フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい。 ー廃仏毀釈 その4ー

 私はフォトグラメトリで生成した3Dモデルを単に愛でるのも好きですが、その3Dモデルから何らかの意味を見出したいとも思っています。このシリーズでは私が作成した3Dモデルのうち、石塔や石仏、石碑の3Dモデルから私なりに読み取れたこと、そこから仮定したことを綴っていきたいと思います。
 そのシリーズ1回目のテーマは「廃仏毀釈」です。

 以下の記事は@musimarusanが個人サイト(現在は廃止)に掲載していた内容を基に改めて考察を行い再構成をしたものです

1.文献の記述も確認してみる

 シリーズ3では、私は「この下保谷地域において廃仏毀釈の運動はそれほど徹底していなかったのかも知れない」と考えました。そして、このことを確認するため下保谷地域における廃仏毀釈に関する記述のある以下の文献2点を見つけ、題目塔に関する記述を探してみました。

  • 文献① 「三十番神とその禁教-国家神道と民俗宗教の乖離」片桐譲、田無近辺地方史研究会紀要第21号2001年三十番神とその禁教

  • 文献② 「保谷市史史料編第六章第一節王政復古と祭政一致」保谷市史編さん委員会

 その結果、いずれの文献でも下保谷地域における廃仏毀釈は下保谷天神社の顛末(もともとは日蓮宗独特の三十番神社であったが天神社に改めざるを得なくなった)が中心となっていて、このシリーズで取り上げた題目塔については、文献①において次の記述が、

「安永二年(一七七三)「氏子中」の題目奉唱 一千部成就の総高 一二六g、自然石に彫った題目塔と、安永九年同じく「氏子中」題目二千部成就の総高二七四cmにの ぼる、奉納大題目塔の二 基が並んで立つ」

文献①

文献②においては次の記述がある程度で、下保谷天神社の2基の題目塔を除いて特別な記述はなく、他3基の題目塔については廃仏毀釈の影響を受けたか否かは分かりませんでした。

「保谷市史編集委員会がしないに現存する石仏と石造物の悉皆調査を行った結果によると(保谷市史別冊『保谷の石仏と石塔』一・二)、石仏や仏教関係の石造物、更にはそれらが安置されている寺院境内に見る限り、排仏毀釈によって破壊されたり放棄されたと思われる事例はほとんど認められなかった。」

文献②

 一応、文献②では、

このほか関係文書も発見されず、古老の伝承も聞かれないから、保谷にあっては排物毀釈運動と称するような過激な行為は生じなかったと言える。

文献②

との記述がありましたので、私の「この下保谷地域において廃仏毀釈の運動はそれほど徹底していなかったのかも知れない」との仮定はあながち当てずっぽうではなかったのだろうと思っています。

2.これは妄想

 ただ気になったのは「路傍の題目塔1」の損壊です。廃仏毀釈の運動は徹底していなかったのかもしれませんが、なぜか路傍の題目塔1だけが被害を被ってしまったのかなとも想像しています。

  • 住民A「なんか巷じゃ仏像が壊されてるからうちもやっとかないと行けないと思って、でも罰が当たりそうだから一面だけ削っときました」

  • 長老「あほう、あんなもん無視しとけばいいんだ、罰が当たるだろ!」

のような会話があったのかなと想像してしまいます。

3.結論めいたもの

 「フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい」として、このシリーズでは4回に分けて西東京市下保谷地域にある題目塔が受けた廃仏毀釈の影響を見出してみました。その結果、3Dモデルから見出した「この下保谷地域において廃仏毀釈の運動はそれほど徹底していなかったのかも知れない」という私の仮定と既存の文献にある「保谷にあっては排物毀釈運動と称するような過激な行為は生じなかったと言える」という見解は、おおよそ同じだったのかなと思います。
 しかし、一方で、5基の題目塔の3Dモデルの比較から、廃仏毀釈運動の中では上記のような「事故」も起こったかもしれないという更なる仮説も考えつきました。しかし、「このほか関係文書も発見されず」とあることから、路傍の題目塔1だけが損壊した経緯は新たな資料が見つからない限りその理由はもう分からないでしょう。
 
 「フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい」は今後もとりとめもない題材で短い単発記事を書いていこうと思います。文章は全然推敲していないので分かりにくいと思いますが、推敲すると面倒くさくなって続かなくなるので勘弁して頂いて、画像だけみて頂くだけでも嬉しいので「見て」下さい。

おわり