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「龍宮の遣い」第1話 

あらすじ
大阪万博の2年後、自分の人生は見えざる神の手によってもたらされると強く信じて美術大学を卒業した竹田。就職先に選んだのは「空調機器で日本人を快適にする」を社是にするクラウン電工という大阪の中小企業。入社面接で社長から「快適の反対語は?」と言う宿題が出される。自分では答えを出せないまま「反対語は無い」という同期入社の社長の息子から借りた答えでやり過ごす。急激なエアコンの普及に伴って企業は拡大し竹田は宣伝部長まで上り詰める。出世に伴い酒色に溺れ、業者へのたかり行為で千葉の倉庫の保安係に左遷される。折しも流行り病に罹患し生死をさまよい、そこまで沈んでやっと竹田は宿題の答えを得ることができる。

「龍宮の遣い  第一話」
 意識が幽かに戻ってからずっと重くのしかかっていた息苦しさが、太腿に針を刺したような痛みが走った後数分で嘘のように遠のいた。何か特別な処置をされたか、あるいは特別な薬でも使われたか。訪れた今まで体験したことのない心地よさに体を動かすことも、目を開けることすらできない。疑うこともなく快適の闇に浸り滑り落ちて行く。落ちて行きながらも脳の真面な部分が、この状態に至るまでのいきさつを受け入れねばと残っている記憶を辿る。この行為はまだ私に真面な部分が残っているからだろうか、それとも単に人間の本能なのだろうか。
 霧のかかったような映像が眼球の奥深くに蘇る。風邪をこじらせて咳が止まらず、薬を買いに入ったドラッグストアで、激しく咳込んで蹲った所で映像は途切れてしまう。何度か繰り返してみるが同じ。それ以外はいくら記憶を掘っても耳の奥に残っている救急車のサイレンの音ぐらいしか見つからない。おそらく激しく咳込み、酸欠で卒倒して救急車で病院に運ばれたのだろう。
 ここへ運ばれてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。持っていた財布に運転免許証が入っていたはずだから、私のベーシックなデータは既に取得されているはずだ。幽かに意識が戻ったのは、医療スタッフが意識確認のために名前を呼び続けたからだろう。いきさつを突き止めようとする欲求が快適に圧し潰されてしまうと、古ぼけた映像が浮かび消える。私は抱かれているのだろう見上げた若い母の顔と覗き込む若い父の顔。次は衣桁に吊られた七五三参りの着物、小学校の入学式。ほのぼのした夢の中で浮遊している私に疑念が閃めき一瞬で私の意識を支配した。
 生まれた疑念は、蕩ける様な私を快適の酩酊から引きずり出して、頭の中にまとわりついた霧を一瞬で払いのけ冴えをもたらした。
もしかして、今私に訪れでいるのは子供の頃から何度となくメディアで見聞きした臨死ではないのか。快適と記憶のフラッシュバックは臨死体験者の証言にあったことを覚えている。ということはもうじき私に死が訪れる。死ぬ理由はなんだ。
もしかして、私は数日前にワイドショーが報じた、新種ウィルスによる肺炎で急逝したコメディアンと同じ状態ではないのか。卒倒するほどの咳込みは新型ウィルス性の肺炎が原因なのか。新種のウィルスは高齢者には必ず死をもたらすと言うではないか。
「もしかして」、今目を開けたら私はベッドで横たわる私を天井から見下ろすことになるかもしれない。そして臨死証言通りだとすると自分を見下ろした後、更に穏やかで幸せな気持ちになって光に包まれる。ここまでは生還した人の証言なのでその先はどうなるのかは分からない。
 「死ぬのは怖くない、今死にたくないだけだ。」と無頼を気取って、だらけた一人暮らしを続けてきた七十面が、何のことはない死ぬのが怖くて目を開けることができない。目を開けてもし私が私を見下ろしていたらと思うと、全身に力が入り震えはじた、脈拍が上がり全身から汗が吹き出す。脈拍数が急上昇したからか、耳の後ろで耳障りな警告音が急を告げている。怖くなかったはずの死が何故こんなにも怖いのか、臨死証言のその先がどうなるか分からないからか。死を受け入れられない動物としての本能なのかもしれない。いや年老いた獣は死を安らかに受け入れるという話を聞いたことがある。私は獣ではないが年老いている。
 目を固く閉じて全身汗まみれで踏ん張っている私が私に問いかける。
「ちょっと待て、私は本当に市が怖いのか」 
都会の隅の時代遅れの町に一人で生きている。蓄えは殆どない、財産など有るはずがない。悲しいかな今は友人といえる人も女もいない、暇を埋め合わせる知り合いは同じ町に巣くう同じような目つきの奴らだけ。つまり失う物は何もない・・はず。今から死ぬに当たって激しい肉体的な苦痛はない、むしろ快適の中に居る。この快適は後戻りできない快適だ。ということは死とは目覚めのない眠りに落ちる様なもので恐れる理由は無いのではないか。「何故なんだ。なんで目が開けられない。」
もし新種の流行り病ならあのコメディアンの様に感染防止のための死体袋に入れられて人知れず荼毘に付される。
 「人知れず一人で死ぬのが怖いのか。」
