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ぼっちとは何か?「孤独」と「寂しさ」の違いについて考える

孤独って素晴らしい。
強がりではなく、心から孤独を望み、楽しめるようになったのはつい最近のことだ。

なんでだろう?
そう考えていたときに、哲学者ハンナ・アーレントさんの説明がしっくりきたので紹介したい。

人が一人になる状態のことをアーレントさんは、「孤独」「孤立」「孤絶」の3つを挙げて説明している。

孤独(solitude):望ましい状態
自分自身とともにあること。
「一者のうちにある二者」として、自分自身との対話ができている状態。

孤立(loneliness):一人ぼっちの状態
自分自身との対話ができず、他者とも対話ができていない状態。他者に囲まれているのに誰にも接することができない場合は、他者を依存的に求めることもある。

孤絶(isolation):集中状態
周囲とのつながりが断たれた状態。
誰にも邪魔されずに目の前の作業に集中している状態。

このように考えると、私が最近良い精神状態にいられるのは、自己との対話が成立している望ましい状態といえるからなのだろう。


アーレントさんは、孤独と孤立を分けて考える。

大勢の中にいても一人ぼっちで寂しそうな人もいれば、しゃん、とした佇まいで常に堂々としている人もいる。その違いは、人との関係性によるものではなく、精神的な違いなのかもしれない。

このことに気付けたことは、私にとって大きな変化だ。というのも、長年好きな人や友達と一緒にいる時も、なぜか「寂しいなぁ」と感じる瞬間があり、その感情の正体がよくわかっていなかったのだ。

おかしいなぁ、なぜだろう?
私は決して一人が苦手なわけではない。
それとも自分でそう思っているだけで、本当は人一倍寂しがり屋さんなの?そんなふうに考えることもあった。

しかしようやく、長年の謎が解けた気がした。

私が感じていた寂しさは孤独ではなく、誰かの目線や想いを気にして自分との繋がりを手放してしまっている状態だった。

自分が好かれたいと思う相手であればあるほど、相手に合わせたり自分をよく見せたりしてしまうことはある。相手と一緒にいても、自分が望むような繋がりを持てていない状態に、孤立感を感じていたのだ。

noteでこうして内省するようになり、定期的に自分の内側を言葉にして意識するようになった。内省がきっかけとなり、結果的に理想的な孤独の状態を作り出せているのかもしれない。


村上春樹さんのエッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』の中では、孤独や孤立ではなく、孤絶感について言及されている。

僕のような年齢にさしかかった人間が、今更あらためてこんなことを書き記すのは、いささか愚かしい気もするのだが、事実を明確にするためにいちおうお断りしておくと、僕はどちらかというと一人でいることを好む性格である。いや、もう少し正確に表現するなら、一人でいることをそれほど苦痛としない性格である。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹

村上さんは、小説家にとってある種の孤絶感を感じることは避けて通れない道筋であるとして、自らが進んで孤絶を求めてきた側面もあるという。それでも孤絶は、「人の心を護ると同時に、その内側を細かく絶え間なく傷つけてもいく」ものであり、走ること、身体を動かし続けることで、自身の抱える孤絶感を癒やしてきたのだそうだ。

孤絶は、自己と他者との関係性から離れて、すべての関係から切り離された状態といえるのかもしれない。

これは私の意見に過ぎないが、修行僧やヨーガ行者、聖職者なども孤絶に近い状態にあるのではないだろうか。


無量寿経には、次のような一節がある。
「独生独死 独去独来」。
「人は一人で生まれ、一人で死ぬ」。
人生の途中で様々な人に出会い、寄り添い、連れ添っても、最終的には他者に依存しない自己の確立が重要だよという教えだ。

「孤独」というキーワードから、西洋、東洋の価値観を紐解いてみると、根本的な真理は共通していることがわかる。


結局のところ「ぼっち」とは周りに人がいない状態ではなく、どれだけ人に囲まれていても、自分とも他人とも繋がれない、孤立感を感じている状態のことをいうのだろう。

長年抱えてきた疑問について、こうして文字に書いて整理してみたことで、体系だてて理解することができた。とても有意義な時間になったなぁ!

最後に瀬戸内寂聴さんの言葉を紹介して、このブログを終えたい。

私たちはひとりで生まれ、ひとりで死んでゆきます。本来孤独な生だからこそ、孤独の寂しさを癒そうとして愛を需(もと)めます。愛する相手にめぐり逢うことは神か仏の恩寵でしょう。

瀬戸内寂聴「今日を生きるための言葉」(726回)