者の間の思いのすれ違いを生んでしまっている。

・結局なんなの?

□澪を演じるのは自分の意思じゃない→素の自分を認めてほしい

□澪を演じるのは自分の意思だと思い込んでる→澪を演じる事を否定されたくない

この2つの間に矛盾があるよね!って事が言いたいんだよ!


④まとめ

とーこかわいい



以上で、七海燈子についての考察を終わります。自分の中でまだ完璧に言語化できておらず、その上文章力も高くないために、拙くまとまりがない文面になってしまいましたが笑ってお許し下さい。最後までお読みいただきありがとうございました。

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