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業がある事も面白い。解脱してからの「宝石の国」

「宝石の国」最終話を読んでの大肯定ポジティブ感想です。
未読の方は、是非「宝石の国」を読んでみてください。
ネタバレをたくさん含みます。




悩み続ける「宝石の世界」も良いものだった

物語としては完全なるグッドエンド。
仏教で言う解脱の世界。幸せの世界への旅立ち。

物語は最終的に「幸福」を得ますが、最初の宝石達の世界も中々に素敵ではあったと思うのです。

フォスは最後石ころ達と心の平穏を得ます。
では初期からのフォス、引いては宝石や月人にとっての「争いの種」「不満の種」はなんだったのか。
そう考えると、私が一番に思うのは「階級」と「役割」でした。

まず「階級」ですがフォスは宝石としてとっても割れやすい硬度三半という性質です。
それは物語でずっとついて回るフォスの弱点となります。
そして「役割」。フォスは何をやらしても不器用、センス0。もうどうしようも無い、役立たずな宝石です。
ですが、最終回まで読むとふと気づくことがあります。

「階級(硬度)」と「役割」があったから、悩んでいたのでは?

最終的な石ころたちの世界では全員に「階級」も「役割」もありません。
ダンスが得意な石、歌が得意な石。でもそれは役割ではないし、上下もありません。
最初に見つけた石ころちゃんも、目も見えないし歩けないけど満足している、という状態。
ここで1話を読み返すと、可愛くて、綺麗な色で、表情がころころ変わって動き回れる初期フォスの方がずっと有能です。
石ころちゃんのふわふわした話し方も、実は他の宝石たちと口調が似ています。(ボルツは置いといて)
見た目は違いますが、宝石たちに「階級」も「役割」もなければ、フォスは初めから石ころの世界のように満たされていたのかもしれません。

では何故、初期から「階級」や「役割」があったのか。
これはひとえに月人との戦いがあったためです。

「階級」や「役割」があった故に、シンシャは落ち込み、ダイヤは愛憎に悩み、フォスは必死でした。
でもそんな、みんなでぶつかって、割れて、相談して、冒険して、そんな世界を「面白い」と思ってしまうのは私が「人間」だからかもしれません。
石ころの世界はあの壮絶なフォスを体験した後だととても救いのあるシーンですが、初めから石ころだったらこんな風に思わなかったと思ってしまう訳です。

物語の世界ではない、石ころみたいに理想的に暮らしたいと強く願いますが、そもそも私は食事をしないと生きていけません。人間なので。
石ころと、宝石たちと、一番違うと感じるのは食事を必要とする事です。
(物語で言うところの「人間」はもっと深く掘り下げられますが)
私はお金を稼いで、ご飯を買わなくてはなりません。
なので今すぐ石ころ精神にはなれません。

多くの「階級」や「役割」はひとえに「他人からの価値観」によって決められます。
しかし「自分の満足は自分で決める(自己評価)」や「やりたい事」は「自分自身の価値観」で決めることができます。
ここには大きな隔たりがあります。フォスはここを乗り越えていきます。

過度な階級や押し込められる役割には反対ですが、何かをしようと試行錯誤したり、良いことをしようと様々に行動を起こしていた宝石たちの世界もとても楽しくキラキラと素敵なものだったなと思うのです。



シンシャを救うために必要だった事

物語の序盤、フォスはシンシャに楽しく暮らして貰おうとあの手この手を尽くしますが、結局フォスが敵対したことにより、人数が少なくなり、結果皮肉にもシンシャは他の宝石たちに友好的に受け入れられます。
時間をかけての技術の向上(毒をなんとかしようとするみんなの努力)も一役買います。

結局シンシャが求めていたのは「そばにいてくれる誰か」「欠点を認めてくれる誰か」であり、フォスが「外に何かを探しに行く」「シンシャの欠点を治したい」は的外れでした。
それはフォス自身の「認めてくれる役割(成果)を外に探しに行く」「自分の三半という欠点を払拭したい」という願望の裏返しでもありました。
本当はダメな奴同士、支え合えばすぐに解決したかもしれないのに。(ガーディアンズオブギャラクシーみたいに)

では、フォスの行動は無駄だったのか。
曲がりなりにもあんなに頑張っているフォスに「無駄だった」だけを突きつけるのか?それは宝石の国の包括的な優しさとも違うような気がします。

私はフォスが「何かを変えようとし続けた」事がやはり一番重要だったのでは無いかと思います。
フォスが暴れるほど周囲の状況は良くも悪くも変化します。物語中でも「変化しないものはない」そして「急激な変化は(要約すると)悪」でもあった訳ですが、もしあの物語にフォスだけがいなかったらどうでしょうか。
シンシャは永遠に夜に暮らし、誰も疑問に思わないまま、少しずつ宝石が減り、月人は疲れ果て、停滞し、ゆっくり無気力になるのを待つばかりだったかもしれません。
フォス自身は気づいていませんがその弱さゆえに試行錯誤する「人間らしさ」が必要で重要だったのだと思います。
その人間らしさが人間、そして地球の自然を枯渇させる要因でもありましたが。



「宝石の国」に於ける「ケア」の事

昨今評価される作品群には珍しく「ケア」に特化した性質のキャラクターが特に居ないのが宝石の国です。
進撃の巨人のエレンよろしくフォスは破壊の限りを尽くします。アルミンというケア役もいません。
そして進撃と大きく違うのが、フォス自身の性格や性質が変化し続け、破壊の神のようだったフォスが最後、全てを成仏させる救いの神(ケア側)になるところです。
この「自分自身を柔軟に変化させる」物語は、自分を許せない誰かのきっと救いになると思うのです。



ジェンダー表現の素晴らしさ

さいごに、宝石の国を語る上で取りこぼしたくないのがジェンダー表現の素晴らしさです。
(恐らく)かなり終盤で王子から明かされるのですが、宝石たちには性別がありません。(肉体がないので。アドミラビリス族が肉体を司る)
女性にも男性にも見える容姿、一人称も僕だったり私だったり自由です。
これはキリスト教の女性(リリスとか)が生まれる前の天使にも似た状況です。(このため天使は全員男性とする説と無性とする説とあった気がする)

なので女性らしく見えるダイヤが一人称僕で戦闘員とアイドルを無理なく両立したり、衣服も何が好きか、どんなのを着たいかも個人の感覚に委ねられます。

私が個人的に素晴らしいと感じたのが「肉体」を持たない宝石と月人で、「人間性」を悪にすると恋愛や性愛も一緒に悪いものに分類されてしまいそうなところを、王子と姫の恋愛感情、そして美しく表現された性愛を思わせるシーンを入れることにより、良いものの中から取りこぼさないようにしている点です。
姫の一人称が「僕」だからか、王子は姫を姫扱いしつつ「彼」と表現し、ウェディングドレスを着せつつ、生命を産まない性愛を肯定します。
姫も可愛い服を着るようになり、そのこともポジティブに表現されています。
また最後に兄機(ぷーぷ)がママなどを「美を実践する人間」のように表現するのですが、つまり宝石の国に於いての「美」とはルッキズム的な意味合いよりも「善行」や「規則正しさ」を指します。
宝石の原子配列の美しさはそのまま心根の美しさに直結しています。


「宝石の国」唯一無二の素晴らしい物語でした!
全ての世界の全ての時代の宝石たちが肯定されますように。

追記:
光を描く描写表現が最初から最後まで一貫していてすごく好き!
版画みたいな趣がある。
最後の地球、海面の上昇と入道雲で地球の気温が上がってるのを表現するのすごい好き。

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