バランスーー平衡力の働き

まあ何事も偏った考え方が見受けられて、事の是非や善悪はともかく、なにがしかの振る舞いを求められている場に居合わせた時、その背後には「振り子」がいるのである。

冷静さや仏教的な諦念や価値観、正確な判断と言われるものが人の目を引くのは、そこにバランスのとれたものの見方があるからだ。そしてそこには、過剰な正しさもなく、どちらか一方あるいはどなたかの一人勝ちを誘発刷るのでなく、「ゼロであることがゼロであるものに向かう」という流れを生み出す。

願望を持った時、それに対して強く握りしめたとしよう。その時、+100の力で握りしめたとしたら、どこからともなく−100の力が発生して、あなたは叶ったら嬉しいものに渇望を抱いて、なんだかいい気分にはならないのである。このどこからともなくやってくる力が平衡力である。

願望に対して、ただそれが投影されたスクリーンを見るように「ああ、いいなぁ」と思っているだけでは平衡力は働かない。映画を観て、観終わったあとに「ここは映画の中じゃないじゃないか!」と激昂しないのと同じなのである。

ひどく単純化しているが、誤解を恐れずに言えば、このようなことが起きているのは日常茶飯事であり、通常通りに行われていることには中々異なった角度からの視点は持ちにくい。

強く握りしめている、その力を緩めていけば、あなた自身が起こしていた荒波は静まり、ひそやかに事は行われるようになる。そう、何もあなた自身が達成したり、実現したり、いい事や悪い事を引き起こしているのではないのだ。責任という偶像を生み出して、「こんなことがあった。いったいどうしたらいいのか」「どうなっているんだ」と思うのは人上であるが、同時にすべてを受け流していくのもまた人の世である。

よく言われる自転車を乗るように、徐々に手放しの練習をしていくのはここである。わたしたちは「わたしたち自身に責任など一切持ち合わせていないのである」。そもそも責任という観念自体が作り出したものであり、捏造であり虚構であり、実は存在しないものなのである。存在しないものが何故あるように思うのかと言えば、あなたがあるように見るからであり、それに機能を見出し、有用性を感じ、責任というもの「振る舞いに合わせてなければ」と思っているからである。しかし、責任ははじめからないのである。ないものを手にして振り回そうとしたり、強く握りしめたり、相手にしているから苦しく辛く、時には泣きを見るのである。

わたしたちは疲れ切ってしまった時、どうしようもなく寝るしかなくなってしまう。それは、あなたの現実に対して強く握りしめ続けた力に対して、平衡力が働き続けた結果、あなた自身はもう寝ることによってゼロになるしかないからである。そしてゼロというのは、エネルギー消費をしないという点で、圧倒的に効率的であり、元気であり、源そのものであるので、あなたはあなた自身の力によらずとも完全に回復するのである。その時、なんの力が回復したのであろうか。それは意識の力である。

意識の力は、努力する力にあらず、行動する力にあらず、物事を動かす力にあらず、場合によってはそのように感じるかもしれないが、意識の力とは「意識すること、そのものの力」であるのだ。

少し戻るが、わたしたちは、なにか物事を成そうとするとき、力が必要だと思っている。しかし、本当はなんの力もいらないのだ。このことがこの物質世界最大のひっかけと言ってもいい。ゼロが素晴らしいのは、ゼロであるまま交流が起き、交通が生まれ、交際する。つまり、エネルギー効率もクソもないのである。そこには常にゼロのまま交換が起きているので、理性やエゴには理解できないまま事が行われる。そこに気づくのは意識の力である。意識性といってもいい。

わたしの心臓が完全に動いているのは、わたしの責任でないように。地球や星星の運航が完全に執り行われているのもまた、それによってわたしたちの生活が形作られているのもまた、はじめから想造されたバランスであり、そこにわたしたちが力をかけたから、実際の努力が功を奏した、というのはまさしく幻想なのである。

何事も、目の前で完全なバランスが起きていることを目にし、それは自然な流れによって、自然な方向へと導かれていくことを知るのである。ここではじめて、現実に対して干渉することをやめ、抵抗を手放し、意図というものが再び顔を出し、復活を果たすのである。

もう現実に手出しをするのはやめるんだ。この世は壮大な舞台なのだ。あなたは神々の芝居を観ている。あなたはあるがままの状況をそのまま流れていくようにしていればいいのだ。自然な気づきはもたらされ、以前よりもグッと楽になるだろう。

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