鏡の世界を歩こう(2)

簡単な例(1)
わたしの身近な人物に、こういった人がいる。何かに秀でていたり、何かうまくいったことがあると、それについての職業やスペシャリストになることを勧めるのである。これは、もちろん仕事や職業を特別視し、権威とし、優秀であると見做していることから発生した習癖である。その人物に限らずとも、世間一般の考え方を無根拠に受け入れれば、「自分自身の優秀な個性はそのまま仕事になるのが望ましい」という結論に導かれるのも無理はない、というより自然な流れである。この考え方と結論が幸福に結びつく場合もあるし、結びつかない場合もある。

そもそもは、仕事や職業、それから自身の特性や個性、優秀さを持つ側面と「幸福は一切関係していない」のであるから、もとより前述の考え方は、幸福と対置させ、なんとなく結びついているように見えているだけなのである。

しかし、理性や振り子というやつは、その人自身の何らかの性質と「幸福が関係あるかのように」見せるので、様々な考え方や結論が生まれ、また時代や自身の年齢によって、また意識する対象と共に変化していくのである。真っ当に聞こえるかもしれないが、ただそれは広く流布された考え方とその歴史であり、麻痺と一体化によって見えなくなっているだけである。

幸福という感覚は変わらないものであるはずなのに、それに関係しているものが手を変え品を変え、変幻自在にあなたを窓をしているのである。今回の例で言えば、最初に挙げた人物のように仕事や職業が何よりも優先されるような価値や対象であり、現在の経験や共感、そこでの想像力よりもまず、当該の人物がーーおそらくは理想の職業とやらにーー新しく就職することを願っているのである。これはフロイドや精神分析では自白により明らかになるものであるが、ここではわたしといつ固有の層に、共有という形で、彼が代わりに、あるいはわたしが彼の代わりに自白しているともとれる。自白そのものが、ここに息づくようにだ。

鏡のマジックにも、精神分析のマジックにも、わたしの思考の及ばなぬところから、わたしを通してではなく、世界がそのように動いているのを証拠としてみることによって、わたしはそれを体験する。つまり、自白やマジックに関して深追いすることはないのである。賽は投げられた。結果を見せるのは、世界の方なのである。

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