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掌篇小説『日曜の女』

 風薫る季節。

「日曜会ってみて頂戴、いいお嬢さんなのよ」

 大伯母は家にくると僕に土産のように見合いの話をもってくる。子どもの頃はいつも図鑑を買ってきたものだ。いずれにせよ僕に無用なコレクションであるのに変りはない。
 しかし今回は妙だった。見合いの話と云いながら、図鑑の一枚となる筈の相手の写真を手にしておらず。只「いいお嬢さんなのよ」と云われ、住所のみ手渡された。

◆◇◆

 街も眠たげにうすく霞む青天におおわれた日曜、その住所へと独り出かけた。どこかの喫茶店かホテルロビイかと思いきや、『お嬢さん』当人の自宅であるらしかった。くすんだクリイム色の壁にぽつぽつとアアチ型窓のついた、四角い家。

 玄関で出迎えたのは、使用人と映るエプロンをつけた若い女だった。落ち窪んで翳のある眼がすこし老けて視えるが、涙を湛えるような光の瑞々しい揺らめきがあった。

 客間に僕を案内し、紅茶を淹れてきた彼女は、僕の真向いのソフアに座り、エプロンをするりと外した。まだ女学生のような紺地に白い丸衿のワンピイスを着ていた。
「あちらが、姉なのですけれど……宜しくお願い致します」
 彼女は云った。洋館の使用人でなく娘であるらしいのはわかったが、『姉』というのはどういう事だろう。ほかに人の気配はない。わりに近くをゆく飛行機の音がまるで雷鳴にトンボを掛けたみたいに万遍なくひろがるだけだ。
「あちらの壁にある……モノクロウム写真に映っているのが、姉ですわ」
 ちいさな横顔と掌がしめすさきには、額のないパネル写真が、壁から僅かに浮遊するように飾られていた。洋装の女の全身が、そこにある。背を向けたタイトなジャケットのふとい縦縞が、少女漫画の如くしなやか過ぎる躯の線をアヴァンギャルドにあらわし、スカアトは逆におおらかに純白の裾をひろげ、その下にちらり網タイツの脚と針のようなヒイル靴をのぞかせる。此方をふりむいている顔は、僕の目前に座る栗色がかった癖っ毛の妹?とはすこしも似ず。黒く艶めくおかっぱ髪とヴェイルのついた帽子に護られるように、前衛的な躯とうらはらな、丸っこくあどけなくトラディショナルなまなざしがあり……しかし背伸びしたヒイルとおなじぐらい鋭いアイラインを描いた眼には、ヴェイルの奥にあってもみずから発光するような、理知的なかがやきが視てとれた。
『姉』らしき女は僕のことも妹のことも視ているのかいないのか焦点の知れぬ風情で、どこか異国のほの暗い……地下道だろうか、壁も道も煉瓦造である場所に、身をゆだねるように仄かに艶かしく、それでいて凛と、立っていた。煉瓦が姉をおさめる額縁か。
 服装からして、あちらも春なのだと思う。風もどこからか吹いているのだろう、黒髪が、スカアトが、よく視るとすこし、浮きあがっている。

「あの写真の場所が気に入ってしまって、なかに閉じ籠ったきりなんですの。日ごと、姿勢は変るのですけれど……今日は、貴方様に興味をもっているように思えますわ」
 妹は儚げだが事実をつたえるラジオのような声でそう云い、今日の『見合い』がはじまったとばかりに、紅茶に口をつけた。

 姉のいる場所は、どこまで煉瓦道がつづいているのだろうか。写真で区切られていると却って、それが永劫あるように感ぜられる。葡萄酒の樽でも延々おかれているのか、それとも、葉っぱの一枚も舞わず只果てしないのか。姉は魅いられてしまったモノクロウムの地下と、故郷であるカラアの部屋と、未来の鍵をもつやも知れぬ『見合い』相手の僕とを、今は交互に感じているのだろうか。
 詳しく尋ねる気は不思議とおきず、妹も語りたげな様子はなかった。妹からおかわりの紅茶とバタア薫るあたたかな焼菓子をもらい。僕は姉妹に向け僕の仕事の話と、この街にくる道中で視た野生の菫と、バッハのレコードと、ヘッセの小説の話をした(菫は、姉に飾れば似合うような気がしたから。バッハとヘッセは、姉妹の一緒だが別々の世界にいる様子を視るうち、何の脈絡もないがどうしてか浮んだのである)。僕の声が客間でありながら地下道にいるように反響するほかは、家を潰しそうで潰さない飛行機がもう一機過ぎただけで、閑かだった。

 エプロンをわざわざむすび使用人の顔に戻った妹に送られての去り際、姉は、はじめに視たときより壁についた指の力がゆるみ、顔を傾かせ、フォオカスを此方に合わせている気がした。眼の光がヴェイル越しに私の何を(或いはこっちの世界の何を)とらえるのかは、判らぬ儘。悪戯な風が、髪に唇をくすぐらせている。

◆◇◆

 家に帰ると、大伯母が来ていた。僕を視て。
「あら日曜なのにそんな恰好して。お仕事だったの?」
 云い返すべきことがあると口をひらいたが、その気持ちはまるで葡萄酒の香が去るように消えた。口をひらいた儘の僕に大伯母は、ファイルをひろげて視せた。乱雑な色遣いによる振袖姿の、ふくらませかけた風船みたいな女が腰かける、ありふれた見合い写真だった。
「次の日曜会ってみて頂戴。いいお嬢さんなのよ」

◆◇◆

 夜、ふと散歩に出た。何故か歩いたことのない道をゆきたくなった。『主よ、人の望みの喜びよ』の主旋律をいいかげんに口ずさみながら、肌寒い春の夜を小一時間は彷徨ったろうか。列車のレエルの下をくぐる為掘られた地下道があった。地面はコンクリイトだが、半円型の壁は煉瓦でおおわれ、蛍光灯が危うげに点滅しながら照らしている。道の終り際の階段、ふたたび夜の闇がはじまるところを、女のほそい脚が呑まれゆく気がした。ちょうど列車が真上をラジオの酷いノイズのような轟音とともに横切ったが、それでもヒイル靴らしき澄んだ響きを微かに聴きとった。追ったが、誰もいない。足もとを視れば、煉瓦とコンクリイトの境の土に、踏まれたか轢かれたらしくかたちを歪めた菫が一輪。にじんだ紫が風にふるえ、最期の薫りを深くただよわせていた。





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