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月刊ヤングキングアワーズ誌2024年6月号レビュー「ナポレオン死す…墓石には何も刻まれる事は無かったという…」。

長谷川哲也先生の「ナポレオン 覇道進撃」
かねてより体調の思わしくなかったナポレオンは
1821年5月5日英国領セント・ヘレナ島にて遂に息を引き取る。
墓石には「ナポレオン・ボナパルト」と刻むよう英国側は要請するが
ナポレオンの側近からすれば皇帝の名前は「ナポレオン」であり
英国側の要請を拒絶。
結果墓石には何も刻まれなかった。

イタリアに住んでいた母親と妹,
オーストリアの息子は彼の死を悼み嘆き悲しんだが
盛大な葬式を行う事は許されなかった。
タレイランは彼の死を「事件」ではなく
茶飲み話等の「話題」に過ぎないと言い
「最早彼は過去の人でありその死も何の影響もない」
と言ったという。
「ナポレオンの死」は
「何でもない男の死」に矮小化され嘆くのは血族だけとなった。

こんな…無縁仏の様な屈辱的扱いが改められるのは
国民王ルイ・フィリップの治世となってからで
セント・ヘレナ島のナポレオンの亡骸は1840年にパリに移され,
ルイ14世によって設立された廃兵院アンヴァリッドのドーム教会内に
建築家ルイ・ヴィスコンティによって設計された埋葬施設が
1861年に完成し彼の亡骸は5層になった棺の中に納められ
ドームの真下に安置された。
円を描いて棺を囲む床の大理石のモザイク装飾は
ローリエのモチーフとともにナポレオンが勝利した戦いの名を刻んでいる。また墓を囲む回廊には民法典をはじめとした
ナポレオンの残した功績を称えるレリーフ彫刻の装飾が施されている。

この…ナポレオンの霊廟を
1940年パリ無血入城を果たしたアドルフ・ヒトラーが訪れている。

彼は日頃からナポレオンを尊敬しており
「これは僕の生涯の絶頂だろう」
「パリを見るのが小さい頃からの夢だった」
「それがいま叶えられてどんなに嬉しいか…」
「口では言い表せないよ…」
と側近に漏らしたという。
これがヒトラーの最初で最後のパリ見物となったのである。

次号は大増44頁が掲載されると言う。
「ナポレオン」が「終わる」まであと2回となった。

本号には平野耕太先生の「ドリフターズ」が掲載されている。
平野先生的にクロウ様と木苺じいちゃんのコンビが気に入られている様だ。
何にせよ「ドリフターズ」が頻繁に掲載される様になって嬉しい。

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