しかし今私は人知れず生きているではないか。人知れず生きることには耐えられて、死ぬことには耐え難いのか。
目を固く閉じているうちに、瞼の裏側を無数の鮮やかな光が暴れまわりはじめる。その光の合間に様々なイメージが浮かび上がる。それはさっき頭に浮かんだ古ぼけた思い出の映像とは違う。それらは手を伸ばせば触れられるほどはっきりした、幼い時に別れた息子と娘そしてかつての妻の姿。同時に耳の奥で三十年前の彼らの声が鮮やかに蘇る。はるか昔に絶縁した彼らが、忘れてしまったはずの彼らが蘇るのだ。これこそが臨死体験の証言にあった記憶のフラッシュバックなのだろうか。今は孤独の私にも、三十年前まではかけがえのない家族がいて、それなりにみんな幸せに暮らしていた・・はずだ。彼らは私がこの状態だということを知っているのだろうかと考えてしまう。この期に及んで仕方なしと言い聞かせて諦めた家族をまさぐる私の心は、死に臨んで幸せを教えてくれているのだろうか。頬を涙が伝うのが分かる。
そしていつものように見えざるな何かが気付きをもたらした。私は怖いのではなく寂しいのだ。私は寂しい死が嫌なのかもしれない。死ぬ時まで人知れずというのは、受け入れがたいほど寂しいのかもしれない。よく世間の人が言う「死ぬまでわからない」というのはこういうことなのか。
 「竹田さん、竹田さん」と耳元で呼びかける声に固く閉じた瞼を不覚にも開けてしまった。目に入ったのはベッドに横たわる私の姿ではなく、私をのぞき込む防護シールド越しの無理やりの笑顔だった。警告音を聞いて駆け付けた医療スタッフなのだろう。全身の力が緩むが快適は続いている。やはり私は新種のウィルスに感染した高齢の重篤患者のようだ。

 万国博覧会の準備に浮かれ、湿った歌謡曲よりも乾燥した洋楽を世間が好み始めた頃、私は地元の美術大学のデザイン学科に現役で入学した。私の祖父は地場伝統産業として名高い陶器の絵付け職人で、祖父からの遺伝かそれとも祖父の真似をして絵を描くのを祖父が褒めてくれたからか、私は小学校、中学、高校と図画や美術の成績が飛びぬけて良かった。県や市の絵画コンクールの常連でたくさんの賞を受賞していた。私が美術大学を受験したのは、そのような状況を見た進路指導の教師が美術大学を勧めたからだ。今から思えば、ある学科の成績が良いからといってその延長線上の学校や学部を勧める教師もどうかと思うが、ホイホイと勧められるままに進学する私も私だと思う。
 学校の授業以外で絵の勉強をしたことのない私は、幼い頃は絵の上手いのは、天が力を与えた能力だと思っていた。そして大学生になる頃には、異性の好みや食べ物の好みと同じで、絵以外のことにすべてについて見えざる神の手によってプレゼントされた物だと考える様になっていた。もちろん必要に駆られれば勉強でもスポーツや様々な練習でも人並みには努力してみるのだが、相当の努力が要ると分かると見えざる神はこれを私にお与えではないと思って諦めてしまっていた。当時大流行したフォークソングも、友人のギターを借りて練習してみたが人並みの努力では演奏できるようにならないことが分かると止めてしまった。ギターだけでは無くそれからというもの楽器という楽器に手を出すことはなかった。もちろん自室でラジカセから流れてくるフォークは好きで聴いていたのだけれど、箒を抱えて歌っている友人の熱狂狂も理解できなかった。
 絵付師の祖父は私が中学生の時に肺を患って他界してしまった。一人息子の父は祖父と仲が悪くて、絵付師を継ぐことはなく京都の私立大学を卒業して地元に帰って役所勤めをしていた。母とは職場で知り合って結婚した様だ。おかげで長年続いた家業も祖父の死と伴に途絶えてしまっていた。このような状況の中で私が祖父の仕事を継ぐということは頭にあるはずもなかった。
 大学の学科選択も、祖父が好んだ日本画や以前コンクールで表彰された水彩画や油彩画を本気で学ぶ美術学科は頭になかった。技術を磨くよりも感性で訴えかける当時世間の関心を集め始めたグラフィックデザインの方が自分向きだと思ったのが選択の理由だった。そして合格した時は、見えざる神の手が私にデザインという才能を与えてくれるのだろうと高を括った。
 ところが入学してみると感性勝負どころか技術向上のためのかなりの努力と理論学習が必要であることが分かった。ということで人並の努力でまあまあの成績で卒業制作まで通すことにした。当時最先端のデザイン理論は流行の哲学と相まって刺激的で創造意欲を掻き立てたが、見えざる神の手が私に力と技をもたらしてくれることは無かったし、私にとってまあまあというのは性に合う感じで納得していた。
 大学四年になって初めて就職が気になり始めたが、成績の良い同級生が目指す新進気鋭のデザイナーが率いる東京のデザイン事務所などにはまあまあの私は行く気もなかったし、相手が受け入れるとも思っていなかった。それでも齧ったデザイン理論と技術を生かせる就職先をと考えたが思い当たらなかった。指導教授とも心が通じず距離を置いていた私は、いつも下宿を訪ねては煙草をふかして平凡パンチを肴に酒を飲むか、麻雀をしていた友人三人に相談してみた。彼らは当時派手に広告を出していた大手家電メーカーを志望先に選ぶというので私もそれに倣った。もちろん私はその時点で受からなかった時のことは考えていない。見えざる神の手が私に職を与えてくれると真剣に思っていたからだ。友人達は就職先のことを熱心に語っていたが、不思議なことに彼らも受からないとは考えていない様だった。見えざる神の手が頼りの私は彼らにその理由を尋ねることができずに、にやにや笑いあって又酒を飲んでいだ。

