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なんで努力しないのか❓と聞かれて

子どもさんをお相手に講話をする場合…ほとんどは 『車いすで生活するのは大変そう』 もしくは、 『身体が自由に動かないなんて、かわいそう』 というような…私に同情する感想を持つお子さんが大半のようです。 まあ……小学校や中学校などでは まず最初に 《自分のことは自分でやりましょう》 《すぐ諦めずに最後まで頑張りましょう(やり遂げましょう)》 のように、いわゆる…… 《自助努力》 を、生活の基本として教わりますから… 自分の事も、自分で出来ない。他人の力をあてにしなければならない

    • 誰のための講話か

      福祉講話の話し手として、気がつけば随分長く……実に20年以上も活動を続けてきました。 八王子市内の小学校や中学校が主な訪問先であり、道徳の時間や、総合的な学習の時間などにお呼びをいただいて授業の講師をさせていただきました。 学校さんからの依頼に比べれば、数は少ないものの……、 これまでには、市内の町内会さんや、民生委員さんの集まりの場など、大人の方に向けても、お話をさせていただいた経験もあります。 また、それなりに長いこと講演講話の依頼を引き受け続けていると、 八王子から離れ

      • 怖い話を……

        学校訪問にお招きを受けた学校さんで、 『怖い話をしてください』 とお願いされたことがあります。 さすがに…福祉講話の授業の場で、真っ昼間から稲川淳二先生みたいな真似をするのもおかしいだろうと思い… 「子どもさんが喜んてくださるなら、それもやらないことはないですよ。楽しんでもらうことも大切ですからね。 でも、怖い話をするんであれば、別に私でなくても良いのでは?」 と、担任の先生に質問しました。 私はあくまで車いすユーザーであり、福祉講話の話し手です。 一切の笑いもなく、静まり

        • 痛快な一言

          最近あった学校訪問のやり取りにてのご紹介になります。 この時に訪問したのは、八王子市内でも比較的新興の住宅地…… 平成に入ってから整えられた地域への訪問でした。八王子市内の中心…旧市街地となると、創立50年や60年どころか、探せば100年越えの学校さんもチラホラあるため… 街並みとしては『まだ若い風景』と言ってしまっていいのかも知れません。 今回の学校さんへは、通算4度目くらいの訪問でした。 コロナ過の最初期にも1度お招きにあずかりましたが、あれから急速な感染拡大など色々あ

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          辛くても、なおのこと

          私は、産まれつきの脳性まひによる、重度の身体障害者ですが…… 義務教育の9年間は普通学級でした。 当時は、障害に対する社会の理解が乏しい時代だったという事と、どちかと言えば、私の意思より親の意思で通学が決まったことなどから、 教師からも同級生からも、ネチネチといじめられた経験があります。 当時はほんとに辛かった。 子どもながらにも、ぼんやりと『死』を考えるくらいに辛かった。 それでも……今となっては、あの時、無理してでも頑張って普通学級に通っておいて良かったと感じています。

          辛くても、なおのこと

          スマートモビリティ

          とある学校訪問の時の一コマ… 『mitsuguさんの乗ってる車いすは、どこで売ってるんですか❓』 というご質問。 その日のお相手は、一番依頼件数の多い学年…いつもの小学四年生から、さらに小さい、小学三年生の子どもさんでした。 心身の成長が著しい時期の子どもさんは、たった一学年、学齢が下がるだけでもかなり小さく、より幼く見えてしまいます。 私が学校訪問に出かける時は、いつもその場に適切な言葉の表現選びや言葉使い、話す早さなどに苦心するのですが… この時は、普段の講話より少し幼

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          楽園ならざる場所だからこそ

          学校は楽園であってはならない。 あえて……あえての表現で、乱暴な言い回しを許していただけるならば…… 学校という場所は、子どものための遊園地であってはならない。 というのが私の持論です。 この場合、遊園地という表現は、楽しい場所、楽しませるサービスのある場所。 という意味になります。 では何をするかと言えば、辛いこと、苦しいことを学び取る場であると私は認識します。 いわゆる、子どものわがままが抑えられ、好むと好まざるとに関わらず、集団の論理で一日の物事が進む。 その実態を学

          楽園ならざる場所だからこそ

          教育は幸せの近道

          教育って、誰のものだろう? 障害のある子どもに、教育なんか受けさせても無駄… という人が、今でもたまにいます。 それでも、かつての昔に比べたら、そんなことをわざわざ口に出す人は、だいぶ減ったと思うのですけど… いや…声に出して、文字に描いて伝えていないというだけで、心の中でこんなことを考えてる人は、いまだにかなり多いような気がします。 私がまだ20代の若い頃… 『障害児に教育は必要ない』 と、目の前ではっきり口にした人たちは、みな口々に… 『障害児に勉強を教えるには手間も

