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ひとりで歩く鳥取砂丘には、生の実感と孤独があった

もしある朝目覚めたら、この場所にひとりだったら、絶望してしまうのかもしれない。人を生かしておくつもりなどないかのような砂丘は、私を圧倒した。

砂の上にぽつんと、まわりに微かに聞こえる音が知らない言語だったら。たとえ外国でも町の中ならなんとか生活に潜り込めるような気がするけど、そこでは命を繋ぐことが難しい気がする。

もしここでひとりだったら、という気持ちが自然と浮かんでくるのは、この無機質な砂の量からだろうか。

でも、世界にはこういう地で工夫しながら生活を営んでいる人もいるんだよな。入り口にはラクダがいた。異国の地を想像しながら、一歩一歩沈む足を前に動かしていく。

生物としてもひとりだという実感が込み上げる。日本を旅していて、生きているって当たり前じゃないんだと気づく場面は少ないが、鳥取砂丘にはそういう人間の無力感みたいなものを見せつける力があった。

寄り添いながら登っていくご老人夫婦、大股でずんずん進む欧米男性、関西弁で叱咤激励されながら降りてくるおばあちゃん。

ひとりで歩く二十代の女性を私のほかに見つけることができなかったけれど、ひとりで来たからこそこの生きる実感を含んだ孤独を感じられたのかもしれない。

私がそんな感慨に耽ったのも、すぐまえに砂の美術館に行ったからかもしれない。今の時期はエジプト展だった。ツタンカーメンとか、ヒエログリフとか、ミイラとか、ヒトの営みがあまりに長く激しく続いていることが衝撃的で、その余韻が続いていた。

ミイラは臓器を取られて防腐処理をされていたとか、死んだ人は審判を受けて心臓と罪を天秤にかけるとか。

そして砂の彫刻は砂と水だけで作られているのだという。会期が終わったら、また砂に戻し、次の彫刻をつくる。永遠に繰り返せる美術作品だそうだ。

鳥取の砂を使っている緻密な彫刻を見たあとで、砂を踏みしめながら歩くのは不思議な気持ちだった。

たくさんの人が砂丘の高い部分、馬の背を目指すのに、なんだかまわりにあまり人がいないのが不思議なのだ。見えるのに、手を伸ばして届くところに人がいないって、日本の観光地ではあまりないんじゃないだろうか。

雲が動き、砂を照らす。馬の背では先に進んだら海に落ちてしまうのではないかと、どこまでなら進めるか足元の確証がもてなかった。そして海からの信じられないほど強い風。

暴風に髪が舞い上がり、一歩一歩降りるのにも時間をかけながら、ここにきて良かったと思った。旅をして観光地に行って、心の底からああ、ここにきて良かった、と思える日本で感じたことのない種類の気持ちだった。

砂丘は砂漠じゃないからと舐めていた。見渡す限りの大量の砂と青い海のうつくしさ。そして砂を前にするとくっきり浮かんでくる孤独感。海外の砂漠にも行ってみたい、とそんな思いも浮かんできた。

鳥取砂丘、ぜひ一度訪れてみてほしい。

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