 私が大学まで過ごした北陸は、今では東京まで新幹線で片道三時間もあれば到着するのですっかり東京圏になっているが、以前は関西の奥座敷と呼ばれて進学や就職で京都や大阪を目指す人が多かった。私も夏休みに親に連れられて特急雷鳥で大阪の叔父の家を訪ねて従兄弟に会うのを楽しみにしていたが、それほど遠くを訪ねる気分ではなかった。大学生二年の夏休みには、免許を取りたての同級生がデザインの勉強と称して親の車を借りて大阪万博見物に出かけるのというので乗せてもらって見物に行った。時間はかなりかかって相当疲れたが、遠くへ来たという感覚は湧かず会場に着くなり興奮で疲労も忘れたことを覚えている。
 大学四年生の初夏、いよいよ入社試験願書提出となり、関西への親近感からそのころ大阪に数社あった総合家電メーカー全社に願書を出すと友人三人に打ち明けた。すると二人は私が願書を出す企業の内のそれぞれ異なった企業一社に願書を提出の予定で、一人は故郷に帰って美術教員を目指すと打ち明けてくれた。三人は志望先を絞り込んで準備をしているのだろう。私はこの時も見えざる神の手は私に就職すべきは総合電器メーカーで、ふさわしい企業を選んで職につかせてくれると結構本気で考えていた。
 そして秋、入社試験は淡々と進み、私は受験したすべての企業で二次面接まで進んだが次の試験の案内は届かなかった。全社敗退、見えざる神は総合家電メーカーでの宣伝の仕事を私に与えられることはなかった。
 「見えざる神の手は大人になると何もあたえてくれないのか?」とおとぎ話のダメダメ主人公のようなことを考えている自分が少しだけ嫌になった。おそらくそれらの企業へ入社すると楽器が弾けるようになるまでと同じかそれ以上の苦労をしなくてはいけないのだろう、それを見えざる神は知っていて合格させなかったのだろう。
「願書を出したのは超有名総合家電メーカーでまあまあな企業ではない。だから私には合わない。」と、いつもの屁理屈で玉砕の悔しさを中和させてしまった。
 今から思えば私は気楽な田舎者だったのである。あの頃の若者は日本の何もかもが急速に膨らんでいる中で、環境の変化に自分の成長がついていけない小僧世代と言ってもよく、その中でも私は周回遅れのランナーにもかかわらずトップグループで競っていると錯覚している部類に入っていたのだろうと今になって思う。そうしないと圧し潰されそうな表には出せない気持ちを薄々気付いていた。そういう奴が当時の大学というところには沢山いたような気がする。救われたのは世間の空気が乾いていて、景気も良かったことだろう、すぐに考えをころころと変えられた。
 失われた数十年を生きた若い人達は、空気が湿っていて、景気が悪い中、日本が萎むのに順応するように集団を作って、圧し潰されそうになるのをみんなで食い止めているのだろうかと思うことがある。だから奴らはネットワークというものを作るのが上手い。
知恵も力もない若い者には、急な変化について行くのはいつの時代も辛いことで、それぞれの時代で、しらけ、新人類、ゆとり、草食などと冠を付けられるほど同じ特徴を示すのかもしれない。私達の世代は、「しらけ」だったような気がする。一九四五年から日本を必死で立て直した勤勉努力が信条の人々からはそう見えても仕方がないと、この歳になると分かる気がする。でも、本人はしらけているとは微塵も思っていなかった。
 秋になって、友人達に再会すると、一緒に総合家電メーカーを受けた二人は、それぞれ意中の会社から内定を貰っていた。そこで私はやっと、自分がニヤニヤ笑って隠さずにはいられないぐらい意思が朧気だったことが分かった。二人の友人は用意周到で合格の自信があったから就職の相談をした時、受からなかった時のことは考えて無いように見えたのだ。もしかしたら指導教員の紹介であの時既に内々定を貰っていたのかもしれない。おそらく美術教員を目指したもう一人の友人も教員試験に合格することを指導教員の判定や模擬試験などで確信しているのだろう。みんな楽器の演奏技術を身につけるように、就職に必死で立ち向かっていたに違いない。しかし、彼らがそのような努力していたのかと尋ねることができずに、やはり私はニヤニヤしていた。
「竹田はどこかから内定をもらったの?」。
友人の一人がすまなそうに、それでも私が内定など何処の企業からも貰っていないだろうという、かなり確信をもった眼差しで訊いてきた。そりゃあそうだろう、就職のことを先に尋ねたのは私の方で、私が自分の力も知らずに彼らと同じように超難関企業にアタックして、玉砕してることを彼は知っているのだから当然湧いてくる疑問だろう。
彼は良い人だなと思う。私なら相手が言い出すまで訊かない。きっと私を心配してくれているのだ。
