言葉が意味を持つのではない。人が言葉に意味を付ける。それを操るのは自分。

私にとって受け入れがたいことはいくつかある。「わかっているからこそ、耳が痛いこと」「考えたこともないこと」、それから「言葉と嫌な思い出が一つになり、悪い意味付けがされている言葉」がそれだ。

どれも聞いた当初は、冷静にその言葉が示す意味を考えられず、時には咄嗟の反応により、怒りや拒絶というプロセスを経てしまうこともある。

本来言葉そのものに良い、悪いはない。
言葉の意味は時を経て転じてもいく。
良い言葉が悪いつかわれ方をしたり、悪い意味の言葉が良いつかわれ方をするようにもなる。
既成の言葉が、造語として組み合わされて別の言葉になることだってある。

辞書に書かれている言葉に意味を付けたのは紛れもなく他人だ。同じ言葉でも、それぞれの心に自分専用の辞書を持っている。

それは、言葉が元々意味を持つのではなく、言葉をつかう「人」が自分固有の意味を付けているからにほかならない。

言葉の主導権を握っているのは人だ。

良い意味で伝えた言葉が悪く受け取られてしまったとき、言葉自体の良い悪いを判断するのはもったいないなぁと思うことがある。

言葉に意味をつけているのは自分自身。

最初から言葉に制限をかけて、誤解を生むような言葉をつかわなければ、誰かとモメることもないのかもしれない。それでも、なんかそれって味気ないなぁとも思う。

「言葉は、自分が反応していることを知るヒントになる」

相手の意図を正確に汲み取ることはもちろん大事なことではあるけれど、同時に自分が特定の言葉にどう反応しているかを考えることで、言葉への先入観は薄れていく。


嫌いな人に言われた言葉には反発してしまうけれど、好きな人に同じことを言われると受け入れてしまう。

私も人間なので、そういう面があるのも否めない。反対に「他の人から言われたら大したことないのに、好きな人だからこそ許せない」みたいなこともあるだろう。

考えるのは苦痛だし、痛みを伴うときもある。
なんの答えも見つからずぐるぐる回って、余計にわけがわからなくなったりもする。

それでも私は、考え続けることが好きだなぁと思うし、それは正しさを見つけたいからではなく、楽しいからやってるんだなぁと思う。

「誰が言ったか」よりも物事の本質にある「言葉そのもの」で判断したい。しかし、言葉に意味を付けているのは自分自身だ。純粋に言葉そのもので判断すると、それは私の考えから離れて「一般論」に帰結する。

人は誰しも自分の心に持っている辞書を引きながら話をしている。

同じ言葉をつかっているから、その辞書に書かれている意味はきっと同じだろうと思いこんでしまうこと。そこに問題があると思うのだ。


どんなに好きな人であっても受け入れがたい行動や発言があれば、ずっと考え続ける。それは相手を理解したいから。しかし、それだけではないのかもしれない。

自分の心の辞書をぶ厚くする。
例え、今日が昨日と似たような日になったとしても、日毎新しいこと、新鮮なことを発見していくには、自分の中にある辞書のページを増やしていくしかない。

例えば、自分の持つ辞書の「仕事」という言葉に「お金を稼ぐこと」「我慢すること」「人に仕えること」とあったとしよう。それが、経験や知識を得て「楽しいこと」や「辛いこと」など、オリジナルな意味を加えていくこと。それを意識していたいと思うのだ。

人生で体感したことが私の辞書に加わっていく。それは必ずしも良い意味ばかりではないだろう。それでも辞書のページは多ければ多いほど味わい深いだろうなと単純に思うから。

私の辞書は私にしか引けない。そこに書かれている言葉たちは、紛れもなく私専用。私にしかわからない言葉たちだ。


嘘をついて何かを受容し続けると、自分の何処かが痛みだす。

受け入れがたいことを無理に受け入れようとすることで、無意識のうちに違和感が広がり、自分自身を蝕んでいくのかもしれない。

そう思えば、誰かと衝突したり、ぶつかったりするのは、その根っこに悪意やいじわるな心がなければ、健全な関係なのかもしれない。

相手のことを想い考え続けることができれば、いつかまたわかり合える日がくる。そんな関係もあるだろう。

そういえば私が人生でたった一人、10代の頃にけんか別れして、それっきりになった友人がいる。未熟だったあの頃の私に言ってあげたい。

「紛れもなく私はあの子を愛していたよ。素直になれなくてごめんね」