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「龍宮の遣い」第3話

 入社して一月ほどの私と篠原が作り上げた宣伝助成物の制作体制は、当初外注することで費用が膨らむのではないかと抵抗の声が上がって始動するのに苦労した。それがその後も続いたのは社長の後ろ盾があったこと、そして出来上がった宣伝助成物の品質が高く社内でも電器店でも評判が高かったからだ。
 制作体制が出来上がった頃九%だったエアコンの普及率は急上昇し八年後には四十%に手が届くまでになっていた。機を見るに敏な駿河部長は、この間に剛腕を振るって市場を関西から全国に拡大した。市場拡大には相当な時間と汗が必要であったが、その結果クラウン電工の業績は飛躍的に向上した。社内の雰囲気も一変し、八年間で営業を中心に社員数は倍増し、宣伝助成物の制作費は潤沢になった。
 市場を全国に拡大し終えたクラウン電工は事業方針を替える決断を迫られることになった。新事業方針は、社長と市場拡大の功労者である駿河部長が前年から深い議論の上で結論を出したものだった。新事業年度が始まる四月一日に各部門の責任者が会議室に呼ばれ社長から直々に説明があった。私も平社員ながら宣伝助成物担当責任者ということで出席を許された。篠原はその頃はもう宣伝助成物制作にはコピーディレクションで少しかかわっているぐらいで、駿河部長と市場開拓のため全国を飛び回っていてこの発表の場には出席できなかった。
 出席予定者が揃ったことを確認すると社長は姿勢を正して話し始めた。「クラウン電工の新事業方針を発表します。クラウン電工の市場は皆の努力で全国に拡張しました。全国市場で勝負するために我が社も既に業界標準になっている室外機と室内機が分かれているセパレートタイプの生産と販売を開始することにします。これは営業部が市場を全国に広げる努力をしている間に、開発部が国内外のセパレートタイプを徹底的に研究したことによるものだとご理解ください。」責任者全員が唸り声をあげたが社長はこれに反応せず更に進めた。
「これを機に業界の名称変更決定から遅れること十五年、唯一我が社だけが使って来たルームクーラーという呼称を捨ててエアコンという呼称を採用します。エアコンですから暖房機能も付加します。これで一年を通して販売が可能になるので更なる事業拡大が望めるはずです。」
 ここからは駿河部長に説明してもらいますと駿河部長に目を向けた。
「ハイ」と言って立ち上がり、いつになく神妙に一礼して駿河部長は話し始めた。「まず、これから販売しますセパレート型エアコンでは、呼称つまり名前をこれまでのように品番ではなく、同業他社と同じように愛称をつけます。愛称とは他社が採用してる、楽園とか木かげとか白くまとか言う様なものです。当社は社長の開発思想にある快適を愛称に込めたいと思います。新商品の愛称は、『龍宮』とします。お伽噺の龍宮城にいる様なこの世には無い快適さを届けるという社長の思いが込められています。」ここで一同どっと笑った。
 事前に慎めと言われていたにも関わらず私は発言してしまった、「今までうちが消費者に届けてきた快適のイメージは、『いつも傍に』です。消費者が求める快適を実現する定番商品という位置づけだったんですが。おとぎ話の龍宮城は定番と言えるんでしょうか。消費者へのイメージを変更しても大丈夫でしょうか?」とそこまで話して隣の製造課長に上着の裾を引っ張られて発言を止めた。
駿河部長は私を睨み付けて、「快適に反対語は無い。つまり一方通行やて言うたのは君やないか。それを考えるのが竹田の仕事やろ・・」と諌めて、次の説明を始めた。篠原がここに居たらどういっただろう、悔しさが込み上げてくる。
「すみません続けます、顧客像は以前同様に身近な下町の消費者とします。セパレートエアコンを始めたからと言って、付加機能をたくさん付けて高価格にするのではなく、基本機能を充実させた低価格追求主義を継続します。今日は欠席していますが篠原くんが新市場として多店舗展開してる家電量販店と家電も取り扱う大手スーパーへの参入交渉に入っとりまして良い結果を出せそうなんです。そうなりますとそれらのお店の顧客構成から見て顧客ターゲットは身近な下町の消費者と言えど、今まで想定してた教育費などで財布の紐が堅い中年の家庭層に併せて収入の少ない若い世代も対象になります。賢い買い物で快適な暮らしを求める人が我が社のお客様です。
 次に従来のルームエアコンは窓用エアコンと名前を変えて冷房専用器として販売します。そしていままで取り扱いの無かった電器ストーブと暖房用のセラミックヒーターをエアコンの補助暖房機として商品ラインナップに加えます。新しく取り扱う暖房商品は国内外から調達して我が社の商品として販売し生産ノウハウが蓄積でき次第自社生産へと転換します。
 最後に、龍宮一号機は、今季六月から順次市場へ投入します。生産台数および販売目標数量などの数字は後程資料にしてお配りします。 以上、何か質問はありますか。」質問はさせないという気迫を込めた駿河部長の説明は終わった。製造部や殆どの出席者が内々に新年度事業方針の枠組みは知っていた様で大きな混乱はなかったが、全く知らなかった私は大きな衝撃を受けて会議が終わっても暫く立ち上がれなかった。
呆然と空をにらんでいる私に駿河部長が近づいて来て、「あんじょう頼むわ。」と呟くと私の肩を二、三度揉んで会議室を出ていった。

