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型の解釈と改変

学生の頃、大学の図書館で『ニューヨーク・タイムズ』の音楽評論を長く担当していた名物評論家、ハロルド・ショーンバーグの『偉大なピアニストたち』という本を借りて読んだことがある。

もう細部はうろ覚えだが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンといった、著名な作曲家――彼等は同時に当時の一流のピアニストだった――から、20世紀のホロヴィッツといった巨匠まで、名ピアニストの生涯や逸話が興味深く紹介されていた。

もうその翻訳本は絶版になって、いまは下記にあるように『ピアノ音楽の巨匠たち』という題名で新訳が出ているようだ。

この本に確かこんなエピソードが紹介されていた。19世紀、ヨーロッパでは演奏家たちがしばしば作曲家の楽譜を「加筆」して、自分勝手に演奏していたこと、その当時は原作者(作曲家)への敬意が乏しく、楽譜に忠実に――つまり作曲家の意図した通りに弾くべきだ、という意識が希薄だったことなど。

現代のクラシック音楽の演奏家で、楽譜を勝手に改編して演奏するとかは考えられない。そもそも楽譜通りに演奏しなければ、コンクールにも合格できないし、一人前の演奏家として認めらないだろう。(もちろんジャズとか、アレンジが認められているジャンルの演奏は別の話である)

いまは全く逆に、演奏家はいかに作曲家が楽譜に込めた意図を忠実に読み取るかに多大な情熱が注がれている。ある演奏家は「作曲家の手書きの楽譜を見れば、その筆致から印刷された楽譜では読み取れない意味が明らかになるのではないか」と考えて、わざわざヨーロッパの某図書館に通って自筆楽譜を眺めている様子を、以前テレビのドキュメンタリーで見たことがある。

もちろん「楽譜通り」に弾いたところで、皆が同じ演奏になるわけではない。そこにはその人の「解釈」が入るから、やはり演奏に個性が出る。だから、現代では演奏家は「改変」はしないが「解釈」はする。それは原作者への敬意と自己表現の融合である。

さて、19世紀の改変された演奏はいま聴いたらどうだろうか。ブゾーニ編曲のバッハなど、ごく一部の例外を除いて、大半は聴くに堪えない代物である。だから、そうした編曲が今日演奏されることは稀である。結局、19世紀の演奏家がしていた行為は、いわば名画に落書きするような行為だったわけである。

空手も明治以降、「近代化」の名目で改変されてきたが、前世紀末あたりから古流への回帰を目指す動きも出てきている。日本だけでなく、海外の空手家にもそういう人たちが現れてきている。改変されたものよりも、オリジナル、あるいはそれが分からなくても、できるだけオリジナルに近いものに、より深い何かがあるのではないか、と考える人たちがいる。

残念ながら空手には「楽譜」に相当するものはなかった。伝書がなく口伝で技が伝えられてきた。だから明治まで生きた松村宗棍の型ですら、もう断片的に直弟子が語る話でしか伺いしれない。そして、「ナイハンチの変遷」の記事で紹介したように、松村先生が伝えた型も、当時すでに糸洲先生によって改変された。

もちろん、封建時代の武芸家ならば実戦の経験から型(形)の改変は許されたであろう。そして、それまで学んだ流派を離れて一流を立てて自ら流派の開祖となった。それは「古武道」や「伝統武道」と呼ばれるものがその当時は「同時代的なもの」であって、よりよい技法を目指して武芸者が技の向上を目指していた時代の話である。

しかし、封建時代ではない現代に生きる我々にとって、伝統武道とは先人が築き上げた到達点としての技を大切に保存しその継承を目指すことを主眼としている。

それゆえ、古流空手はもちろん伝統空手を標榜する流派に属する空手家は型を恣意的に改変してはならないのは言うまでもない。

人間には一人一人個性があるから、型の手順が公式に決定されていてもそこには個人による解釈の違いは存在する。しかし、それは改変とは同義ではない。

ときどき「これが松村の型だ」と自身の研究成果を加味して動画をYouTubeに投稿されている方がいるが、何の解説や注釈もつけずにそうした動画を投稿する行為は何が伝統で何が創作なのかをめぐって人々に混乱をもたらす。研究成果による改変ならばそれを明記したほうが空手研究の発展にとって好ましいであろう。

出典
「解釈と改変」(アメブロ、2016年6月30日)。note移行に際して加筆。


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