「うん、一社内定を貰ってて、そこへ行こうと思ってる。」と応えることができたのは、やはり見えざる神のせいだったのだろうか。神が私に嘘を吐かせるわけが無い。

 就職活動玉砕の悔しさは理屈で中和させたものの、腐った気分はなかなか晴れなかった。二次面接で敗退したせいで就職試験用にアルバイトで稼いだ大阪までの往復交通費がかなり余っているのを思いつき、一泊二日で大阪に行って新喜劇でも観て気晴らしすることにした。昼前に大阪駅について地元では食べられない豪華な洋食でお昼を済ませた。梅田花月で吉本新喜劇を観て大笑いして劇場を出るとすることもなくなってしまった。大笑いをしたせいで腐った気分は随分晴れて明日への希望のようなものを探す気分になって来ていた。宿に向かうのも早すぎるので散歩でもしながらこれからのことを考えてみるかと思い、夕暮れ前の大阪の街を当てもなくぶらぶら歩いていると、大学卒業者会社説明会の立て看板が出ている小ぶりで古めのビルに出くわした。
 入社説明会という文字を見て興味が湧くと同時に、就職試験に全て落ちて焦っている自分に改めて気が付いた。やはり悔しさやその後の惨めさは理屈では中和できないのか。夕暮れ間近で既に説明会は終わっているだろうと思いきや、看板には一日に五回の説明会があり、最終回は後十分で始まるとの書いてあった。最終回まで後十分という割には入り口や周りにはそれらしい学生の姿はない。自分の服装はと言うとポロシャツにジーパン、これでは入社説明会に入れる服装ではないし履歴書も用意してない。真面目に就職活動をしていない私には看板にあるクラウン電工という社名に聞き覚えもなかった。ここは私には縁がないことは分かった気がして踵をかえしえて歩き出した時、背後から肩をつかまれて呼び止められた。
「君 入社説明会に来た人とちゃうか?」
「いえ・・」と振り向いたら、満面に笑みを湛えた恵比須顔が目の前にあった。恵比須顔は不思議な魔力で、私がここにいる事情を話させて説明会場へと促した。
 説明会会場はビルの最上階(といっても四階なのだが)で、中途半端に広くて隅には商品梱包用の段ボールが置いてある部屋だった。恵比須顔と私の二人きりの説明会は、部屋の中央に置かれた会議机を挟んで始まった。会社説明会には付き物のアンケートに記入しながら顔を上げると恵比須顔は腕組みをして口をへの字に結んで目を閉じていた。
「すみません、会社案内をいただけますか。」とお願いしてみることにしたが、恵比須顔は目を開けてさっきと同じ満面の笑みに戻って、
「パンフレットか今制作中やわ。それより吉本新喜劇は面白かったか? 今日は君で3人目や。服装で判断しないから大丈夫。履歴書は次回の面接の時で大丈夫。美術大学か社長が喜ぶわ、大丈夫。訊きたいことがあったら何でも訊いて・・・。」と不躾で遠慮のない態度に私はあきれてしまって思考が一瞬停止した。
 何でも訊いてくれと言われても、まじめに就職活動に取り組んでいない私には待遇以外に聞くことは無く、意を決して訊いてみると、
「うちは中小企業やから門真の総合電器メーカーさんのような給料は出せまへんわ。」とそっけない答えが返ってきた。詳しいことは採用面接の時に説明するとのことでお茶を濁されて、その後会社の沿革のようなものを五分ほど聞かされた。
 「今日は大阪に泊まりか?」と恵比須顔に聞かれたので、「はい」と応えると北陸からわざわざ出てくるのは交通費がもったいないということで採用面接は翌日ということになったのだった。

 恵比須顔と握手をして約二十分の入社説明会は終わった。気圧され通しだったがそれでも何故か気分は高揚していた。さっそく梅田の百貨店で履歴書を買い求め、文具売り場の店員に紹介してもらった写真屋で証明写真を撮って、宿に入って履歴書を丁寧に書きあげた。書き上げたところで忘れていた空腹が訪れ、素泊まりのため宿の近くの深夜にテレビでコマーシャルを見たことがある居酒屋で食事がてら今日の邂逅を振り返った。
 今日、入社説明を受けたクラウン電工は恵比須顔の言葉を借りると駆け出しの電器メーカーということだ。電器メーカーといっても、私が玉砕したような総合電器メーカーではなく、早いもの好きの小金持ちが家につけ始めたルームクーラーなどの空調機器の専門メーカーだった。駆け出しとは言うものの、在阪の総合電器メーカーよりは新しいというだけで、もとは戦闘機エンジンの冷却部品を陸軍に納入していた会社の下請けの町工場だったようだ。先代の息子の現社長は京都帝大を出た秀才で、納入先のメーカーで空調機の勉強をして家に戻ったエンジニア。これからは家庭でも冷房する時代が来ると意気揚々と商品開発に精を出しているとのことだった。
 社員は本社にエンジニアが十人ぐらいと営業員が二十人ぐらい、総務と経理で四人、港区にある工場には社員と臨時工で二十人ぐらいという若い中小企業だ。だから給料はかなり安いと推察できる。大阪に一人で出てきて生活できるだけの給料がもらえるのか不安になったが、「今は中小企業やけど、いつか大企業になって技術の力で人々に幸せになって貰うことが、うちの会社の夢なんや。」と目を輝かせる恵比須顔を見ていると、熱く生真面目な思いが伝わって来て、待遇は辛抱しても良いかなと思ってしまう自分がいた。