 この事業方針の変更に伴って宣伝助成物はすべて刷新となる。先ずは制作チームに報告しなくてはいけない.自席に戻ると日本精密印刷の平田さんに電話して、今日中に新事業方針を説明したいので制作チームを集めてもらうようにお願いした。数分で返事の電話が入り、二時間後に日本精密印刷の会議室に集合とのことだった。二時間が待ちきれず平田さんからの電話を切って三十分もしないうちに会社を出て日本精密印刷に向けて歩き出した。歩いている間中、快適と龍宮という言葉が頭をまわり耳にこだました。私の早すぎる到着は平田さんを驚かせたが、かなり深刻な状況であることは理解してもらえた。会議室で待つこと一時間弱、やっとスッタフが揃ったので状況をできるだけゆっくり、詳しく説明した。説明が終わってみんなが驚くだろうと、顔を見渡したが別段の変化はなかったので、取り残されているような気分になった。
 コピーライターの釜田さんから「気にされてた快適の表現ですが、今はいつも傍にいるものというコンセプトで制作していますが、龍宮城のような快適さの表現とはマッチしませんよね。竹田さんのお考えを訊かせてください。」と質問された。この人は鋭い、篠原がいてくれたらなと思いながら、私は唸るしかなかった。
 ディレクター木村さんが助け舟を出してくれた、「御社の社長さんの快適のイメージが龍宮城でしょうが、一般の多くの人は龍宮城と聞いて快適を連想しないと思います。どちらかと言うと豪華とか贅沢ですよね。人によっては少しエロチックと感じるかもしれない。例えば竹田さんのお好きなラウンジみたいな感じです。ラウンジに快適という言葉は似合いません。でも、『私だけの』という言葉を付けたら、そこであれば安らげると言うイメージがわきませんか?」ラウンジのたとえは余計だがなるほどそうだと思った。私のラウンジ好きは有名なのか。
「ということは、新しい表現コンセプトは、快適じゃなくて『私だけの安らぎ』ということかな。釜田さんはイメージできますか?」と振ってみた。「そうですね、コピー表現としては前のコンセプトとつなげることは可能です。でも何となく快適の度合いが小さくなったような気がしますね。」
 快適と龍宮の問題は制作チームのおかげで解決し、次に以前と同様に顧客像が身近な下町の消費者と言えど対象が中年世代とヤング世代に二分する問題について議論が向いた。
平田さんの提案では、カタログなどはできるだけ二つの世代が共感するイメージを探して両世代共通として、ポスターだけは、若い世代が多い家電量販店と大型スーパー向けと今までの電気店ルートで別々に制作するのはどうかというものだった。木村さんも釜田さんもこの提案に賛同したのでとりあえず受け入れた。業績アップで制作費をかけられる余裕があったからだ。
 コアの二人は会社へ戻って検討して次のミーティングまでに宣伝助成物のたたき台を提出してくれることを約束しての長いオリエンテーションは終わった。帰り支度をしていると川瀬部長が表れて、「平田からチラッと聞きましたが事業方針変更で大変みたいですね、慰労会しましょうか。」といつものお誘いをいただいた。
「そうこなくちゃ」と飛びつくのも良くないかと思い、「大丈夫ですか?」と返すと「うちは制作物が増えて嬉しいです。」と返って来たので、黙って笑顔で付いて行った。
 八年前に初めて接待してもらってから数か月ほどして一人暮らしをするようになると、川瀬部長からちょくちょく食事に誘われるようになっていた。そしてクラウン電工の業績が上がり始めてカタログ類の発注量の拡大に伴って接待の回数は増え、この頃には月に数度飲みに行くほどにまで接待漬けになっていた。いつもラウンジをおねだりして川瀬部長がキープしているボトルを頂く。
川瀬部長は新しいお店の開拓も熱心で良い店が見つかると必ず連れて行ってもらったが、最後に行く店は 堀井真理のいるラウンジ高瀬だった。真理さんはもう三十路に入ったのだろうか。「快適は一方通行、後へは戻れない・・」そんなことを思いながら北新地の入り口でタクシーを降りた。この頃の接待はまだ可愛いものだった。

