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景清伝説と聖地の境界性

修験の世界を筆頭に日本の信仰ではかつて女人禁制の聖地が存在していました。現在ではごく一部が残るのみ、その一部の禁制の維持を巡っていろいろな議論が交されている状況ですが。

こうした地では女性が聖地に入ることができず、「女人結界」とされた境界線で「女人堂」のような施設を設けながら遠くから聖地に祈りを捧げるような環境になっていました。

ただこのような女性が排除された形の環境があった一方でこうした境界の地が女性を中心とした新たな聖地となっていく面もあったようです。

さらにもともとこの世に新たな生命をもたらす女性はシャーマニズムに代表されるようにこの世とあの世とを媒介する神秘的な力を備えていると見られていた...というのはよく知られた話ですよね?

そのため葬送の地のようなある世界とある世界(生者のための領域と死者のための領域のような)とを分ける境界に位置する地域で神秘的な力を備えた(と見られた)女性たち(白拍子などの芸能民も含む)が活発な活動を展開していたこともあったようです。

というわけで、今回はそんな境界の世界に生きた伝承上の神秘の女性と己れに相応しい死に場所を探し求めていたように見える数多くの伝承を身にまとった歴史上の男性をネタにしてみたいと思います。

の画像は京都の東山にあるおなじみ、六波羅蜜寺の境内とその境内にある「阿古屋(あこや)塚」。

これが阿古屋塚

詳細は↑の説明板をご覧いただくとして(手抜き😅)、藤原(平)景清とその恋人であった阿古屋の物語です。供養塔は鎌倉時代に作られたものとありますから、この二人の伝説はかなり古くから伝えられていたことになりますね。

景清と言えばさまざまな伝説に彩られた人物として知られ、謡曲や歌舞伎の題材にもされています。ついでにかつて彼を主人公としたゲームも作られました(「源平討魔伝」)。代表的な作品として謡曲の「景清」と歌舞伎の「景清」を挙げておきましょう。

謡曲の「景清」のあらすじ↓阿古屋がヒロインではありませんが。

こちらは歌舞伎の「景清」のあらすじ↓

阿古屋を悪女として扱う作品もあって、↓近松門左衛門の浄瑠璃「出世景清

これはよく能楽と歌舞伎の違いとして挙げられる部分でもありますが、あらすじを読むと能楽の「景清」に色濃く見られる「無常観」が江戸時代の2作品になるときれいさっぱり失われている(笑)。後者は天下泰平の世の産物って感じがします。

そもそもこのヒロインの「阿古屋」とは何者か?についてはいくつの説がありますが、そもそもこの名前「阿古屋」は固有名詞であると同時に一般名詞のような意味も持っていたと考えられています。

弘法大師の母親は「あこう御前」または「あこや御前」という名前であったという伝承がありまして、彼女が息子に会おうと高野山に登ろうとしたところたちまち天変地異が起こって断念する...この筋書きがかつて高野山が女人禁制である根拠とされていたそうです。

「あこう」は「尼公」という字を充てられたりするのですが、「あこう」「あこや」の名前は弘法大師の母親だけでなく、広く神秘的な力を備えた、神仏の世界と交渉することができる女性に対してつけられていたそうです。なので「尼」だけじゃなくてもっと広い意味であの世(幽世?)と交渉する能力を持った女性に対して使われた言葉なのでしょう。

また「あこや」に関しては「悪谷」、死者を埋葬する地のこと、聖なる地であると同時にケガレが生じる地のことという説もあります。

こうなると兵庫県赤穂市がなぜ「あこう」と読むのかがちょっと気になってきますが...この地ではずいぶんと長い間「あかほ」と書いて「あこう」と読んでいたらしいのですが。この地は「うつほ舟」の伝承との関係で秦河勝の葬送の地との言い伝えもありますねぇ。

で、この景清伝説のヒロイン「阿古屋」は六波羅蜜寺がある地域(五条坂)で白拍子として活動していたことになっています。また現在二年(寧)坂には「阿古屋茶屋」なんてお店もありますが、もともとこの地には茶屋街が形成されていたと言われています。↓は二年(寧)坂。

