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少年街道まっしぐらの花の女子高時代

1.高校の制服とアルバイト、そしてバスケの再開

高校はもろもろの理由から、福岡県に住まう女子に大人気の『福岡女子高校』へ進学。

なぜ人気かというと、福女の制服は、コシノヒロコさんのデザインで、そのお年頃の女子が大好きな可愛らしい制服だったんですね。

でも、少年街道まっしぐらの私には、その可愛らしい制服が苦痛であったのは想像に難くないかと思います。(笑)私はやはり中学生の時と同様、スカートの下に短パンを履いていました。

高校時代は家から片道約20分かけて自転車通学。雨の日も風の日も、カッパを着て自転車をこいでおり、おそらくバスで行ったことは片手で数える程しかないはずです。

相変わらず本も大好きで、『福岡市総合図書館』に通い倒しながら、動物関連の本を始め、心理学にも興味を持ってそれ関連の本まで読んでいました。特に興味を持ったのは多重人格です。1人の人の中に複数の人格を持つ状態がとにかく不思議で、様々なシリーズを読み進めました。

入学の時には既に専門学校に入ることを決めていた私は、バイトをしてお金を貯めよう人生で初のアルバイトを始めます。

バイト先は現在も人気が健在の市内にある「たこ焼き屋」さんで、何と当時高校生の時給は600円台前半だったのにも関わらず800円いただいていたのです!ちなみに、福岡市の現在の最低賃金は814円だそうですよ。

しかし、本当に大人気のお店なので、働いていた週末にお店が11時に開店すると、その最後が見えない長い列は閉店の8時まで途切れず、エンドレスでたこ焼きを焼け続けなくてはなりません。おかげでたこ焼きは今でもプロ並みに焼けます♪この技術が、後程オーストラリア/ケアンズのお祭りでも役に立ち、ケアンズに住む日本人やオーストラリア人のお客様をを喜ばせる事になろうとは、その当時の私は知る由もありません。

休憩はオーナーさん手作りのお弁当をたこ焼きが1回焼ける間にかき込み、すぐに焼き場へ戻っていたのでたったの15分。でも休憩時間はお給料から引かれなかったので、おかげで1日で7,200円を稼ぎ、順調にお金を貯めて行く事ができました。

でも結局小中と続けていたバスケがどうしてもしたくなり、1年生の秋頃にはバスケ部へ返り咲き活動を再開。

なんと当時はバスケ部員が5名しかおらず、私が入ってたったの6名。それでもみんなで仲良く一生懸命練習に取り組んでいました。

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※右から2番目

2.断腸の思いで選んだあだ名

高校生ともなると、それまで苗字で読んでいた名前を名前で呼び出します。

その当時、本名の「めぐみ」と言う女の子らしい名前が苦手だった私は、友達の「めぐちゃんと高田っちとどっちが良い?」という質問に、断腸の思いで「た、高田っちでよろしく。。」と答えたのを覚えています。

ちなみに、この〇〇っちは、当時世間で大流行した「たまごっち」によるものです。

3.高校で身につけたこととレズビアン疑惑

私が通っていた「生活情報課」は、情報、マナー、食生活の学習を3本柱として、パソコン等のIT機器を操作する技術を身につけ、職場で求められるビジネスマナーや調理などの技術を学べ、資格を取得できました。

この時に学んだ「栄養学」「パソコンの知識やスキル」、そして秘書教養の授業で学んだ「テーブルマナー」「化粧の仕方」はその後の人生で本当に役に立ちました。

学校には茶道室まであり、お茶をたてて和菓子をいただく授業まであり、夏には浴衣を手縫いして作ったりもしましたね。社会に出る上で、そして日本人の女性として学べる事は多かったと感じています。

1学年8クラスある中での特別コースとなる為、学年に1クラスしかなく、3年間同じクラスだったために何年生の時にこうだったという記憶の選別がかなり難しい時代です。(笑)

でも一言断言できるのは、心底最高のクラスでした。全員本当に仲が良く、そしてみんなある程度運動神経が良かったので、体育の授業や体育祭、球技大会等ではタイトルを総なめ。

私は3年生の時に体育祭のブロック長を務め、3学年が一緒になったチームを優勝に導き、一気に後輩たちにだいぶチヤホヤされることに。

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※前の列の真ん中にいる少年

道を歩くと校舎から「小梅先輩!」と呼ばれ、バレンタインにはチョコレートをもらい、写真を撮ってくれとお願いされる。卒業の際は、制服からジャージから全部奪われてなくなりました。

衝撃だったのは、小・中・高と仲の良かった女友達に「小梅って、レズじゃないよね?」と本気で確認されたこと。確かに、物心がついてからその時まで男の子を好きになったことがありませんでしたが、だからと言って女の子がすきだった訳でもなかったので「違うよ。」と普通に答えたのを覚えています。そう、恋愛に関してはただただ遅咲きだったのです。(笑)

4.この頃の流行りと反抗期

この頃も、丸襟指定だった可愛らしいブラウスを着るのが嫌で角襟のブラウスを着る事(←とても些細なこだわり)以外には特に校則も破らず、相も変わらず優等生で、反抗期もありませんでした。

その為か、変な所でその反抗心を発揮しており、当時プリクラ全盛期でみんながプリクラを撮りまくっている中、みんなが撮るのなら、私は断固として写らないと拒否をしたり(←子ども)、女子高生が大好きなカラオケを歌わないと断固拒否をしたり(←子ども)していました。

その反動で、たこ焼き屋で貯めたバイト代を使ってフィルムのカメラを買い、たくさんの写真を撮影するようになりました。この頃から写真の枚数が格段に増えたのは言うまでもありません。

そして極めつけは、ある日クラスメイト同士で校則違反であるピアスの話になった時に「でも小梅はピアスは着けんよねー?」とそこにいる全員一致でない事にされたので、そんなみんなを驚かせようと、一気に軟骨2個を含む3個の穴を耳に開けて登校したらみんなビックリ!先生に至っては、そんな事をしなさそうな私がピアスを開けてきたことに驚き、怒るどころか「何か悩みでもあるの?」と心配をしてくれました。(笑)

バスケを完全燃焼した後は、再度コンビニやカフェ等のバイトに勤しみ、この後10年の付き合いとなる「ホンダ リトルカブ」を購入。16歳になってすぐに免許を取り、その後の移動は全てバイクにして、とにかく愛乗していました。

あ~、カブに乗りたい。(笑)

カブ

専門学校は全国の学校でどこが良いかをかなり検討しましたが、学費が短大ぐらいはかかる為に引っ越しや生活費をねん出するのは難しいと感じた私は、福岡にある専門学校へと進学する事を決めます。

この専門学校での2年間が、私の人生を大きく動かして行く事になりました。

小梅


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