 昭和という時代が終わる頃、クラウン電工では篠原社長が高齢を理由に会長に退き新しい社長にこの時は専務だった恵比須顔の駿河さんが就任した。九年前の事業方針改革後も販路拡大などを積極的に展開し、更なる業績拡大を成しえた功労者である駿河専務が社長になることは、誰も不思議に思わなかった。それと同時に同期の篠原はおそらく駿河社長の抜擢であろう営業部長から常務に昇格した。こちらも次期社長人事として異論を差し挟む者はいなかった。常務と同期の私には新事業方針の龍宮のイメージを作り上げ広告賞を受賞した功績を理由に、お情けでそれまでの宣伝助成課を部に組織変更して課長から部長に昇格させてもらった。部と言っても私以外にディレクターが二人とアシスタントの女性が二人という小所帯で課といっても良いぐらいの規模だ。だからと言って不満ややっかみがあるわけではない。私の功績は全部篠原と外部スタッフの功績であることは身に染みているし、外部スタッフと楽しく仕事が出来てたまに良い思いもできる宣伝助成部長にはそれなりに満足していた。
 駿河さんは社長に就任して暫くすると本社移転を言い出した。当時はバブル景気で大阪梅田の外れでも地価は高騰していて、四階建ての古い自社ビルにも桁外れの高値がついていた。機を見るに敏な駿河社長ならこれだけ高い値がついているのなら、手狭な本社ビルを売却して大阪市が誘致する大阪南港に新社屋を建設し、移転することを推進するのも納得できる。バブル景気はいつ弾けるとも知れないことを独特の勘で察知して急いで売却したかったのだろう。この勘は当たり新社屋建設中にバブル景気は終焉を迎えた。
 篠原は駿河社長とは長年の息の合ったコンビだから駿河社長の意見に同意したのだろう。この二人が合意すれば社内の意思統一は容易いことだったと思う。おそらく前社長の引退は本社移転に原因があると推測できたが、宣伝助成部には遠い世界のお話だった。この話を聞いた時は十七年勤めた梅田の自社ビルを離れるのは少し寂しい気持ちになった。しかしバブル景気でエアコンの普及率は六〇%を超え、それに伴って社員も私が入社した当時の二十倍以上に膨れ上がり、手狭で近くに営業所用の事務所を借りなければならない状態だった。この状態では寂しさより息苦しさが勝って私も早く移転したいと思うようになっていた。
 大阪南港の新社屋への移転は比較的スムーズに行われ、最新機能の広いオフィスで伸び伸びできることの有難味を社員全員で味わった。難点と言えば梅田の事務所より交通の便が格段に悪いことと、最寄り駅から社屋まで結構な距離を歩かないといけないので雨の日などは大変なことだった。宣伝助成部は一階の商品展示サロンの隣にオフィスを頂き、日々業務に励んでいたが、新事業方針施行以降の九年間は宣伝助成物制作に大きな方針転換は無かった。制作チームは、日本精密印刷さんとデザイン事務所のコアさんの儘で変化と言えば、写植と版下制作という行程が無くなって、パソコンが制作ツールとして加わったこと。そしてもう一つの変化はコアさんのコピーライターの釜田さんの苗字が竹田に替わったことだ。つまり私と釜田さんは結婚して長男、長女の四人家族になっていた。新製品が出ない限りは仕事の変化が少ないので流れ作業をこなしている様で面白味は少ないが、共働きで小さな子供を育てるには都合が良くそれなりに幸せだった。

