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私が私である為に〜シーベリーのシンプルな言葉に励まされる

日本に生まれながら、浮世絵については疎く、葛飾北斎のことも実はあまりよく知らない。

かろうじて、北斎といえば「富嶽三十六景」でしょう、と思い浮かんだものの、最近はこの作品を「神奈川沖波裏」と表記すると知って驚いた。そのきっかけとなったのが、テレビ番組「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」に出てきた博士ちゃんだ。

番組では、特定の分野に詳しい子どもが「博士ちゃん」という先生役になり、リポート形式でマニアックな知識を披露しながら、好きなジャンルについてわかりやすく紹介してくれる。

お正月特番を見て、私は北斎についてもっと知りたい!純粋にそう思った。

オランダにあるライデン国立民族学博物館にはシーボルトが持ち帰った葛飾北斎の浮世絵が収蔵されている。そのことから、ライデン市では北斎の認知度が高いのだという。

モネやゴッホ、その他の印象派の画家たちが北斎の浮世絵をうけたという話は、どこかでおぼろげに聞いたことのある話だったが、肝心の北斎については、これまで全く興味がなかった。

しかし、13歳の博士ちゃん「目黒さん」の北斎への尊敬と「自分も北斎になりたい!!」という圧倒的な熱意を画面越しに感じ、番組を見るうちにどんどん北斎に興味が湧いた。

博士ちゃんの魅力は、単に「子どもなのに大人よりも知識があって、詳しくて凄いこと」ではない。

それはもう嬉しそうに、楽しそうに、満面の笑みで対象のテーマについて語る姿。知的好奇心に溢れ、情熱的。博士ちゃんは「教えること」そのものが目的ではなく、「知っていて詳しいから話せる」というスタンス。だからこそ、知識の押し売りに感じず、純粋に「へぇ〜、それでそれで?」と相槌を打ちたくなってしまう。

満たされている人の夢中な話を聞くのは、それだけで楽しい。相手が本当に好きなものを紹介されると、説教臭くなく、こちらもシンプルにその情熱を受け取れるのかもしれない。

もちろん、好きなテーマについて「教えたい」とか「話したい」という想いも含まれているだろうが、それは木で言えば枝の話で、「自分が知りたい、見たい、楽しい」という好奇心の幹があるからこそ、見ているこちらも引き込まれてしまう。

らしさってなんだろう?

何かについていきいきと語る姿は、その人らしさを強調する。

今日私が呟いた言葉は、まさに博士ちゃんのことを想像しながら自分に向けて書いた文章だ。

私にとって北斎を好きになるメリットを訴求されたわけでも、論理的に北斎の良さを説かれたわけでもなく、ただただ博士ちゃんの情熱に圧倒されて北斎に興味がわいた。

そして、「あぁ、自分で自分を満たしている人の言葉というのは、大人とか子どもとか関係なく、こんなにも人に影響を与えるものなんだな」と感じた。

しかし誰もが、博士ちゃんのようにいきいきと語れるものがあるわけではないだろう。

では、何かに熱中できる対象がなければダメなのか?というと、もちろんそんなことはない。

社会学者の加藤諦三さんは、次のようにシーベリーさんの言葉を紹介する。

アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーは、「人間の義務はただ1つ。自分が自分であること。他の義務はありません。あなたがあると思っているだけです」と述べています。

中略

「自分が自分であること」が唯一の義務というのは、そういう人は本当に人の幸せを願うことができるからです。ところが自分でない人生を生きている人、自己疎外の人というのは、人の不幸を喜ぶようなことをします。

「模範的な生徒だった」 罪を犯してしまう人の危うい成長過程(PHPオンライン/加藤諦三)

「自分が自分であること」というのは、何よりも大切なことだ。「多様性」という言葉で自分と他人のモノサシを比較する前に、自分がどんなモノサシを持っているのか、それを自分自身で認識することの方が先なのではないかと思う。

無意識に生きるなとは言わない。
常に考え続けようとも言わない。

そうではなく、無意識のうちに、考えもせずに、誰かの価値観に合わせたり寄り添ったりして、苦しい思いをすることこそが問題だと思うのだ。

本音と建前を意識的に使い分けられるうちはまだいい。

本音が建前に侵食されて、建前が本音なのだと、自分で自分を勘違いしてしまう状態こそが、何よりも危険なのだと思う。

そうならないためには、考えすぎたり、人に気を遣いすぎないことも大事なことだろう。

結局ぐるぐる考えてみたけれど、最初に感じた直感が一番しっくりくる。人生の大事な決断の際、そう思ったことが度々あった。

博士ちゃんみたいに秀でた何かがなくったって「自分が自分であること」なら、私にもできる。

シーベリーさん、分かりやすい言葉をありがとう。シンプルに戻っていくことを意識してみるよ。