どうやってアフリカに出会ったのか。

改めまして関谷 拓朗(せきや たくろう)と申します。

モザンビークに住んでいます。モザンビークはアフリカ南部にあります。南アフリカ共和国の北東、地図上では右上です。兵庫県神戸市は北区の出身です。1982年4月26日生まれです。この文章を書いている2022年12月現在40歳です。独身です。モザンビークの首都マプトにて教育事業を展開しています。この文章では私のアフリカとの出会いやなぜ教育事業なのか、などについて書いてみたいと思います。

アフリカを意識したタイミングは創価大学入学時、キャンパスのはずれにあった学生寮、滝山北寮に入寮した時です。隣の部屋の栗政くんがアフリカを研究するサークル(パンアフリカン友好会)に入ると知ったときです。当時私は高校から始めた吹奏楽に夢中で将来の目標は、教員になって吹奏楽部の顧問になって全国大会に行くだったので、アフリカの研究をするということのピンとこなさが逆に新鮮で印象に残っています。

次にアフリカを意識したのは大学2年生の後期です。吹奏楽団で自分には音楽の才能はあんまりないということを知り、教職関係の授業は全然興味が持てず、教員になるのはよそうかなと思っていたタイミングです。ただ部活以外に特に何もやっておらず、部活を辞めたら自分の大学生活に何が残るのだろうか、と悩んでいました。特筆すべきエピソードもなくこのまま大学生活を終わるのはもったいない、と考えていました。非常に安易なのですが、留学したらいい感じに全部解決するのではないだろうかと留学センターに行って交換留学先一覧を見ました。当時たしか世界中に100校以上提携先があったと思います。英語しか勉強したことがなかったので英語圏、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの先進国は競争が激しそうだからそれ以外でどこかないか探したところアフリカがありました。見た瞬間に思いました「おもしろそう!」と。アフリカの文字が光っていました。試験はTOEFLと面接です。基本的にTOEFLの点数で決まると言われていました。提携先にはガーナとケニアと南アフリカがあったのですが試験のタイミング的にガーナが一番準備に時間をかけることが出来たのでガーナにしました。

 2年次の終わりにはフィリピンでの語学研修に参加しました。仲間にはすでにケニアへの留学が決まっている人や後に交換留学で世界中に派遣される人たちがいて大いに刺激を受けました。ちなみに当時英語がどういうレベルだったかというと、レストランでcheckっていうとお会計をしてくれる、ということに新鮮に驚くレベルでした。帰国後の三年次前期は吹奏楽団を退団し教職課程をとるのも辞め、楽しそうな授業を取りつつTOEFLの準備を進めました。夏にはTOEFLの足切り点を無事にクリアし、三年次後期に交換留学の試験を受けて合格しました。ガーナ留学の枠は二人分ありました。三人が面接に進んだのですが三人ともTOEFLが同点だったのですがありがたいことに合格しました。成績は全く誇れるようなものではなかったので、安全面が考慮されて男性である私が優先的に選ばれたのかもしれません。当時三年次だった私にとって交換留学試験のチャンスはこの時が最後でした。当時は個人でアフリカに行くほどの強い動機はなかったので落ちたらそのままアフリカとの縁は出来なかっただろうと思います。

留学が決まった三年次のほぼ終わりに、栗政くんがいるパンアフリカン友好会に入れてもらいアフリカについて勉強させてもらいました。入ってすぐに引退になったのですが今でもパンアフの人たちと仲良くさせてもらっています。パンアフリカン友好会の皆さんのサポートもあり様々アフリカのことを勉強しました。当時は(今もかもしれませんが)ガーナに関する日本語の文献というのは限られていて、アジア経済研究所から出ている高根務先生の『ガーナのココア生産農民』と同じ著者の『ガーナ 混乱と希望の国』を繰り返し読んだ記憶があります。

 同期の人たちが卒業に向けて準備を進める中、4年次後期から留学しました。ガーナ大学では成人教育学部というところで1年間勉強しました。留学生として勉強しながら同じ教室で夜間に行われていた成人識字教室にもボランティアで参加しました。学齢期に教育の機会を得られなかった方がガーナの公用語である英語を勉強する場所です。10人ちょいの小さなクラスなのですが生徒さんが毎晩楽しそうに通学している様子を見て勉強するってステキなことなんだなと素直に思いました。またもう一つ印象に残っていることがあります。学生寮の小間使いの若い男性なのですが、話しているとしきりに「スクー、スクー」と言うのです。よく話を聞いているとスクールのことで、学校に行きたい、学校に行けば俺の人生は変わるんだというようなことを毎回言っていました。彼の中では学校が神格化されており、学校にさえ行ければ人生が好転すると思っているようでした。彼は会うたびに「スクー、スクー」を繰り返していました。実際の話、当時のガーナや今のモザンビークでは学歴による選別がかなり強く、大学を卒業しているかどうかによって就ける職が全然違うということは実際にあります。その辺りは日本よりも厳しい印象です。他にも様々な経験を経て将来はアフリカの教育関連の仕事に就きたいなと思うようになりました。しかし大学にいて、教育機会の普及だけでは問題は解決されないということもよく分かりました。ガーナ大学はガーナで一番レベルが高い大学なのですがそこの卒業生ですら仕事探しに苦労をしており高学歴失業が問題になっていました。仕事に就けても、ある程度経験を積むとイギリスなどへより高給な仕事を求めて移動してしまいガーナに残らないといった問題もよく耳にしました。教育が大事なのですが教育だけにフォーカスするのでは不十分ということも学びました。
 
そんな感じで留学を終え、意気揚々と帰国し自信満々で青年海外協力隊(村落開発普及員)を受験して落ちてそのまま無職で卒業しました。隊員の募集は年二回で在学中にもう一度チャンスはあったのですが受験しませんでした。隊員の受験に落ちたあと、パンアフリカン友好会の当時の顧問であり現顧問でもある西浦先生に相談に行きました。一通り私が考えていたことを伝えてると、「誰かに進路を決めてもらいたいと思っているのでは。影響を受けるのはよいが自分なりに咀嚼しないと、つらい時にその人に責任を押し付けてしまうことになる。自分の行きたい道に行きなさい」というようなことを言われました。恐らく非常に表面的な、自分の言葉になっていない言葉をしゃべっていたのだろうと思います。その指摘を受けて、もう少し勉強させてもらおうと思い大学院に行くことにしました。

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