 景気の良いご時世なのでこの規模の企業への就職を希望する大卒者は少なく、今日は文系の大卒対象の入社説明会だったらしいのだが、私を入れて三人しか来なかったようだった。広い会議室で来るかどうかわからない就職希望者を待っていたのだろう、私を見つけて満面の笑みが湧いてくるのも分かる気がした。来年入社予定の技術系社員は高専か工業高校の卒業見込みの者しか応募が無く、技術系の大卒社員は全社あげても社長だけだそうだ。文系の来年入社予定者は縁故入社の私立大学卒業見込み者が一人だけ。在籍する社員は営業も総務も経理も商業高校卒がほとんどで大卒は恵比須顔を含めて数名らしい。大卒社員は入社しても好待遇を求めてすぐに退職してしまうことが多いようだった。
 気になっていたのは、私は美術大学卒業で所謂文系ではない、つまり法律も経理も分からないと言うことだ。法律や経理は現場で覚えろと言うことなのか。恵比須顔は美大卒なら社長が喜ぶって言っていた。ということは社内には大手にあるようなデザイン室みたいな部署があるのかどうか、エンジニアの社長はデザイナーの使い方を知っているのかどうかを訊けなかったことが悔やまれた。
後もう一つ訊き忘れた大事なことがある。恵比須顔の名前。普通は会社案内と担当者の名刺をもらえるはずなのにそれもなかった。中小企業とはそういう所なのかとも思った。面接が急遽明日に決まったところを見ると、どうせ入社しないだろうと思っているのかもしれない。もしかしたら面接に来ないだろうとも思っているのだろうか。そこまで考えてそれ以上考えるのをやめた。翌日の面接は午前九時と結構早い時間なので早めに宿にひきあげることにした。
居酒屋の勘定が安いのに驚き、安月給でもこんなに食費が安いのなら大阪で一人暮らしができるかもしれないと考えている自分に気づき、既に面接に合格したら入社することを決めかけている自分にニヤニヤしながら宿までの道を歩いた。

 指定された時間の十分前に説明会があったビルを訪ねると、既に会社は始まっていて明朝体の黒文字で社名が記された軽四輪が何台もビルを取り囲むようにエンジンをかけたまま停まっていた。おずおずとビルの中へ入り最初に出会った人に挨拶をした。
「おはようございます。竹田洋志 と申します。 採用面接に参りました。」
「面接か・・一階は営業部やから、二階の総務へ行き」と教えてくれた。階段を駆け上がって、二階入り口の両開きのドアの前で一度深呼吸をし、勢いよくドアを押し開けた。入口のカウンターの前で再度元気よく挨拶すると、カウンターの中の女性社員三人が顔を見合わせ少し笑った。三人の中の一番若い人がこちらでお待ちくださいと、部屋の奥の応接席に案内され、少し間をおいて別の女性がお茶を持ってきてくれた。そして別の女性が内戦電話で、私が面接に来たことを誰かに丁寧な言葉づかいで伝える声が聞こえた。あの丁寧さは相当に偉い人に連絡しているのだろう、誰が面接に来るのか、昨日の恵比須顔ではなくもっと偉い人なのか。
 不安になりながら待たされること約十五分。スリッパで階段を駆け上がる音と苦しそうな息使いが近づいて来て、ドアが勢いよく開いた。昨日の恵比須顔がやはり今日も恵比須顔でスリッパをパタパタ響かせながら近寄ってきた。私が立ち上がって丁寧に会釈すると
「来てくれたんか・・・ありがとう、ありがとう。」と来ないと思っていたような口ぶりで私の両肩をつかんだ。この人は偉い人なのだ。
「本日は、面接の機会をいただきありがとうございます。昨日会社説明会に参加いたしました竹田 洋志です。よろしくお願いいたします。」
総合電器メーカーの採用試験のために練習した挨拶を型通りに詰まることなく告げると、恵比須顔は嬉しそうに
「そうか、竹田君って言うんか、昨日訊き忘れてたわ・・ごめん、ごめん。」
「わしの名前は、駿河 幸太郎や・・これも昨日言うの忘れてるかな?」
「ええ・・まあ・・・」昨日私はきちんと名乗って大学名も告げて挨拶したはずで、会社説明会参加者アンケートにも名前は記入したはずだった。もしや昨日の説明会の参加者が三人というのは嘘で、私一人だったのではないだろうか。
 きっと偉い人が主催の会社説明会を誰一人来ない状況にするわけにはいかず無理やり私を引っ張り込んだのではないのか。とんとん拍子できまった面接の日程も、来るとは思っていなかったから適当に決められたのかもしれない。きっとこの人は私が今日面接に来るとは思っていなかった、だからこんなに待たされたのだ。この喜び様が何よりの証拠。この人はきっと何度も何度も期待を寄せた就職活動の大学生にすっぽかされて来たのだろう。大阪の大学生には企業を規模や待遇で判断して約束も反故にする人でなしが多いのだろうか。自分の言葉を信じで面接にやってきた私をどう感じてくれているのだろか。いろんな考えが頭の中を去来した。
 「名刺をいただけませんでしょうか。会社の住所や電話番号も存じませんので。」とお願いっすると。
「おお・・そうやな・・・ごめん、ごめん。」
貰った名刺には、取締役営業部長 駿河 幸太郎 とあった。
「営業部長さんですか・・・。」偉いさんだ。
