本部流

流派の歴史紹介及び空手史の考察。本部流は本部朝基が開いた本部拳法と本部家の家伝である本…

本部流

流派の歴史紹介及び空手史の考察。本部流は本部朝基が開いた本部拳法と本部家の家伝である本部御殿手の2つの流派の総称です。執筆者は本部直樹。 2023年4月、アメブロ「本部流のブログ」より移行。 https://www.motobu-ryu.org/

マガジン

  • 空手の歴史

    空手の歴史についての考察記事です。

  • 本部拳法

    本部朝基が開いた本部拳法に関する記事です。

  • 本部御殿手

    本部家に家伝として伝わる武術に関する記事です。

  • 日本武術

    日本武術についての記事です。

  • 沖縄の歴史

    沖縄の歴史についての記事です。

最近の記事

宮城長順の写真は偽物?

先日、新たに見つかった宮城長順の写真を紹介したが、この写真は偽物ではないかと一部で疑問の声が上がっていることを知った。 写真の宮城先生はほかの写真よりもふっくらして見え、ひげをたくわえているのも不自然だという。また撮影場所が本当にハワイかという質問もいただいた。 結論からいうと、この写真は確かにハワイで撮影された宮城先生の写真である。なぜなら、筆者は写真が掲載されている原本を確認しているからである。 この本を見つけたのは筆者ではないので書名は伏せるが、Facebookで

    • カキエの漢字

      ちょうど1週間前(2019年2月)、日本武道館で開催された日本古武道演武大会に出場して、そのとき控え室で様々な流派の演武をモニターで拝見していた。その中に剛柔流の演武もあって、東恩納盛男先生がカキエを演武されていた。 パンフレットを見ると、「カキエ(靠基)」と書かれていた。しかし、筆者は「靠」という漢字は初めて見たので、そのときこの言葉が読めなかった。あとでネットで調べてみると、音読みで「コウ」と発音するらしい。すると、靠基はコウキと読むのであろうか。中国ではカキエのような

      • 掛け手と夫婦手の関係

        夫婦手(めおとで)は、唐手の構えである。通常は前手に後手を添える形で構える。しかし、両手(両腕)を添える構え方はほかにもあり、構え方は一つというわけではない。夫婦手で重要なのは諸手連動の「術理」であって、この原理に従えばさまざまな構え方がありうる。実際、本部朝基は複数の夫婦手の構えをしていた。 さて、現在、夫婦手は本部流か本部朝基に教えを受けた人々が興した流派でしか見かけないようである。それゆえ、「夫婦手は本部朝基の創作ではないか」と疑う人もいる。 しかし、本部朝基だけで

        • 本部朝基は三男だから学校に通わせてもらえなかった?

          名声と誹謗中傷はしばしば表裏一体の関係にある。たとえば、本部朝基は若年の頃から「非常に武才がある」と松茂良興作に激賞され、長じてからも「三尺の童子にもその名を謡われている琉球武術の大家」(1)、「実践の強勇に至っては、郷里に誰も知らない人はいない大剛者」(2)、「(組手では)沖縄第一」(3)、「唐手実戦家ナンバーワン」(4)等と讃えられた。 一尺は長さの単位ではなく2歳半を指す。したがって、「三尺の童子」とは7、8歳くらいである。つまり、沖縄では物心ついた子供から大人まで

        宮城長順の写真は偽物?

        マガジン

        • 空手の歴史
          82本
        • 本部拳法
          21本
        • 本部御殿手
          27本
        • 日本武術
          13本
        • 沖縄の歴史
          16本

        記事

          松村の弟子:喜友名親雲上

          大正7年(1918)、本部朝勇は屋部憲通、喜友名親雲上、知念三良(山根のウスメー)等とともに、沖縄県師範学校で唐手の型ショーチンを演武した。ショーチンはソーチンのことである。 このときの演武は、『琉球新報』で「唐手の達人達」と題して紹介された。糸洲安恒が亡くなってから3年後のことで、彼らが糸洲亡き後の、当時の沖縄の武術界の頂点に君臨する人々だったわけである。 ところで、上記4名のうち、喜友名親雲上だけ今日あまり知られていない。顔写真も筆者は見たことがない。「唐手の達人」と

          松村の弟子:喜友名親雲上

          新たに見つかった宮城長順の写真

          Facebookをご覧のかたはすでにご存知かもしれないが、少し前に最近発見された宮城長順のハワイでの写真が海外空手家のグループの間で紹介されていた。 詳しい撮影場所や時期は不明だが、宮城先生は昭和9年から10年にかけてハワイに数ヶ月間滞在されていたので、その間に撮影されたのは確かである。 この写真の画期的な点は宮城先生が空手衣を着ていることである。意外にも宮城先生の空手衣姿の写真は少ないのである。筆者はほかに沖縄空手会館に展示してある1枚しか見たことがない。 黒帯は細帯

          新たに見つかった宮城長順の写真

          空手家最古の肖像画

          琉球王国時代の空手家の肖像画というものは少ない。少ないというかほとんどない。唐手佐久川や真壁チャーングヮーはどういう顔をしていたのであろうか。 そもそも琉球王国時代に描かれた肖像画というのは先日発見された国王の「御後絵」のような例を除くと、ほとんどないように思う。著名な政治家を思い浮かべても、蔡温はあるが羽地朝秀はない。「沖縄三十六歌仙」でも、いま思い起こしても一人も肖像画は残されていないように思う。本部御殿五世の本部按司朝救もその一人だが。 それゆえ、空手(当時はティー

