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フルート1本で出世したミッシェル・ブラヴェ

昨年2023年のフルートの発表会はバロック・フルートを始めてまだ半年ちょっとでした。先生から「せっかくですから、今回はモダン・フルートではなく、バロック・フルートで演奏してみませんか」との提案があり、Ddurの曲を急ぎ探しました。(まだDdurしかやっていないという事実😅。そして、あと4か月しかない💦つまりレッスンは8回のみ)ようやくこれならできるかも??という曲をなんとか見つけ、挑戦することに。ミッシェル・ブラヴェのフルートソナタOP.2-5よりⅠ.Largo、Ⅱ.Allegro、Ⅲ.Rondoを選曲。無謀と思いつつも、全ての楽章は流石にできないので、3楽章を選び、通奏低音はチェロの先生にお願いしました。

この作品は1731年に出版された「作品2」というソナタ集の中にあります。「イタリア様式」と「フランス様式」を融合させた作品集として作り上げられたブラヴェの意欲作です。ブレスの箇所が「h」の記号で細かく表示されており、フレーズの取り方が正確に伝わるようにというブラヴェ自身の配慮が見られます。300年近く前のブラヴェの演奏 ならとても美しいソナタのはず。。。

いつもの事ながら、出だしのところで緊張でかたまってしまい、音がショボショボでしたが、最後の3楽章ではイメージ通り演奏ができて、なんとか立て直せたのが今回の大収穫でした。


さて、「ミッシェル・ブラヴェってどんな人?」

ミッシェル・ブラヴェ(1700-1768年)はフランス東部の古都ブザンソンで木地屋(轆轤師(ろくろし))の家庭に生まれました。独学でフルートとファゴットを学びます。

コンセール・スピリチュエルで大評判!

1723年、パリに上京。レヴィ公爵という高貴な生まれの軍人の側近に加わり、フルーティストとして活動を開始。1726年、宗教音楽演奏会「コンセール・スピリチュエル」※に初出演し、フルート協奏曲を演奏します。これがいきなりの評判に!それから1749年まで毎年コンセール・スピリチュエルに出演し、協奏曲や独奏曲など多くの作品を演奏。出演回数は他のどの演奏家よりも多かったといいます。ブラヴェの演奏は大好評で、歌うような音色、純粋なイントネーション、そして輝かしいテクニックは神がかったヴィルトゥオーゾとして聴衆を熱狂させ、フルートの地位をヴァイオリンと並ぶものにしました。

※「コンセール・スピリチュエル」:宗教音楽演奏会。フランスのようなカトリックの国では、復活祭の前の40日間(四旬節)に劇場の催しを休む習わしになっていましたが、その期間に宗教音楽を集めたコンサートを開いて、オペラを観られないパリの人々に楽しみを提供していました。

テレマンの新曲を演奏

ドイツの作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767年)は、1737~38年にパリへ赴き、この地で新しい四重奏曲集を発表・出版し、大成功を収めました。その際、コンセール・スピリチュエルでの演奏者だったのがブラヴェをはじめとしたパリの演奏家たちだったのです。テレマンはフルートのブラヴェ、ヴァイオリンのギニョン、チェロのエドワールの演奏を褒め称えています。これが《パリ四重奏曲》で、私がテレマンの中で最も好きな曲です。

ルクレールとの共演

作曲家であり、18世紀フランスにおけるヴァイオリン演奏の巨匠であるジャン=マリー・ルクレール(1697-1764年)は、コンセール・スピリチュエルでたびたびブラヴェと共演。これをきっかけにフルートでも演奏可能なソナタやコンチェルトを作曲しました。

クヴァンツとの出会い

ドイツのフルート奏者ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツは、フルート名手としてイタリア〜ロンドンへ演奏旅行をし、1726年、フランスに立ち寄って7か月ほど滞在します。その時、ブラヴェと親交を結びました。ブラヴェのことは「魅力ある人柄で素晴らしい演奏家だ」と賞賛していました。

フリードリヒ大王からのオファーを断る

1738年ごろ、フリードリヒ大王の王太子時代にプロイセンに旅して、ラインスベルクの宮廷に滞在したブラヴェは、自身も優れたフルート奏者であった王太子からぜひ宮廷に留まってほしいとオファーを受けますが、断ってパリに戻ったという逸話が残されています。そして、ブラヴェの代わりにプロイセンの王太子の宮廷に召し抱えられたのが、なんとクヴァンツでした。ちなみにクヴァンツは1728年(31歳)からフリードリヒ大王にフルート教師として仕えていました。

パリNo.1 フルート奏者として

1736年ごろから30年以上もの間、ブラヴェは王室の「シャンブル音楽家」(オペラや娯楽の時の演奏担当)として務めます。1738年からは王妃の音楽も兼任し、1740年から20年近く、オペラ座のオーケストラの第一フルート奏者も務めました。クレルモン伯爵の楽団の音楽監督も務めており、ブラベは当時の最高のフルート奏者として、重要なポストを独占していました。

ブラヴェは宮廷音楽家を輩出していたような一族とは違い、独学でフルートを学び、パリに上京して、文字通りフルート一本で成功した音楽家です。稀にみる出世を遂げフルートの地位を高めた人でした。

こうしてみると、ブラヴェはオトテールがちょうど50歳代で引退した後のフランス・パリの大スターです。肖像画を見てもブルーの瞳のフランス人は当時のアイドルだったのではと思います。今回はこの時代の重要な音楽家たちの名前も出てきて、人間関係も少し見えてきましたね。
また次回はドイツに戻って紹介したいと思います。

参考文献:フランス・フルート奏者列伝/井上さつき著 音楽之友社

ミッシェル・ブラヴェのフルートソナタOP.2-5






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