 新社屋移転が終わるといよいよ駿河社長体制が始まった。駿河社長はエアコンの売り上げの伸びが鈍化していることから、なにかもう一つ新商品を探していた。売り場の情報こそが真のお客様の声と信じて止まない駿河社長は、自ら様々なお店に足を運び聞き込みを続けていた。そんな地道な活動から、花粉症が急速に増えているという情報がもたらされた。社長は開発部の部長を務める私と同期の中島君を呼び出した。
「花粉症対策の機械は作れるか?」と中島部長が部屋に入るなり切り出した。中島部長は社長のデスクの前に据えた椅子に座ると雄弁に話し始めた。「空気の中の花粉を除去する機械を作ればよいと思います。方法は二つ、フィルターで空気を濾すろ過方式と機械から花粉を砕くイオンを出して花粉を無くすイオン方法です。」なるほどと駿河社長は頷き、「どっちがうちの会社のお客さん向きや?」と訊き返した。中島部長は即座に、「フィルター方式なら安く提供できますから一般の消費者に向いていると思います。」と既にその商品は検討済みであるかのように即答した。「中島くん急いで作って売りましょう。」と製造命令をだした。その後、篠原常務と私が呼び出された。
「今、中島君に空気清浄機の製造命令をだした。開発部から稟議が上がってくるから承認しとて。ほんで篠原常務には販売計画をお願いします。竹田部長は宣伝助成物の準備をして。今度は単価もエアコンほど高くない。今までとは世界が違うからよろしく頼むで。でもな快適さを届けるというコンセプトはおんなじターゲットもおんなじや・・わしもコンセプトとかターゲットとか言う言葉を使えるようになったわ。 」と笑って社長は命令をくだした。ここまで大きくなった企業が敏捷な行動をとれるのは、時は金なりという商人思想が染みついていて、稟議を回して時間を無駄にするのは馬鹿馬鹿しいのだろう。社長は業界の付き合いで総合電器メーカーの人達のから肥大した組織の実態の欠点を学んだ様だった。

 空気清浄機の宣伝助成物制作を始めるにあたり、どのようなものになるのか開発部の中島部長の席を訪ねた。中島部長はすでに商品の詳細の設計までを終わらせている様で、外形の情業や機構や想定価格などを詳しく説明してくれた。二週間ほどで実物模型ができるので、完成したら経営会議でプレゼンテーションして承認を得たら生産準備に入れるという準備の良さだった。
 私はこの商品専用のカタログとポスター、そして既存のカタログへの掲載を検討しようと部のデスクへ戻った。デスクで既存のカタログ類を眺めていると、新事業方針発表から十年近く全く変わらないデザインテイストが続いてきたので、今回の新製品は新しいデザインテイストを持つデザイナーを制作体制に加えたくなってきた。そこでその頃始めた電器店との共同キャンペーン広告で付き合いの始まった、広告代理店の担当営業の深見さんに電話で相談してみた。
 数日後深見さんは、今一番人気があるという売り文句で二十代後半の若いデザイナーと彼が所属するデザイン事務所の社長を連れてきた。持参した実績作品はなかなかの出来で新商品には適していると判断できたので、営業部に相談せずに採用を決めた。家に帰って家内に相談すると、「やって後悔するよりやらずに後悔する方が百倍辛いから、洋志のしたいようにすれば良い。」と微笑んでくれた。今回も見えざる神の手が新しいデザイナーを連れて来てくれた様だと頷いた。しかし私が掴んでしまったのは悪魔の手だった。この悪魔によってこの時背中を押してくれた大切な妻も失うことになる。

