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雑煮

今も昔も、子供にとって正月は特別な行事だ。大晦日から三が日、世間のハレの日としての高揚感につられて、私も浮ついた落ち着かない気分になったものだ。とは言っても、子供の頃の正月は、元日にはカブスカウトで山に登り初日の出を拝み、疲れて帰ってきた家で母のおせち料理と雑煮を食べ、近くの神社へ初詣にゆき、祖父母の家で親戚やいとこたちと会い、そしてお年玉をもらう。それだけで三が日は終わってしまい、それ以上の大した思い出もない。ただ、私が幼少期を過ごした昭和末期は、親戚同士が今では想像できないほどにまだまだ強くつながっていた時代で、そんな親戚との血のつながりを否が応でも確認させられるのが正月でもあった。

私の祖父母は、戦前に九州の片田舎から大阪へ出てきた第一世代に当たる。地方から都会への人口移動といえば、戦後の首都圏や京阪神への集団就職がまず思い浮かぶ。この大きな波もまた、貧しい農漁村と豊かな都市という構図で語られるが、そんな彼らの育った家は、戦後まで若者を食わせる余力がそれなりにあったということでもある。個々の事情はあるにせよ、私の祖父母と同じく戦前に都会へ移住せざるを得なかった人たちは、さらに貧しく切羽つまっていたように思う。当時の大阪の雇用吸収力はすさまじいものがあり、西日本全域だけではなく当時日本に植民地支配されていた朝鮮半島からの人びとをも呑み込み、街として膨張するにまかせていた。

私の祖母の家はかつての網元で、数代前に遠方から美しい妻を娶ったものの、産後の肥立ちが悪く、そのまま帰らぬ人となってしまい、残された夫は気がふれ、それ以降没落したと聞く。そんな家に生まれた祖母は、漁師として使われていた祖父と駆け落ち同然で長崎へ移り住み、長崎でも食いあぐねた結果、大阪まで流れ着いたようだ。とにかく貧しい集落だったらしく、同郷から大阪へ頼って出てきた遠縁も多かった。正月には、そんな遠縁の親戚筋が祖父母の家に年賀の挨拶に来て、勧められるがまま座敷に上がりこみ、燗酒を飲み楽しそうに談笑する姿を覚えている。後に父から聞いた話だと、祖父は若い頃は飲んでいた焼酎を、大阪では一切飲まなかったとのことで、きっとそこには「一世」ならではの文化的なこだわりがあったのだろう。近しい親戚同士の交流すらも正月行事から消えてしまった今、そんな遠縁の人たちは、私の世代となってはどこで何をやっているかも全く知らないまま、もはや赤の他人である。

正月の感慨は、歳を重ねるごとに年々失われゆく一方、数年前から、私は三が日の大阪へふらふら出向くようになった。年始の新今宮駅は、相変わらずの賑わいで、ガード下では流しのカラオケが元気に営業している。カラオケ初めに、私もこのガード下で一曲歌ったことがある。通り過ぎる人たちの、珍奇な生き物を憐れむかのような視線に耐えるところから一年を始めるという訳だ。公共の場でパフォーマンスを続ける売れないシンガーも、日々こんなつらい思いと自己実現する喜びとの相克を噛みしめているのだろうか、それとも私の『万里の河』という選曲に問題があったのか。高揚感と恥ずかしさは本来同じ感覚なのかもしれず、それらが入り混じった気持ちで、ただひたすらに演奏の終わりを待った。一曲歌い終わるや否や、大通りをわたり南へ、動物園前一番街へと逃げこんだ。

商店街の中は、この地に根ざして暮らす人びとのために、年始早々というのに、多くの酒場や食堂、さらには中華系のカラオケ居酒屋・スナックまで、ほとんどいつもと変わらずに営業中である。それでも、いかにも年始の盛り場じみたジャンジャン横丁方面の賑わいはなく、むしろ地域に住む人のための街といった風情で、本来そうあるべき顔を取り戻していた。ふだんなら集団でウロウロしている、当地に昼酒を求めて集まってくる酒飲み連中も、流石に家でおとなしくしているのだろうか、と自戒をこめつつ考えたりもした。国内外からのバックパッカーの姿も目立って少なく、正月の動物園前一番街は、一年のうちで最も落ち着いた時間が流れている。

