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苦は傷となるのではなく穴となる

「命令形はやめろ!」という命令形を思いついた。『置かれた場所で咲きなさい』を書いた渡辺和子にこの数日強く影響を受けている。千代田線の明治神宮前で乗り換え、直通列車で副都心線から東急東横線を一本で横浜方面に着く。電車内でひたすらその本を読んでいた。普段はスマホを触り続けて時間を潰していたが、改めて読書は良いと思った。一度ハマってしまえば一時間なんてあっという間に過ぎる。

なぜか神奈川県民との相性が抜群に良い。俺はなぜ神奈川県に住まないのかと思うほど。静岡でも千葉でも友達がまったくできない人生だったのに神奈川県には友達と呼びたい友達が何人もいる。もちろん数ではないのはわかっているが、県民性というのはあるんじゃないかと思ってしまう。環境が人をつくると言うようにその地域の風土が人も作っているんじゃないのかなと。もしかしたら県民性があるというのは当たり前のことなのだろうか。元々そういうのは信じないタイプだったのが。

話がそれた。俺は読書感想文を書きたかったのだ。『置かれた場所で咲きなさい』はそのタイトルからなぜか敬遠していた。実際に手にとって読み始めると文体は読みやすいし、シスターである渡辺和子の人生から垣間見える濃縮されたエピソードが数々と書かれている。迷子になっていた心を元の場所に戻してくれるような、それでいて強引でない。気付いたら原点に立ち返っている。本を閉じたらいつもの日常に戻ってしまうのだが、ページをめくると忘れかけていた隣人を愛するということがどれだけ日々から根こそぎ奪われてしまっているのかがわかる。

渡辺和子はうつ病と膠原病を経験している。六十代のときに膠原病になり、薬の副作用のために骨粗鬆症になる。今まで三度骨折を経験し、身長が十四センチも縮んだ。でもそれを「せいで」にはしない。薬のせいで、病気のせいで。そういう言い方をせず、「おかげさま」という言葉を使う。

でも、そういう自分があったからこそ、同じような苦しみを抱えた人たちの気持ちが少しはわかるようになりました。病気という穴が開いたことで、それまで見えなかったものが見えるようになったのです。やはり、「おかげさま」なんですね。

渡辺和子(2012年)『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎文庫,p213

渡辺和子の母の言葉も凄まじい。度肝を抜かれた。

私の母は、「人の大きさは、その人の心を乱すものの大きさでしかない」とよく言ってくれました。私が子どもの頃、人の悪口を言ったり、くよくよしたりしていると、「人に何かをされたことで腹を立てているとしたら、あなたはその大きさでしかないのよ」と。今の自分を乗り越えなさい、自分との闘いに打ち勝ちなさい、と言いたかったのだと思います。
それは「自分は何を言われても、怒ったり根に持ったりするような人間ではない」といい人ぶることではありません。理不尽な目に遭えば、私も腹が立ちます。でも、腹を立てても物事がよくなるわけではないから、腹を寝かせておくわけです。それを可能にするのは、自分との対話であり、自分との闘いでしかないのです。

渡辺和子(2012年)『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎文庫,p214

「人の大きさは、その人の心を乱すものの大きさでしかない」はヤバい。最初読んだときに「エグい!エグすぎる!」と思った。文中にも引用されている暁烏敏が六十歳の時に詠んだといわれる歌の通りだと思った。「十億の人に十億の母あらむも  わが母にまさる母ありなむや」。どんなに短い期間しか過ごせなくても、たとえ母の記憶がなくても、自分の母親が一番なのだ。「自分を産み落としたこと」が、もうすでに愛であってしまっている。どんな毒々しい親であろうと、悔しいが死ぬまで母は母なのだ。決して「生んでくれと言った覚えなどない」などと口にしてはならない。それは母に対する否定のようで、自分が存在することへの否定にもなってしまう。そんなのつらすぎる。

数あるエピソードのなかでも現時点で心に浸透しているのが著者がマザー・テレサの通訳として同行した際の話だ。

一九八四年のことでした。マザーは、朝早く新幹線で東京を発ち広島へ行かれ、原爆の地で講演をなさった後、岡山にお立ち寄りになりました。そして再び夜六時から九時頃まで、三つのグループに話されました。
通訳をしていて感心したのは、馴れない土地での長旅、数々の講演にもかかわらず、七十四歳のマザーのお顔に、いつもほほえみがあったことでした。その秘密は、宿泊のため修道院にお連れしようと、二人で夜道を歩いていた時に明かされました。「シスター、私は神さまとお約束がしてあるの。フラッシュがたかれる度に、笑顔で応じますから、魂を一つお救いください」”祈りの人”であったマザーは、何一つ無駄にすることなく、祈ることを実行されていたのです。ご自分の疲れも、煩わしいフラッシュも、神との交流である祈りのチャンスにして、人々の魂の救いに使ってくださいと捧げていらしたのです。
神は、私たちが痛みを感じるとき、それを捧げるもの、神への「花束」とする時、その花束を単なる祈りの言葉よりもお喜びになるのです。私たちは、とかく、自分中心の願いを”祈り”と考えがちですが、祈りには、痛みが伴うべきではないでしょうか。私も日々遭遇する小さな”フラッシュ”をいやな顔をせず、笑顔で受けとめ、祈りの花束にして神に捧げたいと思っています。

渡辺和子(2012年)『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎文庫,p187-188

「日々遭遇する小さな苦しみを笑顔で受けとめ、祈りの花束にして神に捧げたい」。以前ブログに書いた「フラッシュバックする記憶は、成仏したがってるから現れる」という言葉が先日思わぬ形で広まり、二日間くらいちょっとドキドキしたことがあったのだが、コメントのなかには「どうしたら成仏してくれるのか」、「そんなわけないだろ」との書き込みがあり、俺自身も現在進行系で苦悩している問題だから、なけなしの思考回路で考えていた。この上記の文を読んだとき、これかもしれないと思った。

へんな言葉が頭のなかに浮かぶことがある。それはディスりとか批判とか言われるような言葉。頭のなかで「いかんいかん!」となってもみ消そうとするが、それを思ってしまった自分自身に罪悪感があるときがある。切ないことに実際に言葉にしなくても、表情や全身から溢れ出るオーラで発出されてしまう。伝わってしまう。そんなような気がする。だから言葉に気をつけるだけでなく思考している言葉にも気をつけたい。でも難しい。銃を暴発させてしまえば、甚大な被害を及ぼし、その加害は丸々自分に返ってくる。ではこの苦悩と闘い、飲み込んだらどうか。それがいわゆる徳っていうやつなのではないのか。この苦悩。ここにあるだけでは自分を蝕むつらいものだ。だが考え方を変えて、この苦しみを祈りの花束にして神に捧げたら。小さな苦しみがもっと小さな苦しみになるかもしれない。この葛藤が人をより”大きく”させるのかもしれない。苦は傷となるのではなく穴となるのではないか。

以前、こんな話を読みました。深くて暗い井戸の底には、真っ昼間でも、井戸の真上の星影が映っている。井戸が深ければ深いほど、中が暗ければ暗いほど、星影は、はっきり映る。肉眼では見えないものが、見えるというのです。

渡辺和子(2012年)『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎文庫,p93

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