神谷文太なる人物について-南方熊楠資料から-

Theopotamos(kamikawa)氏の「南方熊楠詣を行っていた?謎の男・平澤哲雄」
https://note.com/theopotamos/n/ne28ef7f9c5be

上記の投稿に「神谷文太」なる人物がでている。
この人物は南方熊楠が植物研究所設立の資金集めに上京した際に東京駅に迎えに来ている。

「上京日記」 南方熊楠全集

熊楠の「上京日記」(『南方熊楠全集』第10巻 42ページ)によると、神谷は
  この人は三河生れ、年来東京方面における舎弟商売取引の世話をなし、現に舎弟が深川に建設中のアイヨン・ビール製造工場を監督さる。

とある。そして、度々熊楠の宿泊先を訪ねてきている。
ここで熊楠のいう舎弟とは、実弟の南方常楠であろう。当時「世界一統」が深川区にビール工場を建設しようとしていたことがわかる。
 さらに神谷が何者なのかわかってくるのが、熊楠の研究協力者である上松蓊へ宛てた1940(昭和15)年の書簡である。

  深川支店頭たりし亡神谷文太(上松蓊宛 昭和十五年三月十二日書簡 『南方熊楠全集』別巻1 294ページ)

これにより神谷は、世界一統のビール工場で支店長をしていたのだろう。しかし、この内容では昭和15年以前に亡くなっていることしかわからない。
ちなみに、このビール工場らしきものは、雑賀貞次郎に宛てた熊楠書簡にも出て来ている。

 深川区に小生弟のラムネ工場あり。多分全滅と存候。 又小石川区に小生の姉と其子(大学院就学中にて其妻は小竹氏の姪なり)住む。これもどうなったか知れず(雑賀貞次郎宛 大正12年9月6日 『改訂南方熊楠書簡集』 p.166)。

このように書かれている。
この他、神谷に関するエピソードとしては、1922(大正11)年に熊楠が和歌山へ帰郷する際に神谷も同行している。

 神谷氏は例の石友案内にて拙妻および女児と鉛山温泉に遊び、石友と二人留まりて一宿の末、翌日もまた留まり、田辺近郊の勝景を巡覧、十八日午後和歌山へ上り申し候。
 その節神谷氏に当地名産古谷石ふるやせき一箇を托し貴下へ呈し申し候(上松蓊宛 大正十一年八月二十一日書簡 『南方熊楠全集』別巻1 88ページ)。

神谷は石友(佐竹友吉)とともに鉛山温泉すなわち白浜で温泉に入り宿泊している。そして和歌山へ行ったようだ。
この時熊楠が古谷石を渡したが、神谷は持って行けないと返却している。この時神谷は世界一統の本店へ行き、ビール工場建設の過程などを報告したのだろう。
 神谷の没年に関しては、1923(大正12)年の関東大震災が関わっているようにも思うが、史料の裏付けはない。

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