「似合わん肩書かいな、ははは・・・まあ、座って。もうすぐ社長が三階の開発室から降りてくるからちょっと待っててや。社長はここのとこ泊まり込みで新商品開発中ですわ。お客さんに販売する営業部もどんなんが出来上がるか楽しみでな。」
 恵比須顔の駿河さんは、総務の女性にお茶の入れ替えを頼んだ。すると最初に案内してくれた若い女性が緑のお茶を恭しく運んできてくれた。最初に出て来た黄色いお茶は待っている間に飲んでしまい、緊張で喉がくっつきそうだったのでありがたかった。頼りなさそうな恵比須顔だが人を見る眼力はなかなかなものだと感心した。つまり実は鋭い人なのだ、だから偉くなったのだろう。叩き上げとはこういうことか。

 更に恵比須顔の駿河さんと待たされること二十分。静かにドアが開いてぎょろ目で頬がこけた蟷螂を思わせる顔の五十歳半ばの男性が、私ではなく駿河さんに向かって足早にで近づいてきた。
「駿河君、困るやないか、面接やったら昨日のうちに言うといてくれんと・・いつも言うてるように社員は会社の宝やで、ましてや入社前の学生さんは大事なお客さんかもしれへん・・。」
「すみません・・お伝えするの忘れてました。」と深々と頭を下げた駿河部長からは、さっきまでの恵比須顔は消えて、泣いた赤鬼とでも表現したら良い様な表情で俯いたまま上目遣いで社長と私を交互に見ている。
 やっぱり駿河さんは私が面接に来ないと思ってたんだ。ということはこの人が社長さん。仕事を途中て止められたのだろうか相当怒っている。私は慌てて立ち上がり深々と礼をしてから型通りの挨拶をした。
「本日は、面接の機会をいただきありがとうございます。昨日会社説明会に参加いたしました竹田洋志です。よろしくお願いいたします。」社長は私に向き直って穏やかに
「社長の篠原です、昨日の会社説明会ということは文系の大学生やね。 学部はどこ。」と訊かれたので
「美術学部 デザイン学科です。」と応えると、「ほほお、それでスーツは来てないのかな。」と笑いながら切り返された。
「いえ そういうわけではなく・・。」と事情を説明すると社長は「そうやったんか」と言って深く頷いた。急な面接は駿河さんに任せて、部屋を出て行きそうだった社長さんの顔から怒りが消えて行き、目はぎょろぎょろしているものの柔和な表情で、私の向いの席に座った。
駿河さんも社長の隣に座りなおす。泣いた赤鬼の駿河さんは消えて恵比須顔に戻っているが、社長と私を交互に見るのはそのままだ。
 社長に促されて私も席についた。いよいよ面接が始まる、総合電器メーカーとは雰囲気が全然違う。この人たちは絵付師の祖父の工房に出入りしていた人々に雰囲気が似ているような気がした。
「私はね、いい製品を開発する自信がある。でも、その良さを人々に伝えることに自信がないのや。製品の良さがお客様に伝わった時それは商品になる。」と、社長はまずは自らの考えを伝えようとしたのか先に口を開いた。
「その伝え方に芸術のセンスやデザインの力が必要やと思う。大手さんはそのことに早く気づいて宣伝部やら、すごい会社は宣伝制作専門の事業部まで創ってはる。にもかかわらずうちには製品のパンフレットもそろってない。あるのは印刷屋さんが作ってくれる商品のチラシと、後はこの駿河君が大手さんの真似して作った文字だけの取扱説明書と製品仕様書だけ。これではあかんことは分けってるんやけどね。君はどう思うかな」
 やはりこの人も駿河さんと同じく熱い思いで挑戦している人なんだと感じて何か応えずにはいられず広告における情報理論を話してみることにした。
「そうですねデザイン表現よりも、まずは社長がおっしゃる伝えたい商品の良さを商品情報と捉えなおして整理する必要があると思います。企業から発信される情報は大きく四種類に分類されます。一つ目は企業思想や商品にかける思い、二つ目は、商品自体の性能などの情報、三つめは実際に使った人の感想やレポート、四つ目は売り場などで直接お客様と交わされる相互情報です。これらを縦軸に採り、情報を届けたい相手を横軸にとって表を作って、まんべんなく情報発信ができているか検証する必要があります。情報を伝えたい相手としては、最終購入者、商品を販売してくれる電気店などの流通業者、そして業界全体が挙げられるのではないでしょうか。」
社長はここまでの話を身を乗り出して黙って聞いていたが、急に立ち上がりあたりを見回して、「なんぞ書くものないか?」と叫び、駿河さんは大急ぎのそぶりで席を立ち、どこからか大きな紙とマジックインキを持って戻ってきた。
「駿河君偉い、よお分かってる。 竹田君、今の表をこの紙に描いてくれへんか。」
息の合った二人の前で私は言われるままにマジックインキをキイキイ言わせながら四×三のマスが並ぶ表を描いた。
「このマスの中にカタログであったり、取り扱い説明書であったり、仕様書であったりを埋めていくと、御社の場合、お客様向けの商品自体の情報しかないことがわかります。」
 玉砕した総合電器メーカーの面接で広告に対する持論を問われ今と同じことを回答したが、面接官はすでにそのようなことは知っているという態度で退屈そうにされた。アメリカ帰りの教授に教わった最新の広告理論であるはずだった。こうして私の話を目を皿のようにして聞いてくれるこの人達の真摯な態度に私の方が感動していた。
