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21 学んでも従わない

 前回はもし自分の外側の基準で人生の目標を定める事によって輝かしい結果を得たいのであれば失うものも大きいという話でした。今回はどうしてそうなってしまうかに焦点を当ててみたいと思います。

 皆さんは何かのスキルを身に付けたい時には学校のような教育機関へ行くか誰かに教えを乞うというのを考えるでしょう。ではそこで皆さんは何を身に付けるのでしょうか? まずはスキル、そして知識かもしれません。ただ、そこにもれなく付いてくるのは他人に従う習慣です。特に日本ではその傾向がとても強いです。

 私が知っているある国の学校はその点で日本とはまるで違いました。それが良い悪いはここでは問題にしません。あくまでも違うという事です。その国の先生は日本人から見ますと非常に冷たいです。これは小学校の例ですが、カリキュラムに従って先生は教室に来ます。先生は教壇のところに立って用意してきた事を喋ります。終わり。時間が終われば出て行きます。生徒が理解したかしないかは知りません。それは生徒側の責任事項だからです。そして期末試験があり、点数を取れないと落第と、クールなやり方です。知識を頒布するのが学校の目的であればこのやり方でも学校は成立します。

 さて、日本の学校はこうではありません。わかりますか? 日本では先生の教育への熱心さは生徒に「従わせる」という形となって現れがちです。(全部の先生がそうではありません) 例えば、テストの回答でも先生が用意した答しか認められず、これでも回答としては不正解ではないよねと思えるものでも不正解にされるというケースがあります。生徒としては点数を先生に依存している以上従わないわけにはいきませんから、多少おかしいなと思っても受け入れるしかありません。また、成績表とは別に内申書というものがありますが、これは先生が点数基準に依らずに付ける部分があるという事で(今現在は変わったかもしれません) 私の時代は、良い学校へ進学する為に先生に良く書いて欲しいと望んだものでした。もうその発想がある時点で先生は神様という事になります。

 同じような事は会社に入ってもあります。会社の場合、新人は何も知らない、何もできない人という前提で採用されます。そして上から下まで同じ仕事をする、つまり機能としては同じで経験年数だけが違う人がいる部署に配属されます。そこでゼロからやり方を習います。そこには先輩、後輩という序列が出来ていて、つまりは学校の先生と生徒と似た関係が成立しています。こちらなどは習う要素よりは従う要素の方がより多いのです。

 そうした関係の中に身を置きますと、必然的に「習う」には「従う」が自然な顔をして付いてきているのです。そうして気付かないうちに自分自身の目標や理想像を他人のそれに重ねて見てしまうという現象が起きてきてしまうのです。早く言えば乗っ取られたと言って差し支え無いかもしれません。

 ですから、何か習う時には意識して、「習う」と「従う」を分けて考えなくてはならないのです。

 その二つが分離されていないのが今の日本の社会では大前提ですし、分離していない方が会社や社会や学校にとって好都合なのです。ですから企業はスキルは無くとも従順な人を常に採用しているのです。従順な人でなければ花見の席を先に行って取っておけ、なんて言えませんよね。冗談のようですが・・・

 自分の人生の目標は会社や学校、そして先生や先輩は絶対に決めてくれませんから、この事は少し気に留めておいてはどうでしょうか?

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