 新しいデザイナーの採用を決めた翌日に日本精密印刷の川瀬部長に新商品の空気清浄機について説明に行き、黙っているのも良くないと思い、説明の後にこれを機に新しいデザイナーを制作体制に入れたいと話すと、あからさまに嫌な顔をされてしまった。現在付き合っているデザイン事務所のどこが良くないのかを聞かせてほしいと迫られたので、良くないところは無く、新製品は新しいテイストのデザインで行きたいと説明すると、今夜時間はあるかと訊かれた。夜は空いていると応えると、北新地のホテルのロビーで午後七時に待ち合わせと言われた。今夜はいつもの接待ではなさそうである。
 川瀬部長になんと説明したものかと考えながら会社に帰って宣伝助成部のドアを開けると、篠原が私の席に座って新しいデザイナーの作品集を見ていた。篠原は私の顔をみるや「なんやこれ」と不審な表情で訊いてきた。
「新製品の宣伝助成物は新しいデザインテイストを採り入れてみようと思ってね。」と応えると、「我が社のターゲットをもう一度確認してみることをお勧めする」と言い捨てて作品集を放り出して部屋を出て行ってしまった。ターゲットつまり顧客層は身近な下町の消費者だ、一般の電気店は中年層、家電量販と大型スーパーはヤング層。彼らの嗜好は少し進んだ人の真似をする人の真似を好む大多数の人々。つまり篠原はこのデザインテイストはうちのターゲットには進みすぎていると言いたいのか。いやそんなはずはない、今までのデザインテイストは残しつつ、ポスターや最近始めた新聞広告分野で採用してみたいと思った。そして、今夜はそういう風に川瀬部長に説明しようと決めた。
 約束の時間に待ち合わせ場所に行くと、すでに川瀬部長は来ていた。いつものように食事からかと思ったらいきなりバーに連れていかれた。地下にある静かなバーには他に客はおらず、じっくり話せる雰囲気だった。川瀬部長はブランディーを私は空腹だったのでビールを頼んだ。オーダーしたものが前に置かれても川瀬部長は黙っていて間が持たなくなって私が話を切り出した。今日のお昼に話したかったのは今までのデザインテイストは残しつつ、ポスターや最近始めた広告分野で採用してみたいのだと伝えた。川瀬部長は笑みを含ませて、竹田さんは今回の様に初めてのクリエイターとお付き合いしたことはあるのかと訊いてきた。勿論制作体制を作っているので無いと応えると、だから困るのだと川瀬部長は言った。今回は竹田さんの独断ですよねと確認したうえで、広告や宣伝助成物の制作はチームプレイであり、現在の制作体制のクリエイターが新しいクリエイターを理解できているのなら問題はない。しかし誰も知らない新しい人を連れて来て入れてくれと言われても、制作の現場で指揮やサポートする人は新しい人を理解してない。これでは仕事のしようがないからクリエイティビティは著しく後退するということだった。新しいクリエイターがご要望ならそのクリエイターを中心に私が新製品向けの新たな制作チームを作るべきだと指摘された。それができるのなら新しいクリエイターを採用することは良いことだと締めくくった。
 「私ども日本精密印刷は印刷クリエイター印刷は従来通りの品質を保ちますが、デザイン表現の品質は竹田さんが十分管理してください。」そう言ってから川瀬部長はお客様に不躾な話をしてしまったことを詫びて勘定を済ませて店から出て行った。

