「休みなんて、なくて構わない」

休みなんてなくていい、そんなこと考えたことなかった。わたしの地球は休みを中心にして回っていた。休みの日がいちばん大切だから、できるだけ休みの日がとれるようにしていた。

なのに、「休みなんて、なくて構わない」とはどういうことだろう?

ヴァジム・ゼランドの本を読んでいく中で、過剰ポテンシャルという考え方は「重要性」というキーワードによって紐解かれた。そうだ、重要性だ。わたしがそれぞれの概念や考え方に「それが重要である」という認定を与えていたから、その度合いに応じて「平衡力」が働き、波が生まれ、ゼロに戻ろうとしていたのだ。

つまり、「金がほしい」という考え方(この場合、言葉だが)に「がんばって稼ぐ」とか「なかなか手に入らない」などの思いがくっつき、それらは本来関係ないもの同士なのに本人は「その思い通りの現実を投影し、体験することになる」のだ。

しかし、「金なんてほしがらなくていいのか」や「金なんてなくていいのか」、「金は勝手にやってくる」など先程の考え方に対して、重要度を下げていく思考を投げかけていくと、不思議と気が楽になって、なんだか本当にそんな気がしてくるのである。

つまりメソッドや言葉、考え方というのは「重要度を下げる」ためにあるのであり、「重要度を下げた」結果、楽になったり、感情が解放されたりと楽になると同様の体験が続くのである。

冒頭に戻って、わたしのように「休み」が何よりも重要だと思っていた人物には、「休み」を中心としてその周辺の体験が形作られていた。だから、というかこれが体験の肝となる部分だが、肝心の「休み」になって自由になった際、わたしは「なにをしていいか」わからなくなってしまうことが多々あるのである。これは驚くべきことにというか、自明の理であり、自業自得ではあるが、エゴ的には盲点に入ってしまったような感覚である。

エゴは「休み」のために働いてきたのだから、実際の「休み」になった途端、やることをなくしてしまうのである。もちろん、趣味や好きなことはたくさんあるのだが、不思議としっくり来なかったり、思ったよりも楽しくなかったり、「本当はこれではない」という感覚があったのだ。

なぜなら「本当はこれ」という感覚があれば、それは「どうやってもうまくいくものである」ということを「本当のわたし」のみならず「誰もが知っている」のであり、しかし、様々な考え方に重要性を付与している限り、その考え方から自由ではなく、いざ自分が採用している考え方の目的を達成したとしても、そこに「本来の自由」「無条件であること」はそこにはないのである。だからまた、新たな「休み」を作り出そうと画策したり、違う考え方を試したり、新たな目標に向かって努力や苦労を惜しまず、創意工夫を凝らすことに勤しむのである。もちろん、その最中、過程もまた「無条件に」幸福で、充実しているなら話は別だが、ここでは問題にしない。 

わたしにとって「休み」に対しての重要度を丸投げしてしまうことが、「そんなこと考えたことなかった」ことのように、重要度が高いと「自分がその考え方と一体になっている」ことに気づかないのだ。これは願望実現において「願望を手放す」と言われていることと同じだ。わたしたちは願望に対して「渇望そのもの」になっていることに中々気づかないのだ。しかし、億万長者にならなくてもいい、理想のパートナーがいなくてもいい、休みがなくてもいい、などなど自分の考え方に一石を投じて、重要度が下がり気が楽になるのか試してみる価値はあるのだ。

そして、わたしたちは「その考え方ではない」ことに気づくのだ。すると、なんでもない自由がすぐそこに転がっているのである。

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