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14 シジフォスの糞ころがし

 私が小学校の低学年の頃か幼稚園の頃か覚えていませんが、先生が子供たちにありがちな質問しました。「大人になったら何になりたい?」当時はこれは本当にありがちな問いで、大人は皆、判で押したようにこの質問をしました。子供たちは(自分も子供でしたが) こちらも判で押したように答えていました。「おまわりさん」「お花屋さん」「パン屋さん」「野球の選手」のように。とは言え、子供に職業を聞いたところで知っている職業名などたかが知れていますのでそんなものしか出てきません。子供心にどれだけ本気で思ってるんだか?とは考えるわけです。でも親や先生にどうにかウケる答えをしなければいけないという心理も働いて「学校の先生」などと答えてしまう自分もそこにいました。

 でも、今となってはそれを本気で信じている子だけがなりたい職業に就けるというのも事実としてあります。イチローや松井やスポーツ以外でもきっとそういう人はいるでしょう。その意味では私は彼らのようになる資格は完全に無かったという事ですね。別になりたくは無いのですが。

 ここまでは余談です。それで、子供の頃、もう一つ思った事がありました。もし本気でパン屋さんになりたい人が多くて、本当に皆がパン屋さんになってしまったら、八百屋さんや魚屋さんは無くなって困るのじゃないかな?と。でも現実には八百屋さんも魚屋さんも床屋さんもあって困ってはいないなあ。でもずっと後になったら町中がパン屋さんになるって事はないのかなあ?

 世の中の事を何も知らない子供の考えですから許してあげてください。(私ですが) もちろん子供の頃にはその疑問に答えは出ませんでした。ですが、ずっと後になってその疑問が杞憂だとわかりました。なぜかお分かりですか? 簡単な事でした。世の中は例えて言いますと、食品を入れる平たいバットの中に格子状の間仕切りが入っているようなものでした。その格子で区切られた区画に豆が一定数入るようになっています。そこにたくさんの豆をバラバラと落とします。盛り上がってしまったところは棒が間仕切りの上をスライドしてきて他のまだ空きがあるマス目に強制的に落としてしまうのです。だからパン屋さんのマス目は盛り上がったままにはならず、盛り上がったところの豆は魚屋さんや床屋さんに入るというわけです。

 これで世の中はパン屋さんだらけにも野球選手やサッカー選手だらけにもならないとわかりました。ですが、実際はそれどころではありませんでした。パン屋さん以外でも、ほとんどの人が好きな職業に就けないのです。

 それもそのはずです。そもそも仕事という言葉に好きな事を好きなようにやるという定義は無いのです。ですから、私たちは時々、自分は何のために、なぜ仕事をしているのだろうと考えてしまうのです。そしてその問いに対して答えも用意されてはいます。

 ですが、答えを探さなければならない時点でおかしな事と言わざるを得ません。なぜなら私たちはそれを知らずにこのシステムの中に身を置き、既に加担してしまっているのですから。後からそんなはずではなかったでは通りませんが、この社会はそうした事を当たり前として考えたり認識させてはくれませんでした。「○○ちゃんは大人になったら何になるの?」と、何かになるのがさも当然であるかのように思わせているのです。

 徳川家康はこう言っています。

 驚きます。あの将軍にまでなった人が人生は苦行だと言っているのですから。

 と思いきや、誰かが勝手にイメージ操作していたとの報告もあります。とりあえず、この社会は私たちに自らの好きな事を一所懸命やるよりは社会や組織の為に自分を捨てて生きなければならないと思わせたいのです。そう考えますと、この社会はほぼ全員がシジフォス(シーシュポス)の労働社会であると言えそうです。

 しかも、どうせやるならもうちょっと効率的に、やっても成果に繋がらないやり方は改めてより良い方法で、新しい機械に置き換えて、などという事さえ認めずに江戸時代のようなやり方で長時間汗水垂らしながらやれといわれる場合も多いでしょう。シジフォスの労働に近いものを感じますけれども、シジフォスの場合は岩ですから運んでいる間に少しづつ欠けて小さくなるかもしれませんが、私たちの仕事はやればやるほど大きくなってしまうと考えればどちらかと言うと糞ころがしに近いかもしれません。

 ですが、この社会システムを全否定しているのではありません。少しは世の中を進展させているのを認めないわけにはいきませんから。視点は常に自分自身の人生に置いて考えましょう。

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