 昼に篠原にあんな風に言われたので、このことを彼には相談のしようも無くどうするべきか悩んで北新地をふらふら歩いていると、広告代理店の深見さんに出くわした。深見さんに食事は済んだのかと訊かれたので、まだだと応えると肘をつかまれて小料理屋に連れていかれた。北新地にしては庶民的な雰囲気の店で、価格が安いからか随分にぎわっている。テーブルを希望したがカウンターしか空いてないということで深見さんと並んで食事をしながら飲むことになった。それぞれがビールと料理を二品頼んで軽い乾杯をして飲み始めたが、紹介してもらったデザイナーのこと以外に話題は無く、深見さんは早速採否を尋ねてきた。新製品のポスターと媒体広告で使ってみようと考えていると応えると、意外だったようでとても嬉しそうに礼を言われた。その後に制作体制を作っている印刷会社の部長に注意されたことを話すと、深見さんは「やっぱりね」と言って笑った。私はしてはいけないことをしたのかと訊いてみたかったが飲み込んだ。深見さんは「あのデザイナーは使えますよ」と胸を張り、印刷会社が気に入らないと言うのならそちらも替えてしまいましょうというので、それはできないと断った。

 新商品の空気清浄機は篠原が販路拡大に取り組んだ急拡大を続ける安売り量販家電店でよく売れ、またスーパーマーケットでもよく売れた。妻が背中を押してくれて制作した新しいデザイナーの手による新商品のポスターは、初めて女性タレントを使ったものだった。コピーは新デザイナーが所属するデザイン事務所の若いコピーライターが書いたものを、家で妻が直してくれた。直したというよりほとんどやり直しだった。このポスターは若い人が集まるスーパーや家電量販店からの引き合いが多く、客が黙って持って帰るという情報ももたらされた。私は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。新しいデザイナーの所属するデザイン事務所の社長は、評判を聞きつけてポスター以外の宣伝助成物も担当させて欲しいと営業をかけてきた。制作体制は替えず暫くこのままと返事したが、本音では自分の選んだデザイナーでもっとたくさんの広告物を作りたいと願っていた。見えざる神の手が必ずその時を連れてきてくれるという自信があった。しかし見えざる神はではなく悪魔はんとんでもないものを運んできた。

 新しいデザイナーの所属するデザイン事務所の社長の多田は大手広告代理店の営業出身で、実弾営業で有名な人だった。娘が来年小学校に上がるという情報をどこからか聞きだして、ピンクの高級ランドセルを送りつけてきた。妻は貰わない方が良いと心配したが娘がひどく気に入ってしまったので返せなくなってしまった。別の用事のついでにランドセルの礼とこれ以上の気遣いは要らないと伝えようと思い、心斎橋にある多田のデザイン事務所を訪問した。それが間違いの始まりだった。多田は私の訪問を喜び挨拶も早々に事務所近くのイタリアンレストランに私を連れて行った。ビールに始まりワインのボトルを飲み干したところで日が暮れた。「一度会社に戻らないといけないので失礼する。」私が切り出すと、「あんな陸の孤島へ、日の暮れた今から帰るんですか?」と多田に諭された。
 それもそうだと思い直してもう少しお世話になることにした。その後、多田はどこかへ電話をして「行きましょう」と私を店から連れ出した。店を出るとネオンがきらめく時間になっていたが、空気が北新地とは違い濃密な感じだった。その印象を多田に伝えると、「これがミナミの空気ですよ。」と低い声で微笑まれた。
多田に導かれるままに大きな中華料理店に入って、ミナミでしか食べられない皮が卵で出来ている春巻きが美味しいと勧められた。日が高いうちから呑んでいたので空腹感は無く、春巻きと紹興酒を頼んで待っていると、とても奇麗な女性二人が笑顔を振りまきながら多田に向かって歩み寄ってきた。
女性達は多田に挨拶すると円卓に同席し自己紹介した。この人たちを多田が呼んだことは話しぶりで分かった。女性たちは好みの料理を注文し食事を始めた。私は紹興酒を呑みながら女性たちの質問にいろいろ答えていた。そして時間が八時近くになると、女性達はそれぞれ多田と私の腕を取って彼女らが所属するお店に連れていった。日本精密印刷の川瀬さんの連れて行ってくれるラウンジの様なとこだろうと思ってついて行くと、入り口には クラブ蘭と書いてあり、ワンフロア全部がお店だった。そこで多田はウイスキーとブランデ―の二本を私の名前でキープして、ここは私の庭ですからいつでも使ってくださいと言った。酔っていたのと接待が好きな私は多田の成すがまま状態で、その後数時間お酒と美女の熱烈接待を受けた。隣に座った里咲というホステスが私の口座でいいですかと訊いてきたので訳も分からずハイと応えたら、多田が割って入ってこの人の支払いは今後全部うちの会社が持つからと怒りモードで宣言した。携帯電話の番号を教えてくれと言われて、持ってないと応えると、里咲は名刺に自分の携帯電話の番号を書いてよこした。名刺は小ぶりでやはり角が丸かった。
 これ以上呑むと我を忘れると思ったので失礼させてくれと多田に告げると、今日はありがとうございましたと礼を言われた。礼を言うのはこちらなのだがまあいいかと思って店を出た。店を出たらタクシーが待っていて里咲に押しこまれた。タクシーに乗る際に里咲に明日電話してくれと小声で言われた。タクシーに乗って時間を確認したら既に午前零時近かった。
 翌朝起きても二日酔いは無かった。布団を出て顔を洗っていると妻が、「昨日は楽しそうな場所に行ったんやね。」と里咲の名刺をひらひらさせた。鏡越しに正直に事情を話すと「あっそう、ほどほどにね」と言って名刺をビリビリに破かれた。別に破かれても問題はないと思ったが里咲の携帯電話番号が書いてあったことが少し引っかかった。