          空手家最古の肖像画

          複数敵と戦うということ

          競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露されることはあるが、そうした演武目的以外で、複数敵と戦う稽古を普段からするということは一般的ではない。 そうした中で、本部御殿手は例外的に普段から複数敵を相手にした稽古を重視している流派である。 複数を相手にした稽古は、本部拳法にもある。実際、本部朝基は複数の敵に襲撃されたことがあったし、またそうした状況からいかに脱出し

          複数敵と戦うということ

          空手の突きと柔術の突きの違い

          空手の突きと柔術の突きの違いについては、以前アメブロのほうで述べたことあるが、最近SNSでその話題が持ち上がっていたので改めて紹介したいと思う。 例として中段正拳突きを挙げると、空手の突きの特徴は以下のようになる。 ・引き手に構える。しばしば引き手側から突く。 ・手首を内旋させながら手の甲を上向きにして突く。 ・親指は四指で握り込まないで、人差し指の上に置く。 これに対して、柔術の突きの特徴は以下の通りとなる。 ・引き手に構えない。 ・手首は内旋させないで突く。 ・親

          空手の突きと柔術の突きの違い

          嘘の型

          先日、名嘉真朝増先生の孫弟子の方から、少林流松村正統の祖堅方範先生が名嘉真先生からピンアン初段と二段を習ったという話を記事に書いたが、その方から祖堅先生の「白鶴」の型についても興味深い話を伺った。 YouTubeに祖堅先生の白鶴の型がアップロードされているが、実はこれは外国での演武で即席に創作した嘘の型だそうである。この話を名嘉真先生の孫弟子の方は祖堅先生の直弟子から直接聞いたという。 筆者は部外者なので真偽の判断はできないが、この話を伺ったとき、いかにもあり得ると思った

          山根流棒術の家元と師範

          Facebookで山根流棒術の伝系について質問があって簡単な回答をさせていただいたが、改めてブログでもこのことについて書いておこうと思う。 山根流は沖縄では明確に「家元(宗家)」を名乗った世襲流派である。下記の比嘉清徳先生に出された山根流の師範免許でも「家元 知念正美」の署名がある。 家元もしくは宗家は日本武道で使われる称号である。元来は世襲が大半だが、明治以降、武道が衰退して親族に後継者がいない場合、非血縁者の高弟の中から選ばれる場合もある。ただしその場合でも、先代家元

          山根流棒術の家元と師範

          型少数主義と松村宗棍の真髄

          以前、三木二三郎・高田瑞穂共著『拳法概説』(1930)に記載の屋部憲通の「型の数」の話を紹介したことがある。もう一度、同じ箇所を引用する。 上記によると、屋部先生は20年以上、二つの型しか練習していなかった。三木と高田はこの話を聞いて驚いた。そして、これこそ、空手の達人の有るべき姿であると感動したという。 屋部先生と親友だった本部朝基も「型はナイハンチだけでいい」という考えだったことはよく知られている。もちろん、実際には、白熊やセイサンやパッサイも教えていたが、それでもそ

          型少数主義と松村宗棍の真髄

          名嘉真朝増の影響力

          空手の歴史を研究していると、こんな疑問を抱くことがある。それはある流派の型がいつのまにか増えていって、その過程が明らかでないというものである。 たとえば、沖縄の小林流の開祖は知花朝信であるが、知花先生は何種類の型を教えていたのであろうか。小林流の道場の中には、50種類近い型を教える所もある。 実は小林流のある先生によると、知花先生が教えた型は以下の通りだったそうである。 ・ナイハンチ(初段~三段) ・ピンアン(初段~五段) ・チントー ・パッサイ(大、小) ・クーサンク

          名嘉真朝増の影響力

          舞方:空手と舞踊の融合

          本部御殿手では、以前より空手(剛拳)と琉球舞踊の関係を強調してきた。それは、琉球王国では空手も琉球舞踊も職業専門家によって担われていたわけではなく、士族によって――しかもしばしば同一人物が――二つとも担っていたからである。 いや、二者の「関係」どころか、二者が「融合」したジャンルがかつて存在した。それが舞方(メーカタ)である。音曲に合わせながら即興的に武術的な舞を披露するのが舞方である。 中国では、武術も舞踊もその評価が低く、清代には社会の最下層の人間がするものとみなされ

          舞方:空手と舞踊の融合

          型の解釈と改変

          学生の頃、大学の図書館で『ニューヨーク・タイムズ』の音楽評論を長く担当していた名物評論家、ハロルド・ショーンバーグの『偉大なピアニストたち』という本を借りて読んだことがある。 もう細部はうろ覚えだが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンといった、著名な作曲家――彼等は同時に当時の一流のピアニストだった――から、20世紀のホロヴィッツといった巨匠まで、名ピアニストの生涯や逸話が興味深く紹介されていた。 もうその翻訳本は絶版になって、いまは下記にあるように『ピアノ音

          型の解釈と改変

          宮城長順の新しい写真

          新しいと言っても、実は以前Facebookで紹介したことがあるので、そのときの投稿をご覧になったかたはすでにご存知だと思う。本部御殿の門中の松島弘明氏(元琉球新報記者)が出された本の中に、宮城長順先生のこれまで知られていなかった写真が含まれていた。 弘明氏の父、松島安男氏は戦前の那覇商業高校の出身だが、そこで空手を教えていたのが宮城先生だった。それで上記の集合写真に宮城先生が写っているという次第である。 松島家は、本部御殿5世、本部按司朝救の次男、松島親方朝常を系祖とする

          宮城長順の新しい写真