「そして、それぞれのマスの中の広告や宣伝助成物の表現は統一感を持たせながら、それぞれの対象と機能に合わせて制作するのが良いと思います。」
話し終わると私の背中は汗でびっしょりだったが、前にいる二人の額にも汗がにじんでいた。
 社長が「なるほどなぁ・・」と唸った後、普通は面接の最初にする質問を投げてきた。「で、竹田君は何でうちの会社を志望してくれたの?」
すると駿河さんが恵比須顔のまま私に目配せしてきた。多分型通りの返事をしてくれと言う意味だろうと思ったが、私も自分と社長を試したくなって正直に答えてみることにした。
「私は、高校で進路を選ぶ時も、大学生活でも、そして就職活動でも、見えざる神の手が私に行くべき道を与えてくれたと思っています。昨日も駿河部長との偶然の出会いから今日ここに来ています。おそらく見えざる神に導かれたのだと思います。」言い終わって駿河さんを見るとほっとしたような、困ったような不思議な恵比須顔になっていた。
「君は心理学を勉強したことがあるんやね。ここへ来たのは、ユングの言うシンクロニシティー、必然の偶然やね。」と社長に微笑みながら問いかけられて私は唾を飲み込んでしまった。
デザイン演習でユングが好んだ曼荼羅をテーマにされたことがあったので、ユングの名前ぐらいは知っていたが、シンクロニシティーとは何なのか全く分からなかった。無理に笑顔を作って「はい」と応えると、駿河さんはすかさず私の目を覗き込んで笑った。駿河さんにはバレてたみたいだ。
「社長はユングについて勉強されたんですか」と訊いてみると、大学時代の友人が熱心に研究している様なので、本を少し読んでみたが技術屋の私の頭では理解できない部分が多くて、投げ出してしまったよ。」と社長は照れた。よかったこれ以上訊かれることは無いと胸を撫で下して、斜め向いに座る駿河さんに目をやると同じようにほっとしている様子だった。
 駿河さんが腕時計を指さし社長に「社長、時間は大丈夫ですか?」と重い口調で尋ねた。おそらくこのまま時間を忘れて話し込んでしまうことを予感したのだろう。社長も駿河さんに頷きで応えて、私に向き直って改まった姿勢になって口を開いた
「来春からうちに来てくれるかな、君の持つ不思議な力がこの会社を君に与えたのやと思うよ。私も君に来てほしい。実は春まで待てないくらいの気持ちなんや。昔から日本の建築は夏を旨にすべしという言葉がある。昔の夏なら住まいの工夫だけで暑さ対策ができたけど、今や団地住まいが増えてるし、車もどんどん増えてる。毎年夏は暑くなってる様な気がする。このままでは夏の暑さはしのげなくなる。だから私は家庭用のクーラーが必要になると思う。大手さんにはできない買い求め易い画期的なクーラーを作って最初は関西そして全国の人に涼しい夏を届けたい。それには君の不思議な力を借りたいと思う。」
「え、初回面接で内定ですか?」私は少したじろいだ。
いくつもの会社から内定通知を貰って就職先を選んでいる友人のやり方を真似て回答は一度家に戻ってから連絡すると伝えて帰ろうかと考えたが、社長の真剣な顔に押されて、というより見えざる神の手に押されて、「わかりました、ありがとうございます」と応えてしまった。
 「では、入社までに分からないことがあったら駿河君に聞いてください。」と言い残して席を立とうとする社長の腕をもって引き留めて、駿河さんが面白いことを言い出した。
「よかった。そしたら社長、私が採用内定の時に『入社までに考えてくるように』って出してもらった宿題を竹田君にも出してみたらどうですやろ」「駿河さん、ええこと思い出してくれた。竹田君、ほな宿題を出すよ、春の入社までに考えて来てください。」宿題という響きに緊張しながら出題を待っている自分は、すっかりこの企業の新入社員であるような心持でいた。そんな自分にニヤニヤしてしまいそうになって、ぐっと奥歯をかみしめてた。だが目はニヤニヤしていたのだろう、鋭い駿河さんがより嬉しそうな顔になった。
 社長の口から出てきた宿題は、「電気技術は世の中にたくさんの製品を作り出した、その中に我が社の取り組むルームクーラーがある、ルームクーラーがあれば蒸し蒸しする大阪の夏も快適に過ごせる。我が社がこれから取り組むのは快適というものかもしれない、さてこの快適という言葉の君が思う反対語はなんですか?」と楽しそうに社長は出題した。
禅問答のような宿題に一休さんのような回答を出してやるつもりで面接を終えて、軽やかな気分で大学生に戻るべく帰りの列車に乗った。列車に乗って気が付いたのはせっかく丁寧に作った履歴書を渡し忘れていることだった。

 私が就職内定を得ていると知った友人達の不思議そうな顔は今でも忘れられない。しかしそこは友人ということで、内定祝いの酒盛りを開いてくれて、内定祝い二十四時間耐久麻雀大会に流れた。
役所勤めの父親には、後期の授業が始まってから夕飯の時に就職内定をもらったことを伝え、内定が出てから調べたクラウン電工の説明をした。父親は芸術家になると言い出さないかと怯えていた様で、企業に就職すると聞いて安心した様だった。地元を愛する母は大阪の企業に勤めることが少し気に入らなかったようだった。
