「気付く」は人生のテーマかもしれない

誰かと意見が対立したとき、話し合いで解決できない人がいる、というのは、人と対峙するときに念頭に置かなければならないことだ。

人は誰しも善悪二元論に囚われる瞬間があると思う。自分はそうではないと思っても、誰でもその思考に陥る可能性はあるし、私にもそういう面はあると自覚している。

私は時々、正論を言うなと揶揄されることがある。しかし私の場合、善悪と自分の快不快は全く別のもので、自分が不快だと思ったことがたまたま正論だっただけだと思うことがある。

もともと私が不快だと思っていたことも、人と話をしていて、そういうケースなら不快ではないかもしれない!と、簡単に考えが覆る瞬間があるからだ。それはまさに、私が善悪ではなく、快不快という主観的な判断をしているからにほかならない。

相手の行動が良いか悪いか、善か悪か、正しい行いか、過ちなのかを裁きたいわけではない。

自分がされて嫌なことは、不快だよと伝えるし、無意識のうちに自分がしていることでも、相手が不快に思っているなら、不快だから止めてねと伝えてほしいと思う。

そうやって、お互いに居心地の良い関係、空間を話し合いながら築いていきたいし、そうでありたいと思ってきた。

もちろん、全て相手に合わせるとか、反対に自分の快を通すことはできないとも思っているし、快不快だけを判断基準にしていては、社会生活は営めないから、時には善悪に戻る瞬間も必要だとも思う。

生活を営むと考えるとき、もともと持っている快不快の感覚が近い人のほうが、一緒にいて居心地は良いのだろうし、疲れることも少ないのだと思う。それでも誰かを知りたいと思うことは止められない。止められないからこそ、日々「気付く」ことを大切にしたいと思う。気づき、気付く。他人に対する配慮や気遣いは、最初からできるものではない。何かに気付いて、寄り添う気持ちがあるからこそ、できることなのだと思う。

その際コミュニケーションの上手い、下手は関係なく、ただただ、相手と向き合う気があるか?それだけのことなのだと思う。