          教育は幸せの近道

          『私を抜きにして、私の話をしないで』

          以下に私がお話することは、どのような障害があるか……という障害の種別に関わらず、何らかの障害がある、という方であれば、どなたにも少なからず、お身の上に覚えのあろうか……というお話だと思います。 どなたかの付き添いの人……ボランティアさんやヘルパーさん、または友人、知人、ご家族などと一緒に、私のような障害者が外に出かける場合に…… 障害のある本人……つまり当事者を抜きにして、駅員さんやバス・タクシーの運転手さん、銀行や病院の受け付け窓口の人……といった周りの人が、まず先に付

          『私を抜きにして、私の話をしないで』

          『変態』とはなんぞや

          かれこれ20年あまりも、学校訪問の活動を続けていたりすると、訪問先で出会う子どもさんからも、それはそれは様々な言葉を投げかけられることがあるものです。 電動車いすに乗った姿で子どもさんの前に出れば、『動けないなんてかわいそう』 『歩けないなんて大変そう』『自分だったら耐えられない』 …そんな…悲観的というか同情的な反応が返ってくることもしばしばです。 ですが私は、それを窘めたり、感情に任せて怒ったりすることは、しないようにしています。 正直すぎる子どもさんの反応に、内心ムッと

          『変態』とはなんぞや

          優しさを失わないでくれ

          『優しさを失わないでくれ』…… このフレーズは、古い特撮が好きな人……その中でも、ある特定の年代の人であれば、すぐに『あれだな』と気がつく言葉だと思います。 この言葉…… 『優しさを失わないでくれ。弱いものをいたわり、互いに助け合い、 どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。 たとえその気持ちが、何百回裏切られようと。 それがわたしの最後の願いだ』 というように続きます。 1972年から1973にかけて放映された特撮テレビドラマ《ウルトラマンA(エー

          優しさを失わないでくれ

          人を信じる 何かを信じるということ

          『信じる』ことの危うさと大切さについて 私は小、中学校の時は養護学校でなくて地域の普通学校に通っていたのです。 それなりに仲の良い友だちもできました。学年の小さい最初のうちはまあまあ楽しくやれてた時期もあったのですが… 私と仲の良いホントの友達だと思っていた同級生も…私と話すときと、健常者同士の友達と話すときとで明らかに態度が違う…って事に気が付いてしまったのですね。 みんな、どこかよそよそしいというか… ある程度歳を取った今にして思うに、当時の私はクラスの中でも、いわゆる

          人を信じる 何かを信じるということ

          一番の当事者は…

          もし、身体的な障害が治療可能となる技術が、この先の未来において確立されたとして… その治療は、成されるべきだろうか? という議論は…同じ障害当事者の間でも時々、議論の種になります。 当然ながら、肯定派と否定派に分かれる訳ですが…大雑把に分けてしまうなら、 『当人が持って生まれた障害は、人種や性別と同じく、当人にとっての《個性》であるからして、軽々しく手を加えるべきではない。 また、障害が、治療可能になったとして…それはまた《障害者は産まれてくるべき存在ではない》

          一番の当事者は…

          幸運な誤解

          親子であっても他者である 私のような幼少期からの先天性障害児… 成人すれぱ障害者…にとって、親というのは、最初にして最大の支援者であります。 しかし、『障害者と健常者』という枠組みで考えた場合… 親は健常者でも子には障害があるわけで 当然ながら親子や家族であっても、思考は個別のものであります。 しかし、だいたいの場合…私もかつてはそこに悩んだのですが… 『親と子は運命共同体』 という認識から、どうしても離れられず、なかなか分かち難く考える場面が多いのではないでしょうか? 私

          幸運な誤解

          講話活動20年目にして思う

          自分が要らなくなる社会 講演講話に招かれます話し手などと言うものは、その場では… 『よく来てくださいました』『ありがとうございます』 という風には、一応、どなた様からも感謝をいただいたりはしますけれど… なかなか、お話をしたその後の、その成果というものが、どうしても見えてこないお仕事であります。 『これまでに自分のしてきた講話が、一体どれだけ人様のお役に立ったものであろうか』 とは、私もしばしば悩むところですが… よく考えてみれば、『役に立つか立たぬか』というのは… 私に講

          講話活動20年目にして思う

          子どもをどうにかする前に、大人がどうにかならないものか

          障害の当事者として20年あまり、地域の公立小中学校で講演講話の活動を続けております。 子どもさんお一人おひとりの反応に不満はなく…学校の現場でうっかり自分の内心を見せることはありませんけれども… 講演講話の現場で、どうにも困惑させられるのが… 『身体が不自由なmitsuguさんは、一生懸命に頑張っていて偉いと思います』 であるとか 『mitsuguさんを見習って強く生きていきます』 という感想の言葉であったりします。 もちろん、子どもさんが私という人間と出会ってどういう感想を

          子どもをどうにかする前に、大人がどうにかならないものか