 その日は特に大きな仕事は無く定時で帰れるなと思って帰宅準備を始めると宣伝助成部の直通電話が鳴った。この直通電話番号は部員と名刺交換した人しか知らないので、外注スタッフからの緊急事態の連絡の場合が多い。おそるおそるアシスタントの女性が出た。そして部長お電話ですと私に回ってきた。恐る恐るデスクの電話の受話器を取ると昨夜の里咲だった。里咲の名刺は今朝妻に破棄されたが、里咲は私の名刺を獲得していたのだ。「昨日はありがとうございました。」と来店の礼の電話だった。
そして「今日はどうしていらっしゃいますか?」と訊いてきた。今日は仕事が早く終わるので家に帰ると応えると、難波に安くておいしい焼き肉屋さんがあるからご一緒しませんかと言われ、一度は断ったがまだ小遣いが残っていると思い難波にある高層ホテルのロビーで待ち合わすことになった。うまく出会えて焼肉を食べていると多田が例のデザイナーを伴って店に入ってきた。多田は偶然だと言い張ったが、そんなはずはなかった。里咲に本当に偶然かと質すと、「そんなことどうでもいいやん」と鼻で笑われた。新しいデザイナーに里咲と食事をしているところを見られて、ばつが悪かったがニヤニヤしてごまかした。
 焼き肉屋の支払いは、当然という顔で多田が支払った。さすがに多田もデザイナーを連れているからかクラブ蘭までは付いて来なかった。一人でクラブに入るのは初めてだった。里咲の他に二人のホステスが同席した。その夜も前夜同様のかなり濃厚な接待を受け満足して支払いもサインもせずにタクシーチケットを貰ってタクシーで帰った。それからは週に何度か打ち合わせと称して多田に会うようになり、里咲との連絡のために携帯電話を内緒で買った。「快適からはのがれられない、戻れない。そしてすべては見えざる神のもたらすもの・・。」と嘯いて罪悪感を消していた。

 最初に多田の事務所を訪問してから一年ほどで、クラウン電工の広告物制作の四十%を多田の事務所が担当するようになっていた。多田の事務所のデザインは旧制作チームに引けは取らないのだがコピーライティングが目も当てられない状態だった。弱い部分は所属するコアに内緒で妻が引き受けてくれていた。多田は宣伝助成物の制作の度に奥さんのアルバイト代と称して現金を私に渡すようになっていた。勿論受け取った現金のほとんどは妻ではなく里咲との遊興に使ってしまっていた。
 その頃になると私も図々しくなり、北新地にも多田を連れて行き支払わせるようなことも始めていた。多田はうちの表現コンセプト「いつも傍に」を唱えながらどこへでも一緒に着いて来た。クラウン電工の印刷物はすべて日本精密印刷という大方針は変わっていなかったので、多田も川瀬部長との面識ができていた。私と川瀬部長との北新地での飲食も多田を伴って行き支払わせたりもしていたが、遂には私が無断で多田のサインをするようになっていた。それでも多田は従順に私の仕事をこなし、黙って支払いをしてくれていた。
 多田には「快適は逆戻りはしない一方通行や、一度快適を知ると更に快適を求めることになる。私は常に龍宮城を求めているんだ、さあ今夜も竜宮城へ行きましょう」と口説いていた。多田は「玉手箱は開けないようにしてくださいね。誰かに開けられない様に注意もお忘れなく」と返したので、多田にとっては私が見えざる神のはずなのに何という事を言うと思い、頭にきて怒鳴り散らしたことを覚えている。私は狂ってしまっていた様だ。

