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小学校高学年の小梅と少年時代の始まり

1.読書の鬼

『あすか』の一件があって以来、私は自分の将来の職業を模索し始め、とにかくたくさんの本を読むようになりました。

元々母親が毎晩絵本を読んでくれていたので本が大好きだったのが基礎となり、更に自分の目標を見つけ、その物事を探求する為にブラッシュアップされていったのです。

そして動物関係の本を中心に、その時に興味関心のある本まで幅広く読むようになり、本は私の世界観をどんどん広げてくれました

あまりに好きすぎて授業中も本を机に隠しながら読んでいましたが、今思えば、きっとバレバレだったはず。。見逃してくれた先生ありがとう!(笑)

でも宿題や勉強は普通にする方だったので、テストの点はだいたい80点以上。一度小テストで漢字の5問テストがあった時にしょうもないケアレスミスで2問間違えて60点を取った時にかなりのショックを受けたことを覚えています。

2.弟との大冒険

幼少時代から小学校時代は2歳離れた弟ととにかく仲が良く、共働きを始めた両親の代わりに弟の面倒を見ていました。それは母に弟は私が育てたと言われる程。

すごく覚えているのが、4年生の時に母が手術をする為に入院をした時のこと。

小学校4年生の私と2年生の弟は、バスで病院まで母親のお見舞いに行き、私のミスで帰りのバスを間違って反対方向に乗ってしまいます。

すぐに気付いて1駅先で降りたものの「バス代をもう出す訳にはいかない!」(←涙ぐましい)と考えた私は、なんとそこから弟と一緒に歩いて帰ることを決めます。

グーグルマップで見ると、大人の足で歩いて約1時間程の距離。それを当時かなりの泣き虫だった弟をなだめすかしながら歩いて帰ったのです。そこにどんな決意があったのかを我ながら想像してしまいます。

その光景を偶然母の友人に目撃されており、その真実を知らされた母親は私たちが普通にバスで帰ったと思っていたのに歩いて帰ったと知り驚愕!何でもとにかく楽しそうに歩いていたと言われたそうで、母にはそのことを褒められたのでした。

その私の中での弟との大冒険を母に褒めてもらえ、何だか誇らしかった思い出です。はじめてのおつかいみたいに、カメラに追いかけてもらっていたら、きっと面白いドラマがあったはずだと思わずにはいられません。(笑)

3.男子の恐怖の的になるの巻

また、小学校高学年になると、一気に身長が伸び始め、気が付けば同学年の女の子たちの中で頭一つ飛び抜けるサイズに。小学校を卒業するころには、162cmまで成長していたのです。で、でか。。(笑)

TOPの写真は、その当時母親が臨時で現「福岡ヤフオク!ドーム」の施工をしている会社の事務員をしていたので、コネで見学に入れてもらった時の写真です。

ドームの屋根ができかけぐらいの頃であるならば、おそらく5年生ぐらいの時の写真でしょうね。1人を除いて祖母もみんなももれなくシャツinでダサさ爆発。(笑)

ミニバスケットのチームメンバーとはもちろん仲が良かったですが、学校の中休みや昼休みはどちらかと言えば男の子と外でドッチボールやひまわりというゲーム等をして男の子をちぎっては投げ、ちぎっては投げしながら遊んでおり、あだ名は「ゴリラ」と「男女」。なんて分かりやすいあだ名なんでしょうか。(笑)

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私を「ゴリラ」と呼んでからかう男子を追いかけ、聖域とされる男子便所に逃げ込む男子をものともせずに成敗をしていたのを覚えており、得意技はもみじ。背中に張り手をすると、背中が手の形に赤くなるあれです。

え?いじめっこ??いえいえ、私もからかわれていた訳ですし(←正当防衛を主張)、確か他にもからかわれる女子を守る正義の味方だったはず。(←うろ覚え)

傷つきやすい、いたいけな女子を「ゴリラ」と呼ぶなんて不届き千万。(←実は結構傷ついたりしていた。)

