うまくいっている人はいない
”気分”の話が多すぎると指摘されてハッとした。
思えば、十代の頃が一番意識が高かったような気がする。雨だと憂鬱と言う人がいる。雨の何がいけないのかと思っていた。落ち込んでも、明るく前向きに生きるための言葉をたくさん使っていた。
それが今はどうしたことだろう。頭に浮かんだ陰気な言葉を次から次へと吐き出している。吐き出して楽になるのならいい。逆だ。だめだ、だめだと嘆くほど、世界は暗くなっていく。
自分は今、天気と一緒の状態だ。強い風が吹いたり、雷が落ちたり、曇天かと思えば晴れ渡ったり。花粉が飛び、花も咲く。雨も降る。俺は天気に合わせて気分を変化させているようだ。
アランは、「気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す」、「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである」と言う。
道理で。そういえば(と言うとわざとらしいが)、昨日、久しぶりに気分が悪くなることがあった。具体的な描写はあまりしたくないからしないのだけど、一言で言うと「つめてえ!」と思った。
生きていれば必ず経験するようなことだとは思う。昔から不慮のメンタル事故みたいなのに弱い。しばらく引きずってしまう。でも、ここからが分かれ道。引きずって苛立つか、気にしないように努めるか。
すごい大変な作業だ。意志で機嫌を整えるなんて。だって今ちゃんと嫌な気持ちになっているのに、これを覆さきゃいけない。でも、そう考えると「人ってすごくね?」とも思う。
気分に任せていれば、怒り出す。ならもっと世界は荒れていそうなものなのに周囲を見渡すと平和もたくさん見つかる。多くの人が”飲み込んでいる”ということだ。尊敬に値する。
人は言葉によって打ちのめされもすれば、言葉によって救われもする。好きな相田みつをの詩がある。
うまくいっている人はいない。うまくいってそうに見える人がいるだけだ。
自分だけが苦しいと思うときにみんなも頑張っているんだよと言われても入ってこない。実際、自分だけが苦しいのだと思う。人は自分のことしかわからないのだから、他人の苦しみは想像でしかない。
じゃあ苦しいだけ損か。それは違う。苦しいからこそ、人の苦しみが想像できるようになる。同じ人間だもの。感じ方に大きな差があるようには思えない。苦しみを知って優しくなる。苦しいは優しいのだと思う。
わかってもらいたいと望むとき、本当はわかってあげられる人になりたいのだと思う。頭で、ではなく、心から。
心の奥で成長を望んでいる。だから苦しむ。だから優しくもなれる。
優しさにはいろいろな形があることを知った。距離をとるのも優しさだ。
自分だけでは学べなかった。周囲を見渡すと平和もたくさん見つかる。その平和を教えてくれたのは、苦難や受難を飲み込み続けてきた人たち。
物事が複雑に絡み合っていることを知った。関係のむずかしさを知った。
単純じゃないから楽しい。複雑だから面白い。だからもっと知りたい、知ってゆきたい。それが生きる力になるのだと思う。
世の中のすべてを知ることはできない。なんて楽しいのだろうか。ずっと知らないままでいられるなんて、絶対に面白いとわかっている映画がまるで何本も何十本も残されているようだ。誰もネタバレできない。体験でしかわからないから。
何文字書いても一つのハグには敵わないかもしれないが、生きようぜ、と思う。自分の生命力を信じようぜ。
生きてます