 私は会社の金を横領していないし、会社に迷惑をかけていない。多田には仕事を回すから不満はないと高を括って平気でいたある日、社長室に呼び出された。
社長席の前に立つと「お前、最近何にしてるんや。噂は耳にしてたけどこのままやったら詐欺で訴えられるぞ。」と社長は低い声でそう言った。
いきなり何のことかわからず、「詐欺行為はしてませんが・・。」と応えると、「ほなこれはなんや」と私が多田の名前を勝手にサインした店の請求書を見せられ、「ここにサインしたのは多田さんやないな、お前やな」と詰め寄ってきた。応えられずに俯いていると、
「さっきまで政治団体の会長とか言う人がここに面会に来てたわ。多田さんがここにある請求書の店の支払いができんようなっててな、その店のママが知り合いの会長さんに回収してもらおうと思て裏事情を話したらしいわ。それでさっきここへ来はって『クラウン電工のような有名な会社の社員がこんなことするんかって。会社の周りを街宣車で囲んで追及したろか。』ってすごんで言うてはったわ」と社長はゆっくりと話した。
「それが嫌やったらこの多田言う人に建て替えさせた金をかえしやて。でもこれは会社に関係ないことやからね。竹田君、君が自分で処理しなさい。弁護士やったら紹介したる。」と社長は淡々と話した。
「君の大事な玉手箱のふたは可愛い可愛い多田さんが開けてしもたみたいやな。もう龍宮城には帰れない、前居た家も無くなった・・でも可愛そうやとは思わんよ。」
 私は本当に白髪の老爺になったかのように言葉も失いよろよろと立ちすくんでいると、
「あ、それから明日から君は、千葉工場第二倉庫の保安課に転属にするから。これは同期の篠原常務の温情やということを肝に銘じておきなさい。」「出ていけカス」と社長は怒気を込めて言い捨てて社長室のドアを指さした。

 

「竹田さん、意識が戻りましたね。」と話しかけてくる防護シールド越しの作り笑顔に向かって「私は生きてるのか」と尋ねた。
「もちろん、生きてますよ、今先生が来ますから。」といって警報音を止めた。
「私は、流行り病にかかってここにいるのか」と尋ねると、「はいそうです。」とあっけなく言って去っていった。覚醒はしても快適感は残っていた。体は楽だが、心が締め付けられる。このまま治る可能性は低いと思う。ならばせめて・・いや、この病気は誰にも会えない。あのコメディアンがそうだったじゃないか。感情が落ち着き始めると冷静な思考が蘇り、なぜこの病になったのかを考える。
悪魔のもたらした快適が忘れられなくて、無い金をはたいて場末の龍宮城を求めて通ったからだ。あの清潔とは言えない場所での場末ならではの濃厚接待がせめてもの心の癒しだった。あそこで死病が憑りついたのだ。また同じことをして身が滅びそうになっている。本当に一度知った快適からは逃れられず元へは戻れない。戻れない先にあるものは。玉手箱を開けてしまった爺よろしく鶴になって一人で空を飛ぶしかない・・・ずっと一人で、これも見えざる神の手の導き。
 そこまで考えて、快適の反対語はという遠い昔に貰った宿題を思い出した。今なら、今の私なら答えられる、腑に落ちる宿題の答えが見つかったと心の中で大声を出したかった。「社長わかりました。篠原君こんなところまで落ちてやっとわかりました。『快適』の反対語は『寂しい』です。」

 終 


#創作大賞2023

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