記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「耳をすませば」を観て。夢とか才能とか、「やる」ということ。

先日、金曜ロードショーで「耳をすませば」を久しぶりに観ました。
初めて観たときから感じていた、切ないもどかしい気持ちを、初めて言葉に残しておこうと思います。

夢とか才能とか、そういったことに分かりやすくフォーカスした作品、そういうジャンルが私は元々大好きなので、「耳をすませば」も例外なく大好き。その描き方が精密で、精密すぎて、本当に終始涙が出てしまう。

オープニングの風景描写だけで涙が出てくる。
私自身、雫たちよりも少し下の世代。だからどんぴしゃじゃないんだけど、なんでこの風景がこんなに懐かしく感じるのか。
多分、この「時代」というよりも、この中学三年生の雫が見ているものを描かれた世界だから、こんなにも懐かしさを感じるんだろう。
例えば、電車の中で見かけた野良猫を追いかけて、知らない街並みを颯爽と走っていく感じ。「猫を追いかけている自分なんて子供っぽい」とかそういう余計なことを考えない純粋な子供らしさを持っている。
雫の周りにいるお姉ちゃん、お母さん、お父さん等大人達も、本当は雫と同じように色々悩み苦しんでいるのかもしれないけれど、それは見せない。雫にはその姿が見えない。だから苦しい。こんな大人に自分はなれない。

「君もかわいくないね。私そっくり。どうして変わっちゃうんだろうね・・・。私だって前は、ずーっと素直で優しい子だったのに。本を読んでもね、この頃前みたいにワクワクしないんだ。こんな風にさ、うまくいきっこないって。心の中で、すぐ誰かが言うんだよね。かわいくないよね」
by.雫

けれども「子供」で居続けられない自分に気が付いているんですよね。もう理屈じゃなく、「本を読んでもワクワクしない」とかそういう「感覚」として、自分が自分じゃない何かに変わっていっていることを自覚している。

そして雫は「自分は将来どうしよう」という、この思春期感満載の問題に直面する。子供って、大人よりも「もう子供ではいられない」という危機感を常に持っていると思います。学年が上がったり中学から高校へ上がったり、分かりやすく「上」へと登っていく感覚がある。そのゴールは「大人」になること。

けれども実際、年齢的に「大人」になってみると、全然まだまだゴールは先だということに気がついてしまい、なんならそのゴールが何なのかすら分からなくなり、しかも子供時代よりその過程は多岐に分かれていて、自分で選択することが増えて、「上」へ進めているのかすら危うくなり、とてもとても苦しい。加えてもしも自分に子供がいるのなら、子供にはあくまで「大人」の自分を示してあげないといけない、という幻想にとらわれてしまい、さらに苦しいのかもしれない。

私も30歳目前にして、未だに自分の夢も才能も分からず、子供もいませんし、恋人もいない。いつまで経っても雫の視点が外れず、この作品に出てくる大人たちはもう神様か何か、別次元の生き物なのではないかとすら思えてくる。

「よし雫、自分の信じるとおりやってごらん。でもな…人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。なにが起きても誰のせいにもできないからね…。」
by.雫のお父さん
「初めから完璧なんか期待してはいけない。自分の中に原石を見つけて、時間をかけて磨くことなんだよ。 手間のかかる仕事だ」
by.聖司のおじいちゃん

こんな的確な言葉で、子供に語って聞かせられる「大人」には、到底私自身なれていなくて。しかも、それが大人としての「ゴール」なのかどうか、それすらも分からないけど。それでも彼らは既に、ある一定の「この世の摂理」みたいなものを見つけている気がして、私も、どうやったらそこへ行けるのだろうと、つくづく思います。

そして雫は、聖司に出会う。

「本当に才能があるかどうか、やってみなきゃわからないもんな」
by.聖司

聖司は、自分と同じ年なのに、「ヴァイオリン職人になるためにイタリアへ行く」という明確なゴールを持っている。でもそれも「やってみなきゃわかんない」とあっけらかんと語ってくる。

自分はこんな風にはなれない、と思い悩む雫だが、

「そうか、簡単なことなんだ。私もやればいいんだ」
by.雫

気が付く。

これが本当に見てて辛いんですよねーー。
自分は今、聖司どころか雫にもなれてないんだよなあ。と。

「やる」ことができるって本当にすごいことだと思います。私の場合、理屈ばっかり頭の中でこねてこねて「やる」ことができない臆病者。

「恐れることはない。遠いものは大きく、近いものは小さく見えるだけのこと」
by.バロン

この台詞は、雫が書いた小説に出てくる言葉。だから雫の自身の思いの代弁とも言える。多分これは雫が小説の中で自分自身に言い聞かせているんだろう。言い聞かせて、言い聞かせて、自分も「やる」のだ、ともがき苦しんでいる。

「私、書いてみて分かったんです。書きたいだけじゃダメなんだってこと。もっと勉強しなきゃダメだって…。」
by.雫

しかしひとつ小説を書き上げた雫は、「やる」ことだけではだめで、それに伴いさらに必要な「やる」ことを見つける。その見つけたことも「やらないといけない」、事実に気が付く。多分雫は、このあとも様々な「やる」ということに向かっていくことになるのだと思う。そしてその度に、この初めて「やってみた」ときのことを思い出すのだと思う。

物語だ、とは分かっていながら、この雫と聖司が着実に階段登って行ってるのに、自分は置いてかれている現実を噛みしめて、つらくてせつなくて、エンディングのカントリーロードをぼーっと眺める。

私自身今30歳を目前にしていますが、多分さすがに何かしら「やって」は来たんじゃないかな、とは思うんです。でもそれが自分自身で納得がいく「やる」に到達していないというか。他人から見てどうとか関係なく、自分が「やりきった」と思うところまでが行くのが大事なのかな。あるいは、そう思えるように視点を変えるのか。

「耳をすませば」本当に大好きな作品です。
いつか次に見るときは、少し成長した視点でこの作品を見られる自分になっていると嬉しいな。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?