またこちらもおなじみ、清水寺の境内には彼が自身の爪で削って作った千手観音像であると伝わる「景清爪形観音」もあります。

そしてこの地域はかつて葬送の地、「六波羅」の地名ももともと「髑髏原」が語源だとの説もありますし、地獄絵で有名な西福寺がある場所は「轆轤町(ろくろ)」といういかにもな名前。

さらにあの世とこの世を行き来していたと伝えられる小野篁ゆかりの六道珍皇寺もある。

加えて白拍子や遊女は古代末期から中世の頃までは神秘的な世界と交渉することができる巫女のような立ち位置でもありました。

こうして見てもこの景清と阿古屋の伝説はあの世とこの世、現実の世界と神秘の世界との境界となる地域を物語の舞台として、さらにその境界線上で生きる人々を主人公として設定していることがうかがえます。

ではこの伝説は何を語ろうとしているのか?景清はなぜ生者の世界と葬送の地との、日常の空間と聖地との、そしてあの世とこの世との境界に住んでいる女性との間に縁を結んだのか?

それはおそらくこの伝説を語り継いだ人たちの間で平家滅亡後の景清自身があの世に片足突っ込んだ状態にあったと見なされていたからだと思います。彼を巡る伝説では平家滅亡後の彼は追手から逃れながら頼朝暗殺への執念を燃やし続ける...という設定になっていますが、それもしょせんもう一方の足もあの世に踏み込むための準備段階、彼の人生のエピローグに過ぎなかったのだ、と。

あの世に片足を突っ込んだ状態にいる男があの世とこの世の境界で生きている女性とよしみを通じつつこの世での栄華を掴んだ人間を付け狙う、そしてその標的を追い回せば追い回すほど景清自身はあの世へと引き寄せられていく…

そんなちょっと皮肉な構図になっているように思えます。そんな濃厚な「滅びの影」は謡曲の「景清」では垣間見られますが、江戸時代の作品になるとほとんど失われてしまう。

こうしたシチュエーションだと神秘の世界にかかわる女性の庇護を受ける形で主人公が特別な力を授かる...といった筋書きになってもよさそうですが、平家物語と関わる世界ではそうしたスーパーヒーローはお呼びではないようです。むしろ主人公は活躍すればするほどどんどん無常の世界に取り込まれていく。

この点は義経と静御前との関係にも見られるんじゃないでしょうか。

江戸時代になるとこうした神秘の世界との交渉が次第に失われていったようで、それが能楽と歌舞伎の違いとしてあらわれているようです。これは歌舞伎を批判するわけではなく、時代が変われば価値観も変わる、という世の摂理のあらわれでしょうか。憂き世から浮き世へ、みたいな。そしてしばしば日本人の重要な美意識とも言われる「幽玄」の境地も後退していく。

景清ゆかりの地はかなり広い範囲に渡っているようですが、鎌倉にもゆかりの地があります。↓の画像は彼が鎌倉幕府に捕らえられた後に幽閉されたと伝わる土牢跡。もう土牢の体裁は失われていますが。

彼らはこの土牢の中で絶食しながら日夜ひたすら念仏を唱え続けながら死んでいった...とされています。

そんな土牢ですが、鎌倉の出入り口である鎌倉七口のひとつ、化粧坂(けわいざか)の近くにあります。この化粧坂、まさに鎌倉とその外の世界の境界であったわけですが、かつてこの地は人の往来が多く、化粧を施した遊女たちが活動していたと言われています(地名の由来の一説)。

さらに化粧坂の地名のもうひとつの有力な説として源平合戦の際に東国方が首級を挙げた平家方の首を化粧を施したうえでこの地で首実検を行ったから、というものあります。そして鎌倉末期になると後醍醐天皇による元弘の乱(1331)年で幕府に捕らえられた日野俊基がこの地で処刑されています。

2つの世界の境界、遊女、そして濃厚な死の気配…

この地を景清終焉の地に設定したこの伝承は舞台設定が非常によくできていると評価できると思うのですがいかがでしょうか?

