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毎日ピアノを弾きながら、衝動とは何かを考える

ピアノとの付き合いも20年と長くなった。その関係性の濃淡は時期によってさまざまだ。1日20分だけ練習して譜読みさえできてたらOKな小学生時代や、急に音楽高校受験に目覚めて練習しだし、無事に合格してピアノに打ち込んだ中高生時代……。

正直、音楽高校に入ってからはピアノが自分をつらくさせる存在でしかなかったので(純粋に周囲と比べて下手でキツかったという意味で)、距離を取りたいと思い、大学こそ芸大に入ったけどピアノ専攻には進まなかった。

大学の途中で家庭の事情からピアノの弾けない部屋に引っ越してしまったり、社会人になってからはまったく弾かない時期もあったりしたのだけど、ここ2年は楽器OKの物件で一人暮らしを始めたこともあり、コンスタントに弾くようになった。特にここ数ヶ月はほぼ毎日弾いている。

メニューはいたってシンプル。今はこんな感じでやっている。
・ショパンのワルツ
・スクリャービンの前奏曲
・ジャズのコード練習

1年前からジャズピアノのレッスンに通っている。師匠のいない状態でピアノを弾き続けることに不安感があったし、だからと言って今さらクラシックのピアノの技術を再び極めるだなんていろんな意味で無理だと思い、仕事で関わることが多く、かねてよりきちんと学びたかったジャズを選んだ。でもやっぱりクラシックも欠かせないから、ショパンやスクリャービンも弾く。練習時間は大体30〜60分間くらい。

今思えば、中学〜大学当時の自分はえらかったなと思う。そもそも音楽高校・音楽大学というのはそういう場所なのだが、毎日欠かさず平日4時間、休日6時間は練習していた。別にピアニストを志していたわけではなかった。というかなれるわけがないと思い、音楽の道はある意味眼中になかった。

でも、とにかくずっと上手くなりたいと思っていた。だから朝は5時代に起き、可能な限り自分の時間を練習に注ぎ込んだ。このモチベーションの根源は今でもずっと謎で、理屈で説明できるものではないんだと思う。

でもその想いと上手くいかない現実のギャップに疲れてしまって、そのタイミングで音楽ライターになるという目標ができたから、大学ではピアノ専攻ではない音楽学専攻に進むというイレギュラーな選択をとったのだ。高校でのピアノ専攻の同期は、多くが大学でピアノ専攻に進み、私はある意味「逃げた」ということになる。なのに、演奏に関する職についていない今でも、やっぱり私はピアノを弾いてしまうのだ。

練習を重ねたからといって収入を得られるわけでも、どこかで発表の機会があるわけでもない。可処分時間に他に何かやろうと思っても、心のどこか「後で元が取れたらいいな」なんて考えてしまうのに、ピアノではあまりそんな下心がない。引っ越す時もピアノの弾ける部屋を血眼になって探したし、社会人になってから通わなくなったレッスンに再び通い始めている。ピアノから離れたいと思ったり、ライフステージの変化によって離れざるをえない状況になったりしても、私はどうしてもやっぱり鍵盤の前に戻ってしまう。くっついたり離れたり、駆け引きを行うように。

子どものころから使っているピアノ。音高時代、周囲はグランドピアノを所有しているなか、自分はアップライトで練習していることに引け目を感じていました

話は変わるが、最近『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(著者:谷川嘉浩)という本を読んだ。序盤の方で、言葉にできないモチベーションや、対価を求めない姿勢を「衝動」の一種の例として紹介されていた。

たとえば、からあげを無料で配り歩く三浦祥敬さん。提供したからあげに対するお布施をもらうことで、「商品や貨幣に囚われない関係性を構築したい」と実践していたそう。ここには、ダニエル・ピンクが語った「やる気があるから、好きだからそうしている=モチベーション3.0」からこぼれおちる非合理的な欲求や動機がある、と述べられていた。

これを読みながら、自分にとっての「衝動」とは何なんだろうなと考えた。ぼんやり思考を巡らせながら、多分、ピアノなんだろうなと思った。

別に私は、生活のすべてを対価のないピアノ練習に注ぎ込もうとは思っていない。それでもどれだけ離れたいと思っても必ず戻ってきてしまう要因は、自分の中にある「衝動」そのものなのだろう。

そもそも楽器は、一定期間触れなければ本当に腕が鈍ってしまうものだ。物心ついたときからピアノばかり触れていた自分にとって、ピアノを弾けなくなるという状況は、自分の中に複数ある重要な人格の一つを自分から引き剥がすことに近いのかもしれない。ピアノを弾けなくなる自分を想像するのが恐ろしい。というか、ピアノの弾けない自分は自分でないとすら思う。別に「ピアノが好き」なんていまさら言いたいわけでもない。夫婦が「パートナーのことが好き」とあえて言ったり認識したりしないのと同じ。

今の生活に変化があるとき、もしかするとまた私はピアノから離れてしまうことがあるのかもしれない(それは避けたいのだけど)。万が一離れたとしても、きっと私は何らかの方法をとってピアノに戻ってくるのだと思う。それが私にとっての衝動だから。

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