その頃は男の子から見ても大きかった私は、当時は恐怖の存在であったと中学校の時に男友達から告げられることになります。確かにでかいっ!(笑)

4.打ち込んだドッジボール

私の住んでいる地区は、男子はソフトボール、女子は親子でチームとなりドッジボールをする習慣があり、私はドッジボールが大好きでした。

小学校低学年から団地のメンバーでもドッジボールで遊んでおり、4歳離れた姉も参加していたので、その練習の光景を見るのも大好き。

通常チームに参加して試合に出るのは5-6年生だったのに、光栄にも3年生から試合に出させてもらい、更に練習にのめり込んでいったのでした。

私が所属していたチームは、親がバレーで日々鍛錬を重ねている最強集団で、練習も鬼のようにスパルタ。最初の1時間はUPや基礎体力を上げるような練習。(←こんな本気のトレーニングをしているチームは他にはいない)そして後の1時間は中当てや試合形式での練習(←ガチのやつ)で、私は試合形式の練習が待ち遠しくて堪りません。

2年生の時は参加できず、ただ練習風景を眺めるのみ。試合形式の練習が見たい(←というか練習に参加したい)のに、その頃の私の門限は5時で、丁度その試合形式の練習になる時に帰らなければならなかったのを、何とか母に頼み込んで数日に1回は見せてもらっていたのを覚えています。

今の自分に置き換えて思えば本当にすごいと思うのですが、20-30代の大人が、小学生の子ども達チームとガチで試合を行ない、本気で顔面目掛けて(←小さいので低く構えると大体顔面に当たる)ボールを投げつけている試合を公衆の面前で行なっていたのです。それに喰らいついていく子ども達。そりゃ強いチームになるはずだ。(笑)

本番の試合は、子ども→大人→子どもの順で3試合行ない、2試合勝った方が勝ちという形式で、大人は120%負けないので子どもは1勝すると勝ち進むことになり、私達のチームは正に最強。私が3年生の時の6年生は猛者が集まる区大会でも他のチームを寄せ付けず優勝し、私にとってはヒーローのような存在でした。

私が6年生の時はキャプテンに任命されますが、その頃は地域の子ども達が少しずつ減ってきており、最盛期には5-6年生をメインに構成されるチーム×2チームあったのに、私の時は2年生をチームに入れてやっと1チームできるぐらいになっていました。

地域の大会は順調に勝ち優勝したものの、地域で優勝したチームだけで闘う区大会は決勝で小さい子を先に狙われて数を減らされ、おしいところで負けてしまいました。練習に打ち込んで鼻血を出すぐらい頑張っていた私を見ていた母親チームのリーダーのお母さんに「勝たせてあげたかった。」と言って労いの言葉を受け、大泣きしたのを覚えています。

あの時のおばちゃん(←そう呼んでいたけど、今の私よりも絶対にみんな年下)メンバーと今会って飲んでみたい、そう願わずにはいられない程大好きな人達でした。

5.少年時代に突入

更に大きな転機となったのは、小学校6年生の時のこと。

毎回優勝しているミニバスケットボールの大会があったのですが、また優勝できるであろうと高を括っていた私達に、当時練習を教えに来てくれていたタクシーの運転手さんが賭けを仕掛けてきました。

それは『優勝できなければ髪の毛をバッサリ切る』というもので、今なら大きな問題に発展しそうですね。(笑)とても長い髪の毛のこは心底嫌がり、最終的には肩の上までは切る事に決定。

そしてその結果は、決勝戦で相手チームの3Pシュートが鬼のように決まり、更に自分たちの調子の悪さが加わった私達は負けて準優勝となった為、約束通り髪の毛を切ることに。

切ることを嫌がっていた女の子は、肩のギリギリで切っていましたが、私はそれを機に二の腕の途中まであった髪をバッサリと耳の上まで切り、ここから私の少年期が始まっていくのです。

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身体を鍛える為に、常に手首や足首にアンクレットを巻いている時の私。きっとドラゴンボールの影響かな?(笑)

中学生になると、更にその男らしさに磨きをかけていったのでした。

小梅





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