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もしかしたら、文芸サークルの一員として今後登場出来るかも知れないと考えたらサリンジャーを読まずにいられなかった。

ないものねだりは世の常である。

私は、今年に入って文芸サークルに物凄く憧れを持った。それは本というものを主人公にして議論を交わし、お互いに執筆をしながら高め合う。そんな活動が存在していることを初めて知ったからだ。それも部活やクラブ活動と同じような学生生活の一部、青春の一部として、存在していたことを知ったからだ。

ここに出てくる物語は、私の記憶でも何でもないのだが、初めて心の底から他人様の青春を羨ましいと思った作品である。

もう何度書いたか分からないが、私は本を読んでいる人が周りに誰もいない環境で育った。今みたいにSNSも無かったので、ほとんど独学で読書をしてきた。今でもほとんどの知り合いは、私が読書を好きだということすら知らないでいる。

読書という行為に意図を見つけるでもなく、読み込み、思慮するようなこともなく、ただ自分自身の時間の穴埋め作業的なもので読書をしていた。そういうものだと思っていた。

人と本について話すことが面白いと思ったのは、本当にここ数年になる。そもそも読書の感想を伝え合うなんていう行為を想像ですら考えが及ばず、ましてや本を好きな人がいったいどこに存在するのかを知らないままに、齢40を飛び越えてしまったのだ。

しかし、世の中のほとんどの事象とは一度飛び越えてしまえばそこに存在していた不確かな壁など無かったかのようなものであり、案外裏は脆いものだったりする。私はSNSを受け入れ、初めて本を読み込むということをしたり、解釈を人に伝えるということは、とても面白いことなのだと知った。

事実、私が飛び越えた壁の向こうにいた本の話題で私がお会いした方々は、おそらく誰一人として私が口下手な人見知りで、そこに存在するだけの確かなイケメンだとは思わず、ただ上手におしゃべりが出来るイケメンだと感じてくれているはずである。

真偽を審議したい方はご連絡ください。

私が今回なぜ、こうも文頭からフルスロットルなのかというと、ここのところ読んでいた本のせいなのだ。もう、「本のせいだ」とか中年が大声で叫んでもそれを恥ずかしからずに真正面から肯定してくれるような本だったからである。

事の発端は、冒頭の文芸サークルの思い出話の一つとして、他人様の某記事において、こんな記述を見つけたからである。

文芸サークルのコーチから、“ライ麦畑”は大人社会の暗喩だと聞いた部室の廊下。

某記事より抜粋

この記事を目にした時に、読まねばならないと思ったのは必然である。羨ましいと思った他人様の青春を自分の記憶としてすり替えようとしている現在。私も文芸サークルの一員として読まなければならないと感じたのである。

私が、読みますと伝えたところ。

40代の初読みの感想が知りたいとのことだった。

すでに私も、「出身は京都で、女子高の文芸サークルに所属しており、田山花袋や三大奇書にまつわる冒険譚。四柱推命に傾倒しながら晴明神社で名付けてもらうことは叶わないのでコニシ木ノ子と名付けましたと報告しようと考え、乱歩の初版の匂いをイメージしながら自分の谷崎の初版の匂いを嗅ぎ、そしてショーケンからサンボアまでの人情劇に身を置き、恋は稲妻のようにある日突然感電するものを実践してきた」と言えるくらい読み込んでいるので、当然私の記憶の中にもサリンジャーが存在しなければならないと変換されたのである。

つまり、ここまで気持ち悪く自分を説明しながらもそれは何一つ間違っていやしない。それがお前だろ。そういうことなんだ。つまり、「本のせいだ」って言っちゃえよ。ってこの本に、背中を押されたままに書いているのである。

人が好きで、そして嫌いな主人公は、人に付いて回る欺瞞や嘘に嫌気がしている。だけど、人と関わることで自分の存在を確かめようとしている。欺瞞や嘘に迎合することこそが大人になることであり、そんなことをしてまで大人になりたくないんだと誠実に語る。

だけど、そこに至る自分の人生経験の浅さや、人間としての厚みがない部分を嫌いであるはずの人に炙り出された時に咄嗟に、自分を取り繕う薄っぺらい嘘をついてしまう。

何もない自分というのを認めたくないから、取り繕うことをしてしまう。

よく分かる。私も「自分の人生には劇的な何かしか起きないはずだ」ってずっと思ってきた。他の人でもなく、私に限って何も起こらないはずなんてないと信じていた。

主人公は、そこの根拠に何もないことを気付いていながらも、正しい自分の姿を相手に伝えるには、必要な嘘だと納得し自分の嘘を隠す。それもまた、自分が大人になってしまっているようで段々苦しくなる。理解していることを納得したくないのだ。

やがて、「言葉」そのものが不要なのではと考える。だけど、そんな思考も一瞬の本物の美しさの情景に心を動かされ、自分の「決意」や「言葉」の軽さを知る。

主人公は、そんな自分を肯定しているので物語が重く感じることはない。

私は、現在大人になり大人がつく嘘の種類を考えることがよくある。自分のためにつく嘘を失くした気がする。そして、人を思いやっている風に見せて、実際は自分のことを考えている体裁的な挨拶による嘘を選んでいる気がする。社交辞令的なものだ。

昔からそれを嫌いだったが、それをするようになってしまっている。なぜするか。結局は、人と違うということで自分が目立ちたくはない。そういう余計なところで闘いたくない。ということなのだろう。ひどく自分勝手である。

主人公は、まっすぐに正直だ。この生きづらさは誰でも共感出来る。かつて自分が強く持っていたものを、そのまま感じさせてくれるからだ。

私は、本を読む前に自伝的映画を観ていた。映画の中でこの本を読み、影響された読者が作者の周りに急激に存在し始めてこう伝える。

「どうして私のことが分かるんですか?」
「この物語は私です」

どういう状態で、この作品が完成していったのか映画は教えてくれているが、根底にある生きづらさというものは、誰にでも共感を与えることを知れる。そしてそれは、社会を作ってきたと感じている人以外に顕著に現れる。

昔、感じていた気持ちをそのまま突き付けられるこの物語は、本でありながら、自分のことだと考えると時間の経過による、イヤだと思っていた大人をいまだに変化させられていない現状に気付く。

いつの間にか、イヤだと思われている側の人の年齢に近付き、自分が変えられなかった現実を知る。恐ろしいことに、今の若い人達にも同じ思いをさせてしまっているのではないかと思う。

つまり、なんとかしようと出来なかった現実を知ることになる。そりゃ読まれるワケだ。人の根底は何十年も変化していないことを知る。

だけど、この年月の意味は無意味ではない。絶対に根付いている。

この物語は、何歳で読んでみても不変な社会の歪を描いているからきっと私は十代で読んでいても同じことを感じると思う。

好きなことして生きようと。

ないものねだりをして、追従するとたまに自分の存在を確認出来る。だから、読書はやめられない。





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