父は給料の安い中小企業に就職することには不満は無い様で、日本がアメリカに次ぐ経済大国になることを予想していて今は中小企業でも必ず大きくなると思ってくれたからなのだと思うようにした。芸術家になるよりも随分ましと思ったからなのかは良く分らないが、実はそれが一番の思いだとも思った。祖父の工芸家としての不安定な暮らしを目の当たりにして来て、役所勤めを選んだ父ならではの感覚だろう。
 就職面接の時にもらった宿題のことは忘れていなかったが、四年の後期は卒業制作が重くのしかかり、こればかりはマアマアの努力では済まされなかった。テーマを見つけてからは私らしくないと思いながらも期限ぎりぎりまで寝る間も惜しんで取り組んだ。こんな時に精いっぱいの力が出せるのも見えざる神の手が、創作のテーマとそれに見合う技量を与えてくれたからなのだろう。シンクロニシティー、必然の偶然というものなのか。打ち込んだ甲斐あって卒業制作の評価は高くてなかなかの成績で卒業できることになった。
保護者や卒業生それに一般の方々を招いて開催される卒業作品展では最高賞として展示して頂いた。卒業作品展を視察に来ていた東京の広告代理店に勤める先輩から連絡が欲しいと声をかけていただいた。思わぬ伏兵を発見と言ったところだろうか。大学四年になって生まれて初めて心血を注ぐという経験をしたことを自分自身がよく分かっている。
「ならばこれからもマアマアは止めて心血注いでみようか。」という思いがこれもまた人生で初めて湧いてきた。大学卒業に至って大きな成果は見えざる神の力だけではもたらされないことがやっと分かった大バカ者だった。普通ならば東京の広告代理店を選ぶのだろうが、なぜか四月から大阪のクラウン電工へ行くことに迷いはなかった。だから失礼ながら先輩へは連絡をしないままだった。

 卒業作品展から四月一日の入社日までは、一月ほどの時間があったので、ほったらかしていたクラウン電工の社長にもらった宿題に取り組むことにした、そしてユングの心理学の本も読んでみようと思った。
 まずは宿題の、「快適の反対語」から取り掛かろうと、大学の図書館へ出かけてみた。後期の講義や演習のスケジュールが終わった学内はひっそりとしていて、誰ともすれ違うことは無かった。図書館のカウンターで反対語を調べたいと相談すると反対語・対義語辞典と言うのがあるので、それで調べることができると教えてもらった。辞書類は書架にあるので自分で探してくれと言われたので場所を教えてもらって書架の谷間を辞書を求めて足早に歩いた。辞書の書架には探し出せるか少し不安になるほどのたくさんの辞書が並んでいる。先ずは日本語の辞書群を探し当て、反対語・対義語辞典を見つけ出す。これだけ辞書があるのに、反対語、対義語辞典は、英和辞典で有名な大手出版社の物が一冊と聞いたことのない出版社の物が二冊しかなかった。図書館には辞書が主人公の童話が書ける程の種類と数が揃っているのに、何故反対語の辞書はこんなに少ないのだろうと言葉の不思議を感じてしまった。宿題の答えは案外簡単に見つかりそうな予感がして、かわいそうな三冊を全部書架から抜き取って閲覧室に向かう。
 席についてまずは大手出版社の一冊では「快適」の反対語を探し出せなかった。権威ある出版社の辞書に載ってないということは、もしかして「快適」の反対語は辞書には無いのかもしれないとう当初の明るい予感を覆す嫌な予感が頭をかすめた。しかしまだ二冊ある、名前を知らない出版社が出している二冊はマニアックな作りできっと載っているはずだと思いなおして「快適」の反対語を探した。やはり二冊目にも掲載は無く、暗い気持ちで三冊目に手を出す。なんと三冊目には「快適」の反対語として載ってたのは「不快」であった。「快適」の反対は「不快」って安直すぎないか。うちの大学に文学部があったら友人に聞いてみるところだが生憎芸術系の単科大学なのでそれも叶わない、不快感溢れる思いで元あった書架に辞書達を返した。
 辞書に書いてあるぐらいだから、間違いはないだろう。ちゃんと答え探しの行動は起こしたのだから良いではないか。突っ込まれたら必死で探したけど見つからなかったって答えようと無理やり考えをまとめたら、急に図書館が頼りなく思えてきて離れたくなった。帰りにユングに関する本を探して借りて帰ろうと思っていたが取りやめて、そそくさと図書館を後にした。仲の良かった友人はみんな下宿生で卒業後は郷里に帰ってしまっていて、この状況を相談する優秀な友人達もいなくなっていた。もやもやした気持ちは晴れることは無く、しかしもやもやしているだけで、真剣に立ち向かうこともなくクラウン電工の入社日を迎えた。もちろんユングも読んでいない。
「マアマアは止めたんじゃなかったのか」と耳の奥で見えざる神の声が聞こえた様な気がした。

第2話 https://note.com/mucci3104/n/n5ac52b9e04c4


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