しかも絶食&念仏三昧で少しずつ弱りながら死んでいった彼の最期もすでに片足をあの世に踏み込んでいた状況からもう一方の足も踏み入れて静かにこの世から去っていく...という美しいイメージを抱かせます。

さらに鎌倉の安養寺には謡曲&歌舞伎の「景清」にも登場する彼の娘とされる「人丸」の供養塔もあります。↓の画像

歌舞伎の「景清」をはじめとするいくつかの伝承では彼女は景清と阿古屋との間の娘とされており、伝承によると景清が死んで数年後に亡くなったことになっています。

彼女はあの世とこの世の境界で生きる女性を母親に、あの世に片足を踏み込んでいた男性を父親にして生まれた子どもということになりますから、この初期設定からして彼女がこの世に長く留まることはないことは明らかだったのかもしれません。自らの役割を果たすべく現れ、果たした後には速やかに去っていく。来訪神みたいな感じでしょうか。

また、人形浄瑠璃「出世景清」では熱田神宮の大宮司の娘と景清が深い関係になる設定になっていますが(源頼朝の母親がまさに熱田大宮司の娘だったことを思い出そう!)、愛知県にも景清ゆかりの地がいくつかあるようです。なぜか?もしかしたら「あこや」と「なごや」の名前のつながり...とか?😆

その熱田神宮には彼が所有していたと伝われる「あざ丸」という刀が所蔵されています。

↓はこの刀についてのWikiページ

持ち主は目を失う!いかにも怪しい伝説に彩られた「ワケあり」な刀、しかも最終的に丹羽長秀によって熱田神宮に奉納されたという「箔」もついている。

熱田神宮では2021年に所蔵している刀剣を展示する専用の施設、その名も「草薙館」がオープン。

↑の公式サイトの内容からもわたくしはてっきりこの妖刀が常設展示されているものとばかり思い込んで昨年夏に行ってきました。しかも東京から青春18きっぷを使って!

しかし行ってみたら常設展示じゃなかった(涙)

そんな景清、妖刀、日本刀と言えばもうひとつちょっと気になる話が。彼を主人公とした能楽作品にもうひとつ「大仏供養」という作品があります。↓は簡潔ですがあらすじ。

東大寺の大仏殿の再建供養の場で春日大社の宮人に変装した景清が転害門(てがいもん)で頼朝に襲撃をかけようとしたものの、正体が露見してあざ丸で奮闘したうえで逃亡する、といった内容です。

史実ではないと思いますが、気になるのは春日大社の宮人に変装したこと、そして頼朝暗殺を仕掛けた場所が転害門であることです。

刀剣に興味がおありの方なら「五箇伝」と呼ばれる刀剣制作が盛んな地域があったことをご存知のことでしょう。そのうちのひとつが大和国を拠点とした大和伝、さらにその大和伝を代表する一派に「手掻派 (てがいは)」があります。名前は転害門の近くに工房を構えて活動していたからと言われています。

この手掻派が歴史に登場するのは鎌倉時代なので景清の時代とは噛み合いませんが、平安時代にはすでに大和伝の刀鍛冶師たちが活動していたこと、そして彼らは奈良の仏教勢力をおもな顧客としていたこと、さらに春日大社はそんな彼らからの信仰を集めていた。となると…

この謡曲の筋書きには多少なりとも史実の反映があるのではないか?という推測(妄想?)を働かせたくなる衝動にかられます。つまり、平家滅亡後も奈良には平家の残党や反幕府勢力が潜伏しており、彼らに武器を提供していた鍛冶師たちもいたのではないか。そしてそんな彼らが東大寺再建供養を頼朝抹殺の絶好の機会としたのではないか...そんな穏やかならぬ空気があったのではないか。

平重衡による南都焼討によって平家は奈良の仏教勢力から怒りを買ってしまったわけですが、それが必ずしも大和国全体が反平家となったことを意味しないのではないか?

というわけで、各地に伝わる伝承には歴史のロマンをかきたてる魅力が潜んでいる!としみじみ思うのでありました。



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