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安ファッションで上がる自己肯定感の正体を探る

美容とファッションに金をかけない人間である。正しくはそこに回す金がないのだが、他にかけたいものがある=見た目の優先順位が低いと同義なので、金をかけないという表現でたぶん間違っていない。なお見た目にかけないだけで、とんでもなく金のかかる人間だという自覚はある。キャンプとかカメラとか釣りとか車とか文房具とか。我ながら少し減らせよと思ってはいる。そのうち。

とはいえ、着られればいい、安ければいいかというとそうではなく、自分の基準を満たすものしか買わないし着ていない。その結果、安上がりであっても満足度は高く、ある種の自己肯定感を持つことができている。

全身無地でモノクロ・ノーブランド・なんなら古着も大活躍でシルエットはもっさり。けれどこの自己肯定感はなんだろう。
少なくとも、「ブランドもので気分がアガる」「流行の服を着て楽しい」「綺麗な色や柄を見るたびに嬉しくなる」ではない。なんせ年中天然素材のパーカーとシャツとデニム、良くてシンプルなワンピースだ。
お世辞にもスタイルが良いとは言えないし、顔だって真水のように薄い。どう考えても鏡に映る姿は関係ない。
では一体なんなのか。

圧倒的に、自由

私が服や靴を選ぶ基準のひとつが耐久性と実用性だ。10年ほど前から化繊の肌触りが苦手になってコットンや麻ばかり選んでいたのだが、そのうちに天然素材の頑丈さに気がついた。どれだけ洗ってもへたらないのにどんどん柔らかく、着心地が良くなっていく。靴も同様で、足首をすぐ痛めるためにできるだけ負担が少なく耐久性に優れた靴ばかり選んでいたら、ゴツいショートブーツとスニーカーばかりになった。

ヘビーウェイトのコットンのパーカーにしっかり馴染んだデニム、厚底のショートブーツ、愛用のPORTERのリュック。

そんな出立ちで仕事や撮影や街歩きに出かけるたびに、なんとなく感じてきた。
「あ、このままどこまでも行けそう」
と。

つまり、私が感じていた自己肯定感とは、着心地の良さや歩きやすさ、素材への信頼感に基づいた「自由さ」だったのだ。
私はこの服とこの靴でどこまでも歩いていける。好きなときに好きな手段で好きな街へ行けるし、ちょっとしたアクションだってできる。走ったり飛んだり階段を登ったり降りたり、夜景だって海だって見られるし、神社にもお寺にも行ける。この姿のままで、動物園だろうが飲み屋だろうが仕事だろうが朝飯前だ。
なによりその自由を、私自身が心から許している。

私が自分に与えたかったもの

もちろん私だって、老けて見えるより若く見えてほしいし、着痩せして見せたいし、可愛いとか綺麗とか言われたい。センスいいねとか良いもの持ってるねって思われたらちょっとどころじゃなく嬉しい。
けれど、他人からどう見えるかを選ばないこともできる。それが心の自由だと思う。
もちろん仕事で必要なときは、ちゃんとメイクをして、メガネを外して、ジャケットとタイトなパンツに身を包んでパンプスを履く。仕事じゃなくても、自分で判断してそういう服を選ぶときもある。
ただ、その奥底には、いつでも「どこへでも行ける私」に戻れるという揺るぎない自由と自信が満ちている。

鬱を経て体重は10キロ増え、無理ができなくなり、脳はすぐにシャットダウンするようになった。鬱になる前、痩せていた頃にオーダーしたデニムは当然サイズアウトした。いつか痩せる、いつかまた履くと言い聞かせ続けてクローゼットに吊るしてあるが、今履いているデニムも我ながらいい風合いになってきた。
まあ、なんなら痩せなくたっていい。今の私にはその自由がある。
そしてこれこそが、過去の私が、切望しながらも私自身に与えられなかったものだと今になって思う。

私はなんだって選べるし、選ばないこともできる。自由だ。

それってすごい自己肯定感だと思うのだけど、どうだろう。

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