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感想 ブラッド・スクーパ  森 博嗣 月の石を巡る騒動に巻き込まれたゼン。そこでの死闘は彼に何を与えるというのか。シリーズ第二弾。


シリーズ第二作。
剣豪ゼンの武者修行の旅なのですが、今回も哲学的な思考は続きます。だんだん鬱陶しい女々しいと思わなくもないのですが、この自分を突き放したような客観性は心地よくもあります。

ある村の道場主から仕事の依頼がある。ゼンは断るが、庄屋の娘に引き込まれて、最終的に竹の石の秘宝をめぐる事件に巻き込まれてしまう。

アクションシーンが面白かったです。
今回は、道場主や庄屋の娘のキャラ造形が巧で物語に引き込まれました。
前回は方々を旅したのですが、今回はこの村にずっと留まります。

静的な場面が多かったと思います。


本書の魅力は、ゼンの哲学的な思考の数々です。
最後に、それを少しだけ紹介したいと思います。

人は生きているのではない。生きていると考えるだけだ。では、考えるとは何か?。考えるとは、すなわち恐れることだ。考えるほど恐しくなるからだ。考えないものは何も恐れない。恐れるからもがく、逃れようとする。それを活路という。



この考え方は面白い。たぶん、何も考えない思考停止の人のほうが幸せです。
この人生、意味を問いだしたら、それはまるでパンドラの箱を開いたかのような難題が次から次から出てきます。それでも考えることを辞めない。恐れるからもがきじたばたする。それこそが活路だという考え方は腑に落ちます。



人間というのは自分が信じるものによってのみ動かされる。信じるものに基づいてすべてを考える。見たままのものあるがままのものを認めているのでもなく考えているのでもない。見る物さえ信じるものによって歪められる。そこにないものさえ妄信していれば確かにあるとして見えるという。敵の姿もなく守るべき宝も価値はない。



竹の石という秘宝を巡る庄屋も、それを強奪しようとしている人たちも暗躍している。
でも、こんな物には生命をかけるだけの価値もありません。
それでも、それが秘宝だと信じている人たちにとっては、生命をかける値打ちがあるものであり、闘いになるのです。
これはベーコンが定義したイドラ。つまり偏見ですね。人はこれはこうだという思い込みや先入観があると目が曇ってしまうのですが、この問いはそれだと思います。
欲に目が眩むほど、この偏見は増大し正確に物事を判断できなくなるようです。




神様を信じるのも、竹の石を信じるのも、それからたぶん、剣を信じるのも、結局は自分を信じることに繋がっているのです。人間はそういう風に回り道をしなければ自分を信じることができないのではないでしょうか。信じると言うことはどういうことでしょうか。何かを信じることは自分が自分の思うようになるということの希望の道筋だと私は思います。



自分の信じているものは、自分自身の鏡だというのでしょうか。
竹の石を秘宝だと信じる人たちにとっては、それを信じることが、つまり、その秘宝を手にすること、それを盗まれたくないことが、その人の信念。自分の心の奥底にある求めている何かということでしょうか。頭を刺激するような文章ですが、ちょっとよくわからない。そこが哲学的と思える部分です。





2024 3 5
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