この界隈の食堂や酒場に、正月に通い続ける目的はただ一つ、それは当地のお店で雑煮を食べることにある。味付けは店によってさまざまで、味噌汁に餅が入っただけのようなところもあれば、すまし汁がベースのところもある。もっとも、味付けはどうでもよくて、この地で三が日に雑煮を食べる、このことが私の中で突如として正月に大きな意味を持つようになった。私は単なる来訪者だけれども、よそ者も住民も、老いも若きも、男も女も、おなじ空間で黙々と雑煮を食べているとき、人としてのつながりが強く感じられるのだ。このふしぎな感覚は、通うたびにますます強いものとなり、現在に至っている。もちろん、雑煮以外の他の品を飲み食い散らかしている人もいるし、私もつい調子に乗ってハレの日にふさわしくステーキを頼んだりもするのだが、それすらもこの日に限っては正月らしさを盛り上げる一要素でしかない。私も他のお客も、ほとんどはひとりで席につき、正月らしい儀礼を共にする。客もお店の人もみんな、ハレの日を共に祝う場に参加する家族であり、きっと皆もそう思っているものと信じている。

今ではすっかりおせち料理や雑煮でさえもすたれてきた感もあるが、昭和後期から平成にかけての日本では、三が日に外食に出かける理由は、正月っぽい料理にウンザリしているからで、伝統的な食文化の衰退と結びつける論調があったかと思う。一方、近所の酒場や食堂で、田作りや黒豆、雑煮を食べて年の始まりをささやかに祝っていた人は、その頃にも確かに存在したのだ。自分自身、そんな人びとに対してこれまでどのようにふるまってきたのだろうかと、ふとふり返り、考える。

そもそも、正月にこの界隈で雑煮を食べるという行為自体が、住民の場を荒らさないとも限らず、ともするとダークツーリズムやスラムツーリズム的な観点から非難されるかもしれない。私はそれに対する明確な答えを持ち合わせていないけれども、少なくとも混んでいないお店にひとりで行き、静かに飲み食いをして、地域の人びとに迷惑をかけないよう努めてきたつもりではある。もちろんそれだけでは十分ではないことは分かっている。だから結局は、おためごかしではなく、私にとってその場が大切であるということがすべてだ、と思う。この界隈、お店の人や住まう人、そして雑煮。これらすべてが私にとって大切で敬うべき存在であり、正月に新たな意味を吹きこんでくれたことも含め、感謝の気持ちしかない。

同じ頃、堺筋をはさんで西側の、沖縄出身のおねいさんが立つ酒場に行ったときのことを思い出す。そのお店には以前からしばしば伺ってはいたが、年始には沖縄風の鮮やかなかまぼこ等がカウンターに並べられて、ハレの日の雰囲気にあふれていた。酒を飲みながら、おねいさんが沖縄から出てきた話、一時はふるさとに戻ったりした話を聞いていた。私が「やはり沖縄に帰りたいものですよね」と、大した考えもなしに尋ねると、おねいさんは「ふるさとにはもう十分帰ったよ。今や知った人もいないし、私はここがいい。もう死ぬまで帰ることもないかもね」とつぶやいた。その時のおねいさんの顔は、一生忘れることはないだろう。

店内を見わたすと人の良さそうな常連とおぼしきおやっさんが数名、ワーワー言いながら酒を飲んでいる。正月は血縁と他人とのわかれ道ではあるけれども、他人とのつながりを意識させられるのも、また正月ならではなのかもしれない。

京風ではない味噌仕立て。美味しい
こちらはすまし汁がベース
かき玉も良いものです
静かな新年を迎える
沖縄のかまぼこは鮮やかで美しい
京都にて。正月